2004年03月05日

イギリスを例とした「メディアと動物」考 03

こうした動物虐待を支えていたのが、動物には感情がない(従って苦痛を感じない)とする、いわゆる「動物機械説」である。これに対してホガースやクレアの作品は、動物にも苦痛や恐怖といった感情があるということを強く訴えかけている。
しかし、訴えかけるのは結局のところ人間であり、可哀相という他者への感情は自分のなかでしか起こり得ないものである。わるく言えば、可哀相という感情を押し付けることが、倫理のはじまりともいえるだろう。
このように、動物の感情を認めるようになることが、動物愛護の時代を招来させたのだった。しかもその時代は奴隷や子どもの人格を認めはじめた時代である。つまり時代的背景としては、奴隷や子どもの人格を認めたそのまなざしが、動物の感情を発見させたのだといってよい。
動物や子どものように「かわいい」もの。奴隷が「かわいい」かどうか、私はしらない(奴隷を見たことがないからだ)。しかしながら「かわいい」と「かわいそう」という語源は非常に近いところにあるというのはまちがいない。古文の授業において「あはれなり」という古語に「かわいそう」「かわいらしい」「いとおしい」という複数の訳をあてることは、多くの人の記憶に残っているだろう。
「かわいそう」という言葉は相手に対して多少失礼な感があるが、それをカバーするのが「かわいい」の言葉にこもっているパワーである。ある種、不条理なものをさらなる不条理さで覆い隠すような。
ものの根源に目を向ける流れがある昨今であるが、次のブームを占うのは「かわいい」ものから、さらに立ち戻った「かわいそう」なものであるかもしれない。(おわり)

Posted by Haruna at 2004年03月05日 22:51
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