自分も昔、「金閣寺」を読みました。
「金閣寺」の話しが出てきたので便乗して、かつて自分が付箋を貼った部分を引用します。
(新潮文庫 212ページ)
「子供らしい負け惜しみはやめにするさ」と柏木は嘲笑した。「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるのは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つのかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以って耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
長々とすいません。
さて、世界を変貌さえるのはどちらでしょう。
あるいは、どちらでもないのかもしれません。