芸大生(女性)
彼女は小学4年生の夏休み、自分に課題を課したのだという。
「この夏休み中に、ミッキーマウスの描き方をマスターする。」
見本にしたのは、いとこからもらったディズニーランドみやげのハート形のクッションだったそうで、これを夏休み中描き続けたらしい。くる日もくる日も、彼女はミッキーマウスを書き続けた。
彼女はひとりっこである。ひとりっこのあそびにはこういうものが多いらしい。
兄弟がいないと、遊び相手がいないから、自然と自分一人で勝負をすることになるそうだ。一つのことを思い込んで、とことん演じる。そのせいか、ひとりっこは一見わがままに見えるけれど、なかなか我慢強い面がある。
この一夏の出来事により、彼女はミッキーマウスを描けるようになった。
しかしながら、この一方向からしか、描くことができない。あのときの、ハート形のクッションのミッキーしか、描くことができないのだ。
一夏の思い出は、永遠に続いていく。
東大生(男性)
このミッキーは空を飛んでいるように見える。飛ばした本人は、そんなつもりはないようだった。
ミッキー型のシャレた雲に見えるものは、ミスった耳のシルエットの残骸だ。3度目の正直で顔全体を描いたものの、体を余白に描いていったら、結果的に飛んでいるようになったのだという。
本当だろうか。
まったくもって、絵心のある人にしか思えない。はかりしれないミッキーである。
芸大生(男性)
彼の絵を見た人は「ねっとり」とか「べっとり」とかという言葉をあてるらしい。彼はそれをわりあい気にしているようだった。
そのミッキーは、見たことあるような見たことないミッキーだった。いわゆる「へたうま」とよばれる「反イラスト」系のにおいがするミッキー。
1985年の池袋西武で行われた大展覧会「イラストレーション・ピクニック」のコピーは
「誰でも描ける。誰にも描けない。」
だった。マーチン荻沢氏のイラストレーションのうえに載せられた言葉だったはずだ。
そういう言葉がぴたりと合うミッキー。これが結果として1985年風のイラストレーションとなったのだ。
「ねっとり」したミッキーの懐かしさの原因は、そういう理由だったのだ。
東大生 女性
彼女はつまらない授業中に落書きをする習性がある。過去に彼女によって描かれたキティは数しれない。
ミッキーもそのようにして何度も描かれたそうだが、キティよりも場慣れしていないようだった。
「コギャル」とか「女子高生」とか呼ばれ、ブームの最高潮を波乗りした現在の20代中頃の女性にとって、キティはルーズソックス、ケータイとともに3種の神器的な存在だった。30代の女性にとってのいわゆるジュリ扇みたいなものだといえよう。
そういったことを考慮に入れてキティとミッキーを比べてみると、ミッキーは誰のものでもない印象がある。男の子、女の子、さらには年令の差も超えて受け入れてくれる懐の深さを感じる。第3者から見ても、ミッキー好きのサラリーマンがいたとしても、よっぽどのことがない限り、特別違和感はないだろう。
ミッキーマウスはユニバーサルな存在であるといえるのである。(つづく)
芸大生(男性)
複数の線で模索しながら、正しい形体を紡ぎ出していく方法、とでもいおうか。
デッサンなどでしばしば多用される方法で描かれている。
通常のわたしたちにあるイラストレーションのミッキーのイメージと、デッサン風のミッキーの間には、違和感のようなものがあるようだ。確かにミッキーだけど、ミッキーじゃない。
この絵の作者に、ディズニーランドにいてゲストの写真におさまるミッキーの似顔絵を描かせたら、きっと、ものすごい。
余談だが、ミッキーに「着ぐるみ」という言葉を与えることは、なにか違う気がした。ミッキーの存在は特別である。
絵心とはなんだろうか。
「ミッキーマウス・プロジェクト」は、日常の何気ないまなざしのちからに注目する。