これまでは、堅苦しく言葉の面から物見遊山を考えてきましたが、私自身ちょっと疲れてきましたし、食傷気味ですので、ちょっとブレイク。
2人の人がいました。
2人はそれぞれ別々の列車に乗って、あてどもない漂白の物見遊山に出かけることにしました。
1人は、果てなく続くように見える1本のレールの上を走る高速の列車に乗っています。実は、その線路はぐるりと回って元の所に戻ってくるようになっているのですが、列車に乗ってしまっている彼にはそれはわかりません。神のみぞ知るといったところです。
もう1人は、レールも何もない、ただひたすらの荒野を走る路面電車のような列車に乗り込みました。彼は、レールの上を走る列車上の人以上に、自分がどこを走っているのかわからないことでしょう。
2人の人間を乗せた2つの列車。レールの上を走る列車とレールから外れた列車。
レールに乗っかった列車はいつまでも走り続けます。走り続けて、走り疲れてしまうまで。
レールから外れた列車は、壁にぶつかり、止まってしまいます。それでも走り続けようとあがき続けるのですが、無駄に振動を繰り返すだけです。稀に、自力で方向を修正することもありますが。
しかし私は、レールを外れて走る列車が、その軌道を修正する時というのは、レールの上を走る列車に出会う時だと思うのです。互いに異なる走り方をしてきた2つの列車は、時にはぶつかり反発しあい、時には並走し、その軌道を変えていくのです。
レールの上を走っている人は、レールから外れた人と出会うことによって、自分がレールの上を走っていることに気づきます。そうでない走り方があることも。
レールから外れて走っている人は、レールの上を走っている人と出会うことで、壁を乗り越えて、また再び走り出すことができるのです。
人生とは、そういうものなのではないか、と私は思います。
「遊山」という言葉の意味として、仏教の用語があるというのは興味深いことです。特に、一般にお堅いイメージのある禅宗が「遊]という語を用いています。ここでは、今日我々が時にネガティヴな意味合いで用いる享楽的なニュアンスはありません。
各辞書によって禅宗用語としての遊山の意味を整理すると、
①仏道修行の途中で、他山に遍歴の旅をすること。
②修行を終え、ある種の悟りを得た後の、悠々自適な遍歴。
といった2種類に集約されると思います。①が、単に行為としての意味が強いのに比べ、②においては、悟った後の一点のくもりもない心境というものがポイントになってきます。より精神性の強い意味合いになっているということです。なぜ、ここで遊びという文字が使われるのでしょうか。
そもそも、「遊」という字の一般的な音読みは「ゆう」であり、「ゆ」というのは何か特別な読み方であるかのように思えます。実は、「ゆう」が漢音で、「ゆ」が呉音であるというものなのですが。
漢字というものは中国から入ってきた文字であることはご存知のとおりです。それも突然一気に流入してきたわけではなく、何回かに分けて、断続的に入ってきました。まず、6世紀、朝鮮経由で第一弾が入ってきたとされています。当時の中国は南北朝時代、北朝は異民族(漢民族に対して)の王朝で、南朝が漢民族の王朝でした。その南朝の漢字が日本に持たされたわけですが、その一帯が古来より「呉」と呼ばれる地域であったため、呉音と呼ばれました。一方、漢音は、唐時代に日本に入ってきたとされています。
呉音は、その時に日本に持ち込まれた書物といえば、経典など仏教関係の書がほとんどだったことから、仏教関係の言葉に多く残っています。例えば、遊という字にしたって、遊行上人という場合、「ゆうこう」ではなく、「ゆぎょう」と読みます。
ところが、唐時代(日本では奈良時代)になって、多くの遣唐使が唐の都長安を訪れた際、言葉がまるで通じなかったと言われています。考えてみれば、幕末の薩摩と会津の武士間でも話し言葉が通じず、候文で筆談したという笑い話も残っているくらいです。広大な中国においては、地方によって全くといっていいほどバラバラな言葉を使用していたことでしょう。現在でも、北京語と広東語はまるで違います。
そのことに慌てた日本側は、言わばグローバルスタンダードとも言うべき漢音を正式な字音とすることに決めたのです。
さて、遊び。
『大漢和辞典』によれば、「遊」の字の「あそぶ」という意味の中にも、
①逸楽する。戯楽する。
②旅行する。
③就学する。
④自適する。
⑤暇でいる。
etc.
などというものがあるようです。
仏教用語で言うところの遊山では、おそらく②や④の意味があるのでしょうし、もっと一般的な遊山においては、①の意味が強くなるのでしょう。特に、④の自適するという意味、これは禅宗に対して、老荘思想が大きく影響を与えたことに関係しています。世俗のしがらみにとらわれずに、ゆったりと自然の美を楽しむこと。世俗どっぷりの私からすると、なんとも羨ましくも、私には無理な生き方です。
実は、単に「山遊びをする」といった程度の意味なら、遊山と書いて「ゆうざん」「ゆうさん」などと読むことがあったようです。しかし、「物見遊山」という熟語になった場合、必ずそれは「ゆさん」と読みます。このことの意味というのはいったいなんなのでしょうか。
私には、昔の人の物見遊山をすることに対する思いというものが感じられてしかたがないのです。単なる悦楽、気晴らしという次元を超えたところでにある何か。その何かをこれからの人生考えていきたいなと思っているところです。
物見についてはしばし置いといて、遊山について考えてみることにしましょう。
『広辞苑』によれば、
①山野に遊びに出ること。
②禅家で、すでに修行を終えた後、諸方に遊歴すること。
③遊びに出掛けること。気晴らしに外出すること。行楽。
④慰み。気晴らし。
『小学館 日本国語大辞典』によれば、
①仏語。禅宗で、一点のくもりもないはればれとした心境になって、山水の美しい景色を楽しみ、悠々 自適に過ごすこと。また、他山に修行遍歴の旅をすること。
②山野に遊びに出かけること。花見や紅葉狩、茸狩などに出掛けること。
③遊びに出かけること。気晴らしに外出すること。行楽。
④気ばらし。なぐさみ。娯楽。
⑤巡査をいう、盗人仲間の隠語。
③、④の意味はほぼどちらも同じであり、今現在使用されているような意味合いがこれかと思います。しかし、①、②は全体として主張するところは同じようなことだと思われるのですが、二つの辞書で微妙に違いがあります。
『角川 古語大辞典』によれば、
①禅宗で、他山へ修行遍歴の旅に出ること。また、修行の階梯を終えた心境で、山野の美に参入する こと。
②1より転じて、一般に山野に出て遊ぶこと。また、別荘や近郊・名所・保養地などへ出かけて行楽す ることをいう。行楽。
③気晴らし。娯楽。
とあります。
ちなみに、『日葡辞書』には、Yusan(遊山)として、「野原や林や山などでの遊び」とあり、Yusanni mairu(遊山に参る)は、「上のような所へ気晴らしに行く。」とありました。
「新解さん」による「遊山=ピクニック」説は、この「野原や林や山などでの遊び」という意味から、解釈したものと思われます。それは具体的には、花見や紅葉狩、茸狩であったりするのでしょう。
近世・江戸時代に入り、都市の発展、消費生活の拡大に伴って、各地で遊山が行われるようになります。なかでも、「花見遊山」ともいうべき行事、桜を始め、梅、桃、躑躅などの花の名所とされる場所で宴を開いたりすることが、民衆の間で流行るようになります。中には、平安朝の貴族たちの花の宴を真似たものか、詩歌に興じる文人層もいたようです。
はるか古代において、日本において「花」と言えば、ある時期までそれは桜ではなく梅のことを指していました。梅が日本を代表する花だったのです。今、小石川植物園には梅の花が咲き誇っています。私なんかは会期中には、桜も咲いてくれないかなあと淡い期待を抱いていたりもするのですが。
どうでしょう。たまには、お仕事の合間に、小石川に「遊山に参」ってみてはいかがでしょうか。
前回、歌をポンと投げておいてそのまま、ではいけませんから、解説文のようなものを書きたいと思います。
作者の壬生忠岑(みぶのただみね)は平安時代の歌人です。その身分は終身、宮中の下級の武官であったようで、彼は長歌の中でそのことを嘆いています。しかし、歌人としての忠岑はなかなか素敵な人で、三十六歌仙にも列せられていて、百人一首の中の
有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし
という歌は有名でしょう。
忠岑は、紀貫之らとともに古今和歌集を編纂した人とされていて、古今集の中にも30首あまりの歌が収められていますが、中でも恋の歌が一番多いのです。前回挙げた「かすが野の~」の歌もその中の一つです。
春日大社は摂関家藤原氏の氏神とされ、その例祭には、天皇の勅使が参向するなど非常に賑やかなものでした。古代において「物見」とは、こうした大社の祭礼や、天皇の御幸の行列などを見物することだったのだと思います。ちなみに、そうした祭礼などを見物する際に乗って出る牛車のことを「物見車」と言います。
この「かすが野の~」の歌に登場する男女もそうした物見をする見物人の一人でした。そこに一つの恋が誕生します。詞書にあるように、忠岑が春日祭見物に出てきた際に、同じく見物に来ていた一人の女性に恋をするのです。その後、その女性の家を探し出して、この歌の手紙を贈ったのでした。今こんなことをすれば、ストーカーなどと言われて捕まってしまいそうですが、当時としてはすばらしく情熱的なアプローチだったことと思います。
歌人の窪田空穂はこの歌を、
春日野の雪の間を分けて、生い立ち現れた草の葉の、わずかに見えたところの君は、いずれにいるであろうか、なつかしい。
と解釈しています。そこで生まれる気持ちは「なつかしさ」ではないと思いますが、大体の感じは掴めます。春日祭見物の人混みの雑踏の中で、ほの見た女の恋しさをいって、言い寄るのです。その「ほの見た」ということを表す表現として、雪の間に現れた草の葉と言っているのですが、その比喩のなんと秀逸なことでしょう。真っ白なキャンバスの中にわずかに見える緑色の鮮やかさ。その色彩感覚の見事さだけでなく、チラリと姿を見ただけであるということをも巧みに示してもいます。現代的感覚からすれば、少々アブナイかとも思われるこの歌が、少しもいやらしくなく、情熱的でありながら、清らかな余情すら含んでいるのは、この表現によるところが大きいと思うのです。
話が物見からだいぶ離れてしまいましたので、戻します。ここで、春日祭という「物見」の場は、二人の男女の「出会い」の場でした。それも、雪の間に見える草の葉というような、ほんのささやかな「出会い」です。古今東西、物見遊山を通して、男女間に限らず、いくつもの「出会い」が生まれきたことでしょう。
私は、この「物見遊山」という一つのプロジェクトを通して、何らかの「出会い」が数多く生まれてくれるだろうことを願っています。私自身も、すばらしい仲間たちと出会うことが出来ました。皆さんもたくさんの「出会い」を見つけてみてください。それは人と人との出会いにかぎったことではないのです・・・。
「物見遊山」は「物見」と「遊山」である。と言われても、説明になっていないと思うのが普通でしょうから、次は「物見」と「遊山」それぞれの言葉から探っていきたいと思います。
まず「物見」です。辞書類を総合すると
①見物(けんぶつ)すること。
②敵状偵察。斥候。
③遠方や内部をうかがうための設備。
④見事なもの。見物(みもの)。
ということに大体集約されます。
②の意味や③の意味はひとまず置いて、一般に「物見遊山」というときは、①の意味で使用していると思います。①の目的語として④があると考えてよいでしょう。
我々は現在、見事なものを見物(みもの)とは言いますが、物見(ものみ)とは言いません。この「ものみ=みもの」という意味は、日葡辞書にも出てきます。「新解さん」における物見遊山の意味は、この「ものみ=みもの」という意味を強く反映させているものと言えます。
それでは、「物見遊山」の「物見」が④の見事なものを①見物することということにしますと、一体何を見物するのでしょうか。「新解さん」の言う「見るに値する物」とは何なのでしょうか。
『小学館 日本国語大辞典』によれば、
祭礼や、観賞にあたいする場所、または賑わう場所などに行って見ること。
となっていて、
『角川 古語大辞典』には、
行事、風景などを見ること。
とあります。
『古今和歌集』には、「かすがのまつりにまかれりける時に、ものみにいでたりける女のもとに、家をたづねてつかはせりける」という詞書がついた壬生忠岑の歌があります。
かすが野の雪まをわけておひいでくる草の はつかにみえしきみはも
というものです。このように、大和春日大社の祭礼に出かけていったことを「ものみ」と言っていることが分かります。
もう少し物見遊山というものを言葉の点から見てみることにします。
物見遊山とは、私の理解の範疇では、「観光ぶらり旅行」というものでしたが、
『広辞苑』によれば、
物見と遊山。見物して遊びまわること。
だそうです。物見と遊山って・・・。そのまんまですね。
『小学館 日本国語大辞典』には、
物見と遊山。気晴らしに見物や遊びに行くこと。
とあり、『角川 古語大辞典』には、
野山・海浜・社寺・盛り場などへ見物に出かけ、気晴らしすること。
とありました。
こうして見ると、説明してないじゃん!という説明文が多いこと、また、どの文も似たような内容であることが分かります。『新解さん』の「見るに値するもの」といった書き方が、いかに主観に満ちていて、素敵なものであるかが分かります。『新解さん』の解釈では、物見遊山とは、見るに値するものを見に行くピクニックであるようです。
その他の辞書類においては、「見物」ということと気晴らしということがどうやらキーワードとなるのでしょうか。おそらく、「物見」と「遊山」それぞれの意味をそのまま利用しているかのように思えます。
その解釈でよいのかどうか、次回以降で述べたいと思います。
ちなみに、「見るに値するもの」というのは、一体何を指しているのでしょうか。
サイキンノワカイモンは物見遊山が分からんのか・・・
と嘆いたオジサンがいます。 「ものみゆさん」です。決して「ゆうざん」ではないのです。
でも、正直、私にもよくわかりません。物見遊山って一体何なのでしょうか?
手持ちの『新明解国語辞典(新解さん)』によると、
「物見」の項に
①見るに値する物を見に行くこと。「―遊山」
②戦陣での見張り(役)。
③遠くを見るための、やぐら。望楼。
【―高い】好奇心が強い。〔見聞両面にわたって言う〕
「遊山」の項に
「ピクニック」の意の老人語。「物見―」
とありました。
・・・。 さすが新解さん、意味不明です。「見るに値する物」ですか。何をそう思うかは人によって様々だと思うのですが。そもそも、遊山とは「ピクニック」だったとは・・・。
そんな謎めいた物見遊山、その秘密探訪の旅をしたいと思います。物見遊山の意味が完全に分かるとなんて思ってはいませんが、一生懸命、水先案内を務めさせていただきたいと思います。