2004年03月02日

悟りと遊び

「遊山」という言葉の意味として、仏教の用語があるというのは興味深いことです。特に、一般にお堅いイメージのある禅宗が「遊]という語を用いています。ここでは、今日我々が時にネガティヴな意味合いで用いる享楽的なニュアンスはありません。

各辞書によって禅宗用語としての遊山の意味を整理すると、
 ①仏道修行の途中で、他山に遍歴の旅をすること。
 ②修行を終え、ある種の悟りを得た後の、悠々自適な遍歴。

といった2種類に集約されると思います。①が、単に行為としての意味が強いのに比べ、②においては、悟った後の一点のくもりもない心境というものがポイントになってきます。より精神性の強い意味合いになっているということです。なぜ、ここで遊びという文字が使われるのでしょうか。

そもそも、「遊」という字の一般的な音読みは「ゆう」であり、「ゆ」というのは何か特別な読み方であるかのように思えます。実は、「ゆう」が漢音で、「ゆ」が呉音であるというものなのですが。
漢字というものは中国から入ってきた文字であることはご存知のとおりです。それも突然一気に流入してきたわけではなく、何回かに分けて、断続的に入ってきました。まず、6世紀、朝鮮経由で第一弾が入ってきたとされています。当時の中国は南北朝時代、北朝は異民族(漢民族に対して)の王朝で、南朝が漢民族の王朝でした。その南朝の漢字が日本に持たされたわけですが、その一帯が古来より「呉」と呼ばれる地域であったため、呉音と呼ばれました。一方、漢音は、唐時代に日本に入ってきたとされています。
呉音は、その時に日本に持ち込まれた書物といえば、経典など仏教関係の書がほとんどだったことから、仏教関係の言葉に多く残っています。例えば、遊という字にしたって、遊行上人という場合、「ゆうこう」ではなく、「ゆぎょう」と読みます。
ところが、唐時代(日本では奈良時代)になって、多くの遣唐使が唐の都長安を訪れた際、言葉がまるで通じなかったと言われています。考えてみれば、幕末の薩摩と会津の武士間でも話し言葉が通じず、候文で筆談したという笑い話も残っているくらいです。広大な中国においては、地方によって全くといっていいほどバラバラな言葉を使用していたことでしょう。現在でも、北京語と広東語はまるで違います。
そのことに慌てた日本側は、言わばグローバルスタンダードとも言うべき漢音を正式な字音とすることに決めたのです。

さて、遊び。
『大漢和辞典』によれば、「遊」の字の「あそぶ」という意味の中にも、
 ①逸楽する。戯楽する。
 ②旅行する。
 ③就学する。
 ④自適する。
 ⑤暇でいる。
   etc.
などというものがあるようです。
仏教用語で言うところの遊山では、おそらく②や④の意味があるのでしょうし、もっと一般的な遊山においては、①の意味が強くなるのでしょう。特に、④の自適するという意味、これは禅宗に対して、老荘思想が大きく影響を与えたことに関係しています。世俗のしがらみにとらわれずに、ゆったりと自然の美を楽しむこと。世俗どっぷりの私からすると、なんとも羨ましくも、私には無理な生き方です。

実は、単に「山遊びをする」といった程度の意味なら、遊山と書いて「ゆうざん」「ゆうさん」などと読むことがあったようです。しかし、「物見遊山」という熟語になった場合、必ずそれは「ゆさん」と読みます。このことの意味というのはいったいなんなのでしょうか。
私には、昔の人の物見遊山をすることに対する思いというものが感じられてしかたがないのです。単なる悦楽、気晴らしという次元を超えたところでにある何か。その何かをこれからの人生考えていきたいなと思っているところです。

Posted by nagai at 2004年03月02日 15:19
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