東京大学総合研究博物館所蔵のカニ類標本
武田正倫1) ・ 上島 励2)
1)国立科学博物館 動物研究部 ・ 2)東京大学大学院 理学系研究科
日本産カニ類の分類学的研究略史
日本産カニ類についての最初の専門的研究はDe Haan (1830-1850)による『Fauna Japonica sive Descriptio Animalium, quae in Itinere per Japoniam, Jussu et Auspiciis Superiorum, Qui Summum in India Vatava Imperium Tenent, Suscepto, Annis 1828-1830 Collegit, Notis, Observationibus et Adumbrationibus Illustravit. Crustacea』である.シーボルトにより収集され,オランダに運ばれた標本に関する分類学的研究の大部の報告書で,十脚甲殻類の分類学的研究に関して,世界でもっとも重要な基礎文献の一つである.標本の多くは現在でもライデンの国立自然史博物館でよい状態に保存されていることが明らかにされている(山口, 1993).
1853年から4年間にわたって行われたアメリカの北太平洋調査探検に参加したW. Stimpson は,帰国後,自ら採集した各種の海産無脊椎動物についての分類学研究を行い,カニ類についても多くの新種を記載している(Stimpson, 1857-1858).1871年の大火でシカゴ科学院に保管されていた標本のほとんどは消失してしまったが,甲殻類関係の原稿と図の一部がスミソニアン研究所に送られていたため消失を免れ,アメリカ国立自然史博物館 M. J. Rathbunの努力によって,1907年に出版された(Stimpson, 1907).
Miers (1879) は,日本と韓国近海においてドレッジにより採集された甲殻類を扱い,カニ類に関しても多くの新種を記載している.論文には,Stimpson が採集し,同定した日本産標本がアメリカのスミソニアン研究所から大英博物館に寄贈され,研究に際してそれらと比較することができたと記されている.
1879(明治12)年11月22日から2年間,お雇い外国人教師の一人として滞日したL. H. P. Döderlein が収集した動物標本のうち,十脚甲殻類を研究したのはA. Ortmannである.カニ類は4編 (1892a-1893c) に分かれており,多数の新種が記載された.平成9,10年 (1997, 1998),名古屋大学大学院の西川輝昭教授を代表とする科学研究補助金によって,Döderleinが日本で採集した海産動物標本の調査が行われ,ストラスブール動物学博物館に保管されていることが明らかされた(西川編,1999).
Doflein (1902) が扱ったアジア東部産の十脚甲殻類は多くはエビ類であるが,カニ類ではPilumnus habererimus が新種として記載されている.現在,この学名はケブカガニ科ヒメケブカガニ P. minutus de Haanのシノニムとされている.
スタンフォード大学の日本産魚類調査の際に得られた沿岸産の十脚および口脚甲殻類をRathbun (1902) が報告している.カニ類は44種が記録されているが,新種は含まれていない.
日本産のカニ類について,日本人による欧米の分類学のルールに従った記載的な研究は寺崎留吉 (1902-1905) に始まった.東京帝國大學理科大學動物學教室所蔵の標本で,自ら採集した標本,学生が採集した標本,さらには国内外からの寄贈標本が含まれている.産地は本州中部から九州,沖縄,台湾にわたっている.三崎臨海実験所付近で得られた標本がもっとも多いのは当然であるが,東北地方から北海道沿岸産の標本はほとんど含まれていない.列挙されている産地を引用すると以下の通りである.また,「海外の品は朝鮮仁川港,北米合衆國沿岸の品比較的に多し…」と記されている.「日本蟹類図説」は第23回まで,すなわちオウギガニ科が始まったばかりで突如中断してしまった.最後に(以下次號に接す)となっているが,中断してしまった理由を推し量ることはできない.一連の報文中で,日本人として初めて2新種を記載した.第6回 (1902) のアサヒガニ科トゲナシビワガニ Lyreidus integra,第15回 (1903)のクモガニ科オーストンガニ Cyrtomaia owstoni である.すべて和文であったため,学名が使用されることはなかったが,前種は酒井 (1965) ,後種はSakai (1938)により発掘された.前種の学名はParisi (1914)により記載されたL. politus に代わってしばらく使用されたが,現在ではさらに古いL. stenops Wood-Mason, 1887 が使用されている.後種の学名は寺崎留吉の命名が活かされている.トゲナシビワガニの記載は雄1個体(相模洋ヨドミ,150尋,1898年6月,臨海實驗所澳手熊吉),オ−ストンガニは雄1個体(相模洋ヨドミ,1900年3月ヲストン氏)に基づいている.前種に関しては,原記載のデータに相当する標本が存在する.後種の模式標本は存在しないが,日本沿岸各地の深海域にごく普通に産することから新模式標本を指定するまでもなく,同定上に問題はない.
寺崎 (1902-1905)が用いたカニ類の産地は以下の通りである.本報告中の標本データの記述は旧文字を一部改めたほかは,ラベルに記載された学名や地名は忠実に書き写した.
相模三崎 並に其附近
相模洋(「ゴルデン,ハインド」號探險船(1894年,明治27年)飯島教授,驗所漁夫 等
安房小湊(1885年,明治18年春)
駿河江浦(1884年,明治17年春)
淡路洲本,紀伊和歌浦,田邉 栗山昇平氏
小笠原父島(1894年,明治27年春)故弘田貞守,内山柳太郎兩氏
越前敦賀,能登七尾(1884年,明治17年夏)
備中安倉,瀬島(1882年,明治15年夏)
備後鞆津(1882年,明治15年夏)
壹岐,對島(1891年,明治24年春)波江元吉,土田兎四造兩氏,其後平田駒太郎氏
筑前志賀島
豊後,大分,臼杵(1899年,明治32年春)寺崎留吉
日向細島(1899年,明治32年春)寺崎留吉
薩摩鹿兒島灣内櫻島(1896年,明治29年春)箕作教授,原十太氏
薩摩甑島(1899年,明治c3二年夏)宮島幹之助氏
琉球沖繩 白岩金次郎,小川銀太郎,黒岩恒,田代安定,西周,山岸進,宮島幹之助の諸氏
八重山,石垣,西表宮古島 同上の諸氏並にオーストン氏
台灣一部分 多田綱輔氏,飯島教授
青森灣並に北海道の一部分
De Man (1907) の論文では主として瀬戸内海産のエビ類が扱われており,カニ類は既知の9種が記録されているのみである.
イギリスの標本商 A. Owston が日本滞在中に収集した膨大なコレクションはイタリア,ミラノ博物館に収蔵され,カニ類はB. Parisi により1914年の第1部から1916年の第4部および1918年の第6部に,グループごとに分けて報告されている.日本全国,琉球列島や小笠原諸島に至るまで,多くの産地名を見ることができる.10新種のほか,神奈川県三崎からヒメシオマネキが記録されているなど,記録を信じていいのかどうか疑問の場合も少なからずあることはある.Owstonによって東京帝國大學理科大學動物學教室に寄贈された標本が残っており,後述するように,寺崎留吉 (1903) はA. Owston に献名したクモガニ科オーストンガニ Cyrtomaia owstoni を日本人として初めて二名法を用いて新種記載した.
Balss (1922b, c, 1924) はOstasiatische Decapoden, III-V において,既知種も含めて東アジア産カニ類を総括している.F. Doflein の収集品を主として扱っているほか,Mus. Tokio が頻出し(Zool. Mus. Tokio という表記もある),また,Zoolog. Institut Tokio も見出せる.当時のカニ類分類の第一人者に同定を頼んだ可能性もあるが,むしろ,標本を送るように依頼されたものではないかと推察される.オウギガニ科やカイカムリ科等に関する新種は,これらの論文が出版される以前に予備的な記載が行われているが (1921, 1922a),クモガニ科については,1924年の論文中で3種,1亜種が記載されている.H. Balss により記載された新種のうち,クモガニ科のCyrtomaja horrida japonica の標本中に「1♂ Yodomi, 180 m Tiefe, Mus. Tokio」という記録がある.この新亜種はもう1個体「1♀ mit Eiern, Okinose, 900 m Tiefe, Doflein leg.」に基づいており,位置付けとしては総模式 cotype に当たるが,今回調べた標本中には見出せない.現状では,返却されたのかどうかも確かめようがない.
アメリカ水産局のアルバトロス号が採集して海洋生物の標本類は膨大であるが,1900年と1906年に採集された日本近海産の標本に基づいてRathbun (1932)が23新種を予報的に記載している.
以後は,蒼鷹丸により採集された日本近海産の標本を研究した横屋猷(東京大学),日本産カニ類の分類学的基礎を築いた酒井恒(横浜国立大学)らにより日本産カニ類相が明らかにされてきたことはよく知られている.Yokoya (1933), Sakai (1936,1937, 1938, 1939, 1976)は日本産カニ類の分類学的研究には欠かせない重要文献である.
本目録は、現行の分類体系に基づいて配列し、個々のデータについては、個体数、産地、採集日、採集者等を示す。