ここでは目録No.185以降の標本について、おおよそ番号順に(1)蜷川式胤寄贈標本、(2)小樽・函館の標本、(3)海外の標本、(4)地質学関係者の寄贈標本、(5)人類学関係者の寄贈標本、(6)佐々木忠二郎寄贈標本の6つに大別して、来歴等を記述する。また、41~62ページに掲載した一覧の中から、それぞれ該当する部分を抜粋したものを、表2~4・6~11・13・14・16~28に掲載した。
博物場の終盤を飾るNo.570~No.680の標本を収集・寄贈したのは、後に人類学会を創設する人々で、その中心となるのが坪井正五郎(1863~1913)である。坪井は1877(明治10)年9月に東京大学予備門に入学。1881(明治14)年4月には博物場を見学し、自ら執筆・編集していた『小梧雑誌』に列品室・標本・観覧券のスケッチを掲載している(標本資料報告116号の図版67・68に掲載)。同年9月に理学部に入学したが、「余りに意を人類学に傾けし結果、正課を怠れり」(吉川1933, p.8)として、1学年目を留年している。そして、2学年目の1884(明治17)年3月に有坂鉊蔵や白井光太郎とともに弥生土器を発見し、同年10月に人類学会創立に至る。博物場標本は、坪井が人類学へと傾倒していった学生時代に、仲間とともに収集したものといえる。
坪井は「東京人類学会満二十年紀念演説」(『東京人類学会雑誌』20巻223号、1904年)において、明治15~17年にかけての「遺跡実査」の一覧表を掲げている。博物場No.570~No.680と一致する遺跡名が多くみられ、抜き出すと表15のようになる。
ここでは坪井・白井・有坂らによる文献記録を交えながら、東京→武蔵→下総の順に紹介する。なお、今回の調査で貝標本は確認されなかったため、表16~26では省略している。
目録には土器19点、石器5点、貝21点が掲載されており、石器3点を確認した(表16、図版42-1~3)。現在の台東区新坂貝塚(縄文後期・弥生後期)に比定される。
有坂鉊蔵は、明治16年夏に「上野公園の鴬谷へ下る新坂の右手の崖」に貝塚を発見し、弥生土器を採集したと回顧している(有坂1923・1935)。一方、坪井の「遺跡実査」一覧表によると、明治16年9月4日に坪井が上野新坂貝塚を発見し、同年11~12月にかけて白井らとともに訪れたとしている。No.576の磨製石斧の側面には、「東京下谷区上野公園内新坂貝塚 坪井博士採集」と注記されている(図版42-1)。
② 東京堀ノ内(No.582・787)
目録には土器6点、石器1点があり、年代不明の土器3点が確認された(表17、図版42-4)。
1884(明治17)年の坪井「東京近傍古跡探鑿ノ事」(『理学協会雑誌』7号)には、「余ガ今日迄ニ発見シタル古跡ハ(中略)音羽護国寺、向ヶ丘、上野新坂、道灌山、代々木村、下渋谷村、堀ノ内村、大崎村」とある(坪井1884, p.33、原文では「堀ノ村内」となっている)。また、1886(明治19)年の坪井「東京近傍古跡指明図」(図7)には、中野の西側に「堀ノ内」とある。当時の東京市内からは外れているが、これ以外に該当する地名は見られない。1897(明治30)年に東京帝国大学が発行した『日本石器時代人民遺物発見地名表』には、「豊多摩郡堀ノ内妙法寺裏大宮八幡 坪井正五郎報」とある。以 上の文献記録から、現在の杉並区大宮遺跡付近と推定される。
目録には土器25点、石器2点があり、縄文中期の土器3点を確認した(表18、図版42-5)。
現在の目黒区駒場には、東京大学駒場構内遺跡など縄文時代の遺跡が多数分布する。この場所には1878(明治11)年に駒場農学校が置かれ、1882(明治15)年から佐々木忠二郎が教鞭をとっている。また、同年11月には坪井と農学校生徒の福家梅太郎が、駒場のすぐ南側にある上目黒村土器塚遺跡(縄文中期ほか)を発掘し、翌年『東洋学芸雑誌』19号に「土器塚考」として報告している(福家・坪井1883)。駒場の標本寄贈には、佐々木や福家といった農学校関係者も関わっていた可能性がある。
目録には土器69点、石器5点、獣骨5点、貝51点が掲載されており、縄文後晩期の土器53点、打製石斧など石器3点、獣骨5点を確認した(表19、図版46-3~6、図版53・54)。
向ヶ岡貝塚は、東京大学本郷キャンパス北東側一帯に広がる縄文・弥生時代の遺跡で、1884(明治17)年3月の坪井・有坂・白井による弥生式土器発見の地として知られる。1889(明治22)年の坪井「帝国大学の隣地に貝塚の跟跡有り」(『東洋学芸雑誌』91)では、その弥生土器壺のほか、縄文土器の破片や石鏃の図も掲載されている。坪井の「遺跡実査」一覧表によると、明治16年8月に白井が向ヶ岡貝塚を発見、その後、坪井・有坂らと複数回にわたり踏査が行われた記録がある。
目録には土器1点が掲載されているが、対応する標本は確認されていない。
芝の紅葉館は1881(明治14)年に開業した高級料亭で、現在の東京タワーの場所にあった。坪井の「遺跡実査」一覧表では、明治16年9月と明治17年4月に坪井が「芝紅葉館裏貝塚」を踏査したとしている。現在の港区芝紅葉館内貝塚や、その近くにある西久保八幡貝塚とみられる。
目録では「武蔵草加」の土器100点、石器27点、人骨1点、骨角器・獣骨類52点、貝類29点、および「武蔵貝塚村」の土器44点、獣骨9点が掲載されている。確認された標本は、草加が縄文後晩期の土器12点、打製石斧2点、骨角器・獣骨類34点(表20-1、図版43・47~49)、貝塚村が縄文後期の土器3点と獣骨11点(目録より多い)である(表20-2、図版47-1~3、図版51-1)。このほかに草加の展示板とラベルが6点確認されており(表28)、ラベルには「介塚村 草加 武蔵」などと記されている(図版48)。また、No.638の貝塚村の土器とNo.643の草加の土器が接合することからも(図版47-3・5)、両者は同一の貝塚を指すと考えられる。目録上の点数は合計262点で、一遺跡の展示標本数としては大森貝塚に次ぐ多さである。
坪井正五郎は1886(明治19)年の「東京近傍貝塚総論」(『東京地学協会報告』8-4)で「新編武蔵風土記ニハ草加近傍ノ貝塚ノコトヲ載セタリ」(坪井1886b, p.8)と記している(注24)。『新編武蔵風土記』は江戸時代に編纂された地誌で、「足立郡 巻之四 谷古田領」の「貝塚村」の項に「村名ハ村内ニ貝塚ト云古塚アルヲ以テ起レリトコノ塚邊ハ一円ニ貝殻多ク」とある。
この貝塚を最初に踏査したとされるのは白井光太郎である。1887(明治20)年の「貝塚ヲ貝塚村ニ探ルノ記」(『東京人類学会報告』2巻13号に「神風山人」の名前で寄稿)によると、白井は『新編武蔵風土記』「足立郡貝塚村」の条を読んで貝塚の存在を知り、明治16年7月に「草加駅ノ西一里」のところにある貝塚を訪れたとしている。坪井の「遺跡実査」一覧表でも、明治16年7月に「草加貝塚(発見)白井」と記され、その後も、白井と坪井らは同年8月16日と27日、12月27日と31日に「草加貝塚」を訪れている。
以上のように、「草加貝塚」と略されることが多いが、正確には「草加近傍の貝塚村貝塚」であり、現在の埼玉県川口市新郷貝塚に比定される(注25)。
注24)坪井は同じ報文中で「足立郡大竹近傍貝塚村ノ貝塚」という呼称も用いているが、『新編武蔵風土記』では、「貝塚村」の項の直前に「大竹村」があるため、これも同じ貝塚を指していると考えられる。
注25)足立郡にはもうひとつ貝塚村があり、現在の埼玉県上尾市平方貝塚周辺に比定されるが、博物場目録が刊行された1884(明治17)年以前の踏査記録は見られない。確認できる最初の踏査記録として、明治18年7月に木村政五郎・坪井・有坂の3名で「平方の貝塚村」へ行き石斧を拾ったという記述がある(木村1886)。
目録には土器1点が掲載されているが、対応する標本は確認されていない。
1886(明治19)年の白井光太郎「中里村介塚」(『人類学会報告』4号)で、白井は明治16年冬に中里村の貝塚を訪れ、古代陶器破片十数個を発見し、明治17年1月には白井と坪井両名で再度訪れたとしている。現在の北区中里貝塚に比定される。
目録には土器25点、石器3点、貝16点が掲載されており、縄文後晩期の土器9点と打製石斧2点を確認した(表21、図版44-1~4)。
白井光太郎によると、明治16年に小豆澤村近郊の農夫から貝塚の存在を聞き、9月27日に坪井と二人で踏査して、「土器の破片石斧四ツ貝殻等あまた拾ふ」(白井1900, p.173)と記している。坪井の「遺跡実査」一覧表では、明治16年10月27日に「小豆澤貝塚(発見)白井、坪井」としており、明治17年7月に有坂も踏査している。現在の板橋区小豆沢貝塚に比定される。
目録には土器1点、石器8点が掲載されており、打製石斧5点と磨製石斧1点が確認された(表22、図版50)。
坪井の「東京近傍古跡探鑿ノ事」(『理学協会雑誌』7号)に、坪井発見の古跡として「大崎村」の記載がある(②東京堀ノ内の項参照)。また、「遺跡実査」一覧表では、明治17年1月と4月に澤井廉(きよし)、同年9月に佐藤勇太郎が踏査したことが記されている。
坪井「東京近傍古跡指明図」(図7)には、「上下大崎」と記されており、上大崎村と下大崎村に分かれていたことから、踏査した貝塚は1か所ではない可能性がある。現在の品川区大崎・五反田周辺で知られている貝塚として、上大崎貝塚や居(いる)木(き)橋(ばし)貝塚などが挙げられる。
大森貝塚標本は、No.177までのモース発掘品以外に、No.483(図1枚)、No.558(扁平脛骨1点)、No.658(土器片3点)が掲載されているが、いずれも対応する標本は確認されていない。坪井の「遺跡実査」一覧表では、明治16年10月に白井と坪井で大森を訪れており、No.658が該当する可能性がある。
目録には土器35点、石器4点、貝12点が掲載されており、縄文後期の土器22点、石器3点(No.663= 展示板付き)を確認した(表23、図版51-2・3)。
坪井によると、モースの大森貝塚発掘の直後に、理学部教授(土木工学)のW. S. チャプリンと理学部生徒の石川千代松が西ヶ原貝塚を発見したとされる(坪井1886b・1893など)。1879(明治12)年にはモースも発掘に訪れており、目録No.76~80とNo.178が該当するとみられる(標本資料報告116号に掲載、BB14-1~39・101~104)。坪井の「遺跡実査」一覧表では、明治16年7月に坪井と福家で訪れたとしており、No.661~668はこのときの採集品の可能性が高い。
目録には土器12点、石器6点、貝27点が掲載されており、縄文後期の土器4点、打製石斧4点が確認された(表24、図版44-5~7、図版45-1)。
坪井「東京近傍貝塚総論」(『東京地学協会報告』8-4)に「下総葛飾郡ノ小作村ニテハ貝ヲ掘リ取リテ道普請地形等ノ用ニ供ス」(坪井1886, p.11)とあり、前述の坂尾村と同様に道路普請による貝塚の破壊が発見・調査の契機となったとみられる。また、坪井の「遺跡実査」一覧表では、明治16年12月に坪井と白井で「下総前貝塚、小作」を踏査したとしている。現在の船橋市古作貝塚に比定される。
目録には土器23点、石器3点、骨3点、貝9点が掲載されており、縄文中期の土器16点、打製石斧2点、獣骨3点が確認された(表25、図版45-2~8、図版46-1)。 坪井の「遺跡実査」一覧表では、明治16年11月に坪井と佐藤勇太郎、澤井廉、齋藤賢治で「下総曽谷貝塚」を踏査したとしている。また、1886(明治19)年の「貝塚彙報」(『東京人類学会報告』2巻10号)で、神保小虎が「下総国曽谷貝塚」を報告している。ただし、現在の市川市曽谷貝塚周辺には多数の縄文貝塚が分布しており、『千葉県の歴史 資料編 考古1』では、神保が紹介した曽谷貝塚が、「現在の曽谷貝塚を指しているとは思えない」(千葉県2000, p.704)としている。よって、坪井らが踏査した貝塚もあくまで「曽谷村の貝塚」として理解すべきであろう。
目録には石器1点が掲載されており、打製石斧1点が確認された(表26、図版46-2)。
小作村の項で記述した通り、明治16年12月に坪井と白井で踏査している。現在の船橋市前貝塚堀込貝塚や上山台遺跡群周辺と推定される。