ここでは目録No.185以降の標本について、おおよそ番号順に(1)蜷川式胤寄贈標本、(2)小樽・函館の標本、(3)海外の標本、(4)地質学関係者の寄贈標本、(5)人類学関係者の寄贈標本、(6)佐々木忠二郎寄贈標本の6つに大別して、来歴等を記述する。また、41~62ページに掲載した一覧の中から、それぞれ該当する部分を抜粋したものを、表2~4・6~11・13・14・16~28に掲載した。
博物場目録No.306~482には、アメリカやヨーロッパなど海外標本1002点(No.354とNo.396の2点は日本の標本)が掲載されている(表5)。先述したように、1960~70年代にかけて山内清男・佐原真によって多数の標本が同定されており、そのノートも参考に再確認を行った結果、783点が確認された。大部分はA番号単位でケースに収納されている。一部の標本で目録記載の点数より大幅に多いものが認められるが、注記等に疑わしい点が無い限り、すべて博物場標本と認定した。
以下、寄贈者が分かる標本を紹介する。このうち、今回写真を撮影・掲載したのは、④久原寄贈標本、⑤ローマ博物館寄贈標本のすべてと、①Peabody Museum寄贈標本の一部である。
目録には「from Peabody Museum」として、土器33点、石器125点、貝製品6点、が掲載されており、土器33点、石器105点、貝製品2点が確認された(表6)。目録の記載から大部分はアメリカ各地で収集された標本とみられるが、No.373はデンマークの石器、No.416の貝製品は地名の記載がない。また、No.426の壺形土器(図版20-3)は、博物場展示室の古写真(標本資料報告116号の図版69下)に写っている土器と同一の可能性が高い。
『東京大学法理文学部第六年報』(1878年)の「動物学教授エドワード、エス、モールス氏申報」では、モースが列品場(博物場)の設立を訴えるとともに、展示標本収集のため、東京大学で所蔵している土器等をアメリカの学術施設と交換したことを報告している。そのひとつが「マサチュセット州ケンブリッヂピーボジー古物学博物館」(図1-A)で、「余カ帰省中既ニ贈付ノ見本ヲ擇ヘリ即チ北米古時ノ矢鏃、鎚及ヒ石具土器等ノ考説是ナリ」(注3)として、モースが一時帰国中に東大に寄贈する標本を自ら選んだことを記している。なお、これらの標本にはPeabody Museumによる4桁~5桁の番号が赤字で注記されており、目録にも「Orig. No.」として記載されている。博物場番号の赤字注記はこれを参考に導入された可能性がある。
注3)『東京大学法理文学部第六年報 自明治十年九月 至同十一年八月』(1878年12月)p.71
目録には「collected by S. S. Haldeman, 1880」または「from S. S. Haldeman, 1880」として、「Pennsylvania」などアメリカの土器26点と石器92点が掲載されており、土器25点と石器198点が確認された(表7)。No.355・363・364・365・368・369の石器は、目録の点数より大幅に多い。
Samuel Stehman Haldeman(1812~1880)はアメリカの博物学者で、動物学・言語学を中心に多数の著作がある。1869年からペンシルベニア大学教授として同州のChickies(図1-C)に住み、近所の岩陰で採集した土器・石器等について、1878年6月にはAmerican Philosophical Societyの学会で報告している(注4)。
1880年8月下旬にボストン(図1-B)で開催されたアメリカ科学振興協会(AAAS)の学会では、人類学部門にモースとHaldemanの名前がみえる。前年に日本から帰国したモースは“Prehistoric and early types of Japanese pottery.” ほか3本の報告、Haldemanは “Remarks on aboriginal pottery.” と “On stone axes.”の2本の報告を行ったと記されている(注5)。この学会が標本寄贈の機会となったのかもしれない。Haldemanはボストンから帰った直後に体調を崩し、9月10日に亡くなっている。
なお、標本と同じ棚に収蔵されていたラベルには「Prof. Edw. S. Morse SALEM, MASS. Stone Age Implements for Univ. of Tokio from S. S. Haldeman, Chickis, Pa.」と記されている(西野1997, p.460)。モースが東京大学に送る標本をHaldeman から譲り受け、大学に発送する荷に付けられていたものであろう(注6)。
注4)Proceedings of the American Philosophical Society Held at Philadelphia for Promoting Useful Knowledge, Vol. 17 (1878), p.728、後に報告書も刊行されている(Haldeman 1881)。
注5)Proceedings of the American Association for the Advancement of Science, 29th (1880), pp. 735-736
注6)このラベルは土器片12点(A487)と同じケースで保管されていたが、土器片は博物場目録との対応が認められず、今回の調査では博物場標本とは認定しなかった。ラベルは本来この土器片に伴うものではなかった可能性もある。
目録には「from C. A. Barber」として、「New Jersey」ほかアメリカの土器・石器・貝製品など71点、アイルランドの金属器7点(No.453)が掲載されており、土器37点と石器22点が確認された(表8)。寄贈した人物はアメリカ人考古学者のEdwin Atlee Barber(1851~1916)で、「C. A. Barber」は誤植とみられる。
1876年8月にニューヨーク州バッファロー(図1-D)で開催されたアメリカ科学振興協会(AAAS)の学会では、モースが副議長を務め、Barberが “On the Ancient and Modern Pueblo Tribes of the Pacific Slope of the United States” という題で報告をしている(注7)。また、モースが立ち上げにかかわった雑誌The American Naturalistに、Barberは土器・石器に関する論考を複数発表している。これらを通して両者には交流があり、標本が寄贈されたと考えられる。
注7)Proceedings of the American Association for the Advancement of Science, 25th (1876), p. 340
目録には「from Dr. M. Kuhara」として、カナダのオンタリオ湖にあるウルフ島(図1-E、図2)の土器4点が掲載されており、4点すべてが確認された(表9、図版20-2)。
寄贈者の久原躬弦(1856~1919)は、現在の岡山県津山市出身の化学者。1877年に東京大学理学部化学科を卒業し、1879年からアメリカのボルティモアにあるジョンズホプキンス大学(図1-F)に留学する。この時に津山の両親にあてた手紙が『久原躬弦書簡集』として刊行されており、明治13(1880)年9月10日付けの手紙には、夏休み中にオンタリオ湖畔のケープビンセントを訪れた際のことが書かれている(塚原1978, p.28)。
「過日ケープビンセント滞在中、同処ニ住居スル合衆国前ノ陸軍少佐ホールト申ス人ト知己ニ相成リ一日ヲンタリ湖上ニアル一小島ヘ渡リ米国古代ノ磁器ノ数片ヲ土中ヨリ堀リ出シタリ。此ノ数片ハ曩ニ東京大学教授モール氏ガ東京近傍ニテ発見シタル数片ト一々其質ヲ同クス。」
翌年8月12日付けの手紙にも、これから島で発掘するという記述があり、ケープビンセントから見たオンタリオ湖のスケッチに「古代ノ奇物ノ出ツル島」と書かれている(図3)。
久原は帰国直後の1881年12月に「理学部博物課取締助兼小石川植物園事務掛取締助勤務」として東京大学に採用され(注9)、1884年まで博物場取締掛を務め、目録作成に中心的な役割を果たした。また、明治15(1882)年6月15日付けの文部省往復文書(注10)には、「米国古代磁器碎片 三箇 明治十五年五月十七日 岡山県士族 文部省御用掛久原躬弦」とあり、留学中に発掘した土器を寄贈したことがうかがえる。一方、『東京大学第二年報』では「米国古器物四個ハ理学士久原躬弦ノ寄贈」(注11)とされ、文部省往復文書と点数が異なるが、現存するのは目録・年報の記述と同じ4点である。
注8) Colton's new township railroad map of New York with parts of adjoining states & Canada.(アメリカ議会図書館公開)より
注9) 明治14年12月15日付け文部省往復文書「久原躬弦採用ノ件」。
注10)「服部一三久原躬弦ヨリ献納物品ノ件」。
注11)『東京大学第二年報 起明治十四年九月 止同十五年十二月』(1883年7月)p. 258
目録にはイタリアの土器・土製品86点が掲載されており、79点が確認された(表10、図版21~27)。No.468は目録の8点に対し標本13点と5点多いが、逆にNo.469が目録13点に対し標本8点と5点少ないため、目録の点数が逆に記載された可能性がある。
目録に寄贈者の記載はないが、明治15(1882)年7月22日付けの文部省往復文書(注12)によると、1881年9月にベネチアで開催された万国地理展覧会に東京大学から古器物を出品したところ、ローマ博物館と標本を交換することになり、イタリアの古土器88点が寄贈されたことが記されている。土器はA~Fの6種類に分けられ、記録上はAが6個、Bが13個、Cが18個、Dが13個、Eが1個、Fが38個寄贈されている。標本にも対応する記号のシールが貼られており、判読できたものではAが1点、Bが2点、Cが9点、Dが8点、Eが1点、Fが20点ある。文部省往復文書には土器の出土地としてイ~ヘの6か所が挙げられており、これがA~Fに対応するとみるのが妥当であろう(表10)。しかし、博物場目録にはこれらの地名の記載はなく、すべて「Italy」となっており、出土地ではなく土器の特徴によって分類・展示されていたことがうかがえる。
注12)「伊国威尼斯府万国地理展会ヨリ同国羅馬及フロランス博物館ヨリ交換物品寄贈ノ件」