主な標本の来歴について

ここでは目録No.185以降の標本について、おおよそ番号順に(1)蜷川式胤寄贈標本、(2)小樽・函館の標本、(3)海外の標本、(4)地質学関係者の寄贈標本、(5)人類学関係者の寄贈標本、(6)佐々木忠二郎寄贈標本の6つに大別して、来歴等を記述する。また、41~62ページに掲載した一覧の中から、それぞれ該当する部分を抜粋したものを、表2~4・6~11・13・14・16~28に掲載した。

(1)にながわのりたね寄贈標本


(2)小樽・函館の標本(No.297~304)


(3)海外の標本


(4)地質学関係者の寄贈標本

博物場目録の中盤を彩るNo.483~No.569の標本には、日本各地の土器、石器、骨角器、瓦などが並ぶ。地名のなかには「Hachikanseki, Higo.(No.538・539)」「Ichikawamura, Musashi.(No.540)」「河内郡川村(No.543・544)」「安積高隆寺(No.553)」など、現在の地名との照合が不明確なものもある(注13)。寄贈者が明らかなものとしては、加藤敬介や富士谷孝雄など地質学関係者の名前が見られるのが特徴的であり、以下これらの標本について紹介する。


注13)「Ichikawamura, Musashi.」は古代の瓦資料のため、武蔵ではなく下総国府・国分寺があった市川村(現在の千葉県市川市)の可能性がある。

① 加藤敬介寄贈標本:千葉郡坂尾村(No.505~515)、上坂尾村(No.516~537)ほか

目録には「from K. Kato」として、坂尾村の土器5点、石器21点、人骨2点、角製品7点、および上坂尾村の土器79点、人骨1点、獣骨1点、貝1点が掲載されている。確認された標本は、坂尾村が縄文後期の土器2点と石器8点、上坂尾村が縄文後期の土器46点と獣骨3点である(表11、図版29~38)。上坂尾村標本のうち、No.521は目録ではヒト頭骨片とされているが、確認された頭骨小片(図版32-2)は獣骨の可能性が高い。No.522は目録では土器片1点だが、図版32-1のシカ寛骨に赤字で「522」の注記があり、ほか多数の博物場獣骨(武蔵草加など)と同じ平箱に収納されていたことから、博物場標本の可能性が高いと判断した。No.524の獣骨(図版32-3)は、イルカの上腕骨とみられる。No.525の土器のうち1点(図版33-2)は、大森標本調査の際に確認され、BD04-294として報告したが、上坂尾村標本として本書に改めて掲載する。

千葉郡坂尾村は、現在の千葉市若葉区大宮町周辺にあたる。目録では「Sakaomura」と記しているが、本来の村名は「さんごむら」と読み、18世紀中頃以降には上坂尾村と下坂尾村に分かれていたことが知られる(注14)。ただし、明治時代の地形図や江戸時代の絵図に「坂尾村」の名称は見られるが、上坂尾村の位置や範囲までは示されていない。



加藤敬介
『日本鉱業会誌』326号
(明治45年4月)より

標本を収集・寄贈した加藤敬介(敬助、1854~1912)は越前福井藩出身の鉱山技術者。『東京大学第一年報』によると、1881(明治14)年10月に、当時理学部の助手だった加藤を下総国千葉郡平山村と三合村へ派遣して古陶器を採掘させたという記事がある(注15)。三合村が坂尾村のこととみられ、平山村は坂尾村の南側(現在の千葉市緑区平山町周辺)にあたる(注16)。この坂尾村・平山村発掘については残念ながら報告書が刊行されていない。博物場目録がほぼ唯一の記録といえるが、平山村は目録に記載がなく、加藤が訪れたのは坂尾村だけだった可能性がある。

その後の坂尾村について、人類学会などによって踏査や発掘が行われたという記録はほとんど確認されない。1887(明治20)年の上田英吉「下総国千葉郡介墟記」(『東京人類学会雑誌』2巻19号)では「坂尾村字おしもと」の地名が挙げられ、道路の修繕に貝殻を使用しているため貝塚は痕跡をとどめるのみ、と紹介している(上田1887, p.309)。1890(明治23)年の小金井良精「本邦貝塚ヨリ出タル人骨ニ就テ」(『東京人類学会雑誌』6巻56号)では、当時の人類学研究室が所蔵していた「貝塚人骨目録」のなかに「下総国千葉郡上坂尾村」の右脛骨1点が記載されている(小金井1890, p.46)。博物場目録のNo.512 (坂尾村のRight human tibia、標本未確認)に対応する可能性がある(注17)。1897(明治30)年に東京帝国大学が発行した『日本石器時代人民遺物発見地名表』には、「坂尾村字押モト貝塚」と「上坂尾村貝塚」の名前が挙げられており、これらは上述の上田と小金井の報文を根拠としている。上記以外にもいくつかの文献で、人類学教室所蔵の坂尾村・上坂尾村出土品を紹介しているが、それらは基本的に加藤が発掘して博物場に展示されていたもので、その後の資料の増加はほとんどなかった可能性が高い。

時代が下って戦後になると、地名表とともに遺跡地図が整備される。1953(昭和28)年の『千葉市誌』では、千葉市大宮町地区に押元貝塚、押元東貝塚、上坂尾貝塚の3つの貝塚が掲載されている(表12)。ただし、加藤の調査からはすでに70年以上が経過しており、この上坂尾貝塚を「上坂尾村」と同一とする根拠は認められない。 長らく忘れられた状態になっていた加藤の発掘だが、1988年に佐原真が『東京大学第一年報』および博物場目録の記述を紹介し、「日本考古学史上逸することはできないだろう」とした(佐原1988, p.864)。この時点で存在が確認されていたのは上坂尾村の土器4点のみであったが、今回の調査で坂尾村・上坂尾村の標本が多数確認されたことから、その内容が明らかになってきた。

坂尾村標本は土器が少なく、石棒や磨製石斧といった形の良い石器が多いことから、1つの地点を発掘した資料とは考えにくい。坂尾村滞在中の加藤が、村内の畑や道路修繕現場で採集したもの、あるいは村人から寄贈されたものなどをまとめて「坂尾村出土」とした可能性がある。一方、上坂尾村の資料は縄文後期中葉の土器を主体とし、獣骨等を含むことから、貝塚を発掘した一括資料と考えられる。博物場の縄文土器の中では大森・陸平に次ぐ良好な標本であり、ここではその貝塚の場所を推定してみたい。 図4は、千葉市大宮町周辺で登録されている縄文遺跡を、明治20年測量の地形図(注18)に合成したものである。このエリアにある貝塚の名称は、表12のような変遷を経て、現在では押元貝塚と瀧ノ谷遺跡の2つにまとめられている。押元貝塚は、台地上に広がる縄文中期~後期の馬蹄形貝塚で、現在も一部の畑に多数の貝が散布している(写真1)。上田英吉の記した「坂尾村字押もと」にあたると考えられ、明治時代には付近に集落があったことがうかがえる。一方、瀧ノ谷遺跡は押元貝塚から谷を隔てて北側の台地上にあり、縄文前期~後期ほかの遺跡として登録され、小規模な地点貝塚が点在する。明治時代には桑畑や松林などが広がっていたことがわかる。

さらに時代をさかのぼって、天保9(1838)年の絵図(千葉市1993, p.167)と照合したのが図5である。この絵図にある「長福寺」という寺が、「上坂尾の郷中の榜」にあったという記録が残されている(注19)。よって、このあたりの集落が上坂尾村と呼ばれており、その北東側に押元貝塚があったことがうかがえる。以上のような状況から、加藤の発掘した上坂尾村の貝塚は、当時の集落のすぐ近くにあった大規模な貝塚、すなわち押元貝塚と考えるのが自然であろう。

なお、加藤の寄贈標本としては、これ以外に美濃赤坂の土器1点(No.568、標本未確認)が掲載されている。


注14)『千葉県の地名』日本歴史地名大系12(平凡社、1996年)p. 129、および『慶應義塾大学所蔵古文書目録 農村文書 南関東』「下総国千葉郡下坂尾村〔若林家文書〕」(慶應義塾大学文学部古文書室、2011年3月)

注15)『東京大学第一年報 起明治十三年九月 止同十四年十二月』(1882年7月)p. 37

注16)加藤の発掘に先立つ1881年8月に、伊澤信三郎らが平山村で道路修築に使用されていた貝殻を見て、付近の貝塚を発見・調査している(加部1881)。伊澤の兄の修二は文部省書記官であり、このできごとが加藤派遣のきっかけとなった可能性がある。

注17)坂尾村と上坂尾村の標本の区別は曖昧で、例えば、博物場目録No.508の石棒は、目録上は坂尾村だが、現物には「上坂尾村」と注記されている。

注18)この年に坂尾村は合併して大宮村となるため,坂尾村の名前が見られる最後の地形図である。

注19)文政元(1818)年に坂尾村栄福寺住職によって記された「坂尾村見聞録」(千葉市1977, p. 333)による。

図4 坂尾村周辺の縄文遺跡
明治30年発行2万迅速図「千葉町」に、昭和61年『千葉県埋蔵文化財分布地図(2)』を合成。破線が右絵図のおおよその範囲で、⚫️の辺りに長福寺があったとみられる。

図5 「坂尾村・長峰村絵図」
(天保9年)より

◯の部分に「長福寺」とあり。
(坊谷津自治会所蔵)
(画像提供:千葉市郷土博物館)

 


写真1 押元貝塚(2018年、筆者撮影)畑の日陰部分に白く見えるのが貝殻

② 富士谷孝雄寄贈標本:横浜市中村(No.560~567)ほか


富士谷孝雄(左)とナウマン
(画像提供:フォッサマグナミュージアム)

目録には「from T. Fujitani」として、横浜市中村の土器8点と石器7点が掲載されており、縄文後期の土器2点と打製石斧3点を確認した(表13、図版41)。

収集者は当時の理学部助教授(地質学)富士谷孝雄(? ~1893)である。富士谷は明治15(1882)年12月3日から古物採集のために横浜へ出張し(注20)、その成果を翌年の『学芸志林』第十三巻で「中村穴居考」として報告している(富士谷1883)。主に横穴の調査成果について報告したものだが、付近にあった貝塚も発掘して土器・石器・貝殻・骨類を採集しており、報告には調査地点および土器7点・石器5点の図が掲載されている。今回確認した土器2点と石器3点も掲載資料に該当する(図6)。

この遺跡は、現在の横浜市南区にある稲荷山貝塚にあたる。戦後、米軍住宅地となり消滅したと考えられていたが、2000年に開発に伴って貝塚の遺存が再確認され、発掘調査が行われた結果、縄文時代後期の良好な資料が報告されている(かながわ考古学財団2002)。

なお、富士谷の寄贈標本としては、このほかに羽後国上杉村の磨製石斧1点(No.489)があり、対応する標本が確認された(図版28-6)。目録に寄贈者は記されていないが、『東京大学第三年報』に「雷斧 羽後山本郡上杉村字鳥坂 一個ハ富士谷孝雄ヨリ」(注21)とあるものに一致する。


注20)明治15年12月4日付け文部省往復文書「助教授冨士谷孝雄横濱ヘ出張ノ件」

注21)『東京大学第三年報 起明治十五年九月 止同十六年十二月』(1884年7月)p.281


図6 『学芸志林』第十三巻「中村穴居考」第二図と第三図
(原図の2分の1、◯が現存)

③ 服部一三いちぞう寄贈標本:河内国(No.485・486)


服部一三
『第十回関西府県聯合共進会記念写真帖』(1910年)より

目録には「from I. Hattori」として、河内国の瓦1点と土器4点が掲載されており、瓦1点と土器3点(展示板付き)が確認された(表14、図版28-1・2)。

寄贈者の服部一三(1851~1929)は、長州藩出身の官僚・政治家。地質学者ではないが、日本地震学会の初代会長を務めるなど博識で知られる。1877(明治10)年に東京大学予備門主幹および法学部・文学部綜理補となり、1879(明治12)年には大坂専門学校の綜理を1年間務めている(服部翁顕彰会1943)。この期間に東大理学部から大坂専門学校へ「古物標品七十六種」(注22)、大坂専門学校から理学部へ「河内国産古代碎瓦十七品」(注23)が寄贈されており、この標本交換に服部が関わったと考えられる。


注22)『東京大学法理文学部第七年報 自明治十一年九月 至同十二年八月』(1879年12月)p.84

注23)『東京大学法理文学部第八年報 自明治十二年九月 至同十三年八月』(1881年9月)p.101

ただつね寄贈標本:常陸国下市(No.487)


巨智部忠承
『地質学雑誌』34巻403号(1927年)より

目録には「from T. Kochibe」として、常陸国下市の土器10点が掲載されており、古代とみられる瓦3点、年代不明の土器底部1点が確認された(表14、図版28-3~5)。

巨智部忠承(1854~1927)は長崎出身の地質学者。1880(明治13)年に東京大学理学部地質学科を卒業し、同年7月から准助教を務めた後、10月には内務省地質課に移って地質調査所の設置に尽力した(今井1968)。

巨智部の卒業論文は常陸地方の地質について研究したもので、1883(明治16)年に理科會粹第四帙の附録『概測常北地質編』として刊行されている。標本の採集地である「下市」は、現在の水戸駅の東側一帯を指す地名である。『概測常北地質編』には「常盤村ノ偕楽園中ニハ多クノ緑泥剥石ヲ供用シ又水戸上下ノ市中ニモ庭上ニ多ク陳列スルノ家ヲ目撃セリ」(巨智部1883, p.118、傍線筆者)とあり、地質調査の際に水戸の下市に立ち寄ったと考えられる。

ただし、下市地区に古代の瓦が出土するような遺跡は知られておらず、目録の記述が土器であることとも一致しない。直前の服部寄贈標本(No.485・486)に瓦が含まれるため、目録作成の際に誤りや混同が生じた可能性もある。



(5)坪井正五郎ほか人類学関係者の寄贈標本


(6)佐々木忠二郎寄贈標本(No.681~710ほか)

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