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旧東京医学校本館(現小石川分館)の保全と活用

藤尾 直史


現在の小石川分館の建物(旧東京医学校本館)は、創建以来数度の大改修を経ている。

 1876年(明治9)に本郷キャンパス東部(現東大病院)に創建されたこの建物は、四面に時計を配した象徴的な搭屋を特徴とするものだった。これは大講堂(安田講堂)竣工(1925=大正14)の約半世紀前のものである。ところが1911年(明治44)に本郷キャンパス西部の赤門のすぐ脇(現経済学部)へ移されることとなった。これは東大病院の建物群の再編成に「差障」とされたためで、しかも約半分は神田の学士会へ移されたため、奥行きが短くなった。また塔屋も時計なしの小規模なものとされた。

図1 旧東京医学校本館の写真(医学図書館蔵)。1876年(明治9)の創建後間もない頃のもの。奥行が長く、付属屋が付き、屋根が大きく、塔屋には四面に時計が配されている。 図2 旧東京医学校本館の図面(『東京帝国大学医科大学医院病室改築ニ付差障建物(赤門内ニ)移築之図』本部施設部蔵)。1911年(明治44)の移築改修の際のもの。規模的な改変に加えて搭屋・窓枠・手摺の意匠が創建当初と異なっている。

図3 展示室に露出された柱の1本。斜め方向の手斧らしき加工痕の存在を確認できる。
 現在の小石川分館の規模は事実上このときに決まった。また西洋古典主義風の窓枠や、和風の擬宝珠高欄形式の車寄上手摺の意匠もこの移築改修時のものである。ところで和風意匠という点では、当時すぐ脇に位置した赤門とともに、同じ1911年に着工した正門(11月着工、翌12年6月竣工)との関係が興味深い。

通常鉄部の意匠を決めた帝大工科大学伊東忠太設計とされる正門は、1912年に帝大営繕課長となる山口孝吉が原案を作ったことも知られるが、瀧川「濱尾総長には頗其案に苦心せられ、我国固有の形式を採り、努めて武士道精神を表彰すべく、然も五分科大学の建物と相対してふさはらしからしめんとの希望にて、冠木門の形式を範とし、之を構造するに永久的材料を以てせん事を案出せられたり」(『建築雑誌』)、山口「先づ総長の注文と意向とに聞き、日本的の即ち冠木門風にすることとした」「総長の注文といふのは日本趣味を応用して而も内部の西洋建築と能く調和を保たしむるやうにしたいとのことであった」「冠木門は武家の門であるから武士道を鼓吹する處の門であるといふ意味も自づと現はし得ることゝ思はれる」(『建築世界』)などとあるように、山口の原案は帝大総長濱尾新の意向を反映したものらしい。

 じつは旧東京医学校本館の移築も濱尾の意向を反映したもののようで、学士会の建物について「全く新設するよりは幾分の助を得られる機会にこれを造った方が其事を捗取らすに便益がある」「折節医院の一部改築の際にて俗に時計台と称してゐた厦屋が不要に属し取り除けられることになりたるにより、その材料を利用したらよろしかろう」と考えた上で、「その前部に当る方を構内の一部に移転し土蔵を増築して史料編纂掛の用に供し、後部の方を本会に下付せられこゝに移して、この新館に充てたのであります」(『学士会月報』)と述べている。

その後の痕跡調査は前者を後部とするが、いずれにせよ「差障」とされた建物にとって、このときの総長の一声は大きな意味を持っていた。

 また前者の移築改修の設計は山口が担ったようである。ところで法科大学講義室(八角講堂)、医科大学法医学・病理学・解剖学・薬学教室など山口設計とされる数々の建物は震災もあり多くが現存しないが、東大本部施設部に図面が伝わっており、現在その図面の実物を精密な木工復元模型とともに小石川分館で見ることができる。とりわけ旧東京医学校本館の場合は遺構・図面・模型を見ることができるが、現存遺構も部分的には本部施設部の図面をもとに復元されたものである。

 1970年(昭和45)に国の重要文化財建造物に指定された。それに先立ち、65年に本郷で解体され、69年に小石川植物園内の現在地に再建された。この移築改修時に外壁の塗装の調査が行われ、1911年当時の塗装が再現されたが、内部の2階の床を張らないなど積極的な活用は意識されなかった。とはいえ「標本館」と登録されたことは今思えば示唆的なことだった。

図4 展示室に露出された柱・梁・小屋組。構造メカニズムの露出は小石川分館の主要展示品の1つである機械機構模型などの教育模型の精神とも通底する。
 2001年(平成13)に東大博物館の分館(小石川分館)として開館された。改修にあたっては国の重要文化財建造物としての文化的な価値を保全しつつ、内部を大学博物館の分館として積極的に活用することが意識された。

 遺構の保全という点では、古い壁体の内側に新たな壁体を作り、正面扉や窓も二重とし、遺構への影響の軽減を図った。これは展示空間の気密性を高める意味もある。

 その一方で1階展示室の丸柱の組物等を復元したが、階段の位置は復元しても、手摺の意匠は擬宝珠付とはしないなどの取捨選択を行った。

 遺構の活用という点では、旧来の間仕切壁を廃し、構造・設備をコア状に集約し、扉を大きなガラス扉とすることで、広く一体感のある展示空間を実現した。その一方で展示空間の内部の旧材を保全しつつ露出することは、比較的抽象的な展示空間に適度な偏差を作り出すこととなった。

 現在の小石川分館の建物は、創建以来の数度の大改修の結果を反映したものとなっている。特に活用を重視した1911年の移築改修、保全を重視した1969年の移築改修とともに、保全と活用の両立を目指した2001年の改修工事の意義が大きい。

保全とは明治初年の木造擬洋風建築特有の様相を残し、東京大学創立以前の由緒を伝える貴重な建築遺産の保全であり、活用とは日本全国の学校建築に関する資料あるいは東大内部の各種学問分野の標本・模型・器具などの学術遺産の体系的な保全施設としての活用であり、この両立を目指した2001年の改修工事のコンセプトは、学校建築と各種学問分野の学術遺産の統合を目指す現在の小石川分館の展示のコンセプトとも近い方向性を有している。

 

 

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(本館助手/工学史料学・建築史)

  

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Ouroboros 第16号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成14年1月10日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館