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東京大学コレクションXII

「真贋のはざま——デュシャンから遺伝子まで」

西野 嘉章


フェイク・タウン、東京のヴィーナスフォートの一角
巷には「コピー」が溢れている。否、溢れ返っているというべきか。有名ブランド商品のコピーはどこにでも見つかり、最早話題にもならなくなった。いかなる対抗策を講じても、いつのまにか登場してくるニセ札にしてもそうである。書画骨董といえば古くから贋作や偽作がつきものであるが、いまやそれらを巡る話がテレビや小説やコミックでもてはやされる時代でもある。他方、日毎大量に生み出される本、新聞、雑誌、コンパクト・ディスクなどの出版物はそれ自体が印刷されたモノ(コピー)である。と同時にそれらが様々な複製手段により拡大再生産を続け、止むことがない。それに輪を掛けたのが各種コピー機器の普及である。それらが高速通信ネットワークと結節したことで、複製物や不法コピーの拡散連鎖にも歯止めがかからない。ひと昔まえには偽版や海賊版による著作権や商標権の侵害が取り沙汰されたものだが、今日の実態ではそれらの存在自体さえ有名無実化してきている。

「コピー」が氾濫する一方、教育施設や博物館には参照用として各種の模型や模造や複製が用意されている。それらもまた、紛れもない「コピー」である。人々の暮らしと自然生態系との絆がやせ細るなか、レプリカ、雛型、復元物、つくりもの、ジオラマなど代理物の果たす役割は以前にも増して重要なものと見なされるようになった。そのため、現実体験は疑似体験へ、疑似体験は仮想体験へなし崩し的にすり替えられていく。こうした流れに拍車を駆けたのは先端諸技術の飛躍的な発展である。デジタル技術は同一コンテンツの限りない再生産を可能とすることで複製技術時代の新しい位相を用意した。生命現象の解明を企てるバイオ工学は、夢物語と考えられていたクローンの存在を現実化する一方、遺伝子の転写システムをわがものとし、先端医療への応用やバイオ・コンピュータの開発を現実的なものに変えつつある。

南米ペルーのクントゥル・ワシ遺跡で発掘された十四人面金冠(レプリカ)、総合研究博物館蔵 中国古代竹簡(贋作)、個人蔵

藤田吉香模写、プラド美術館蔵フラ・アンジェリコ作『受胎告知』裾画(模写)、教養学部美術博物館蔵
 もちろん、「コピー」の氾濫はモノの次元、技術の範疇に留まらない。われわれの身体を取り巻く環境も変質させているからである。たとえば、都市景観の基本的な構成要素である建築物のことを思い出してほしい。古くからどれほど多くの「コピー建築」や「フェイク」が見出されてきたことか。それらに市民権を与えたのは、19世紀後半から世界の主要都市で開催されてきた各種の博覧会であった。会場の至るところに世界の有名建築や記念物の縮体コピーが用意され、来場者は居ながらにして世界巡遊を体験できたのである。それと同じ仕掛けが現代の遊園地やテーマ・パークにも受け継がれ、いまやショッピング・モールまでヨーロッパの観光都市の姿そのままに出現する。現代人はもはや疑似体験を意識しないほど、「コピー」に飼い慣らされてしまったのである。

 それが文化事象であれ産業技術であれ社会現象であれ、「コピー」への依存はいまに始まったわけではない。思えば、人類は道具を作り、それを生存の手段とし始めたときから、「コピー」を繰り返してきた。そのことは最初の道具の一つであるハンドアックスの形状が、数十万年にわたって不変であり続けてきたという事実からも明らかである。同一の形状が維持される。とはすなわち、同じ身振りが、その意味を問うこともないまま、機械的に反復されたということ。はるか昔の人類の生存のあり方は、誤解を懼れずに言うならば、同一の原子構造をうむことなく反復的に生成し続けることで相同のかたちに結晶する鉱物のあり方と似ていなくもない。

 当然のことながら、文明の成立と展開もまた「コピー」と無縁ではあり得なかった。古代エジプトにおいてすでに贋物作りが行われていたのは周知の事実である。古代ローマの人々は、自分たちの崇拝するギリシアの彫刻を盛んに模刻させたという。また貨幣の流通する社会にあって、偽金の登場しなかった時代もない。ルネサンスのイタリアにおいても「コピー」は身近にあった。たとえば、色大理石が調達できない場合、漆喰に大理石模様をだまし絵で描いたものが代用とされた。マントヴァ公の宮殿は至るところにそれが見出され、さながら「フェイク」の館の趣を呈している。近代の複製技術時代に入ると、肖像画が安価な肖像写真に取って代わられる。ここでは英語の「コピー」(copy)がときに肖像を意味することに思いを馳せよう。手間暇のかかる版画は写真整版による安価な印刷物に取って代わられ、さらには電子化されたデジタル・プリンティングへと移行する。「コピー」をとる、これが現代生活の基本の一つである。かくして、われわれの生活空間は「コピー」で埋め尽くされることになった。

イランのギャップ遺跡(紀元前4千年)で発見されたゴブレット(模型)、総合研究博物館蔵
郵便物(左)と偽造郵便物(右2点)、内藤コレクション

赤瀬川原平、大日本零円札発行所「零円札」、1969年、個人蔵
ラファエルロの『小椅子の聖母』の銅版画(写真複製)、1850年代末、個人蔵
ダゲレオタイプ、1850年代、個人蔵
壷型土器(重要文化財)(右)とその模造(左)、総合研究博物館蔵
「無から有は生じない」という。この格率に倣うなら、イメージにせよ事物にせよ、型(タイプ)には必ずそれを先駆ける原型(プトロ=タイプ)があったはずである。古代ギリシアは両者の関係を模倣(ミメシス)の概念で審美的・哲学的に昇華し、中世キリスト教はそれを模倣(イミタチオ)でもって宗教的・道徳的な実践につなげた。同様の作業仮説として、現代のわれわれには複製(コピー)がある。ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』のなかで、近代の複製技術がなにをもたらすのか、的確に予言してみせた。しかし、現在のわれわれの置かれている状況は写真誕生に複製時代の起源をみるベンヤミンの議論の射程を、はるかに超える段階に来てしまっている。デジタル技術やバイオ工学の分野では、すでに「似たモノ」の実現でなく「同じモノ」の併存が現実化している。とならば尚のこと、なにをもって存在の自己同一性とすべきか、ものごとの根幹は捉え難いものとなる。

 「コピー」については、二つの側面を見て取らねばならない。一つは「モノとしての複製」。もう一つは「行為としての複製」である。前者については複製の対象とされるモノ、言葉を換えるなら、アプリオリに存在する「オリジナル」とその「コピー」との物理的な差異や類似、あるいは両者の審美的な価値や社会的な機能を問わねばならない。また後者については、模倣する、複製する、再現する、擬態する、転写する、反射するなどの振る舞いや現象が、人間社会の営みや自然生態の存続、さらには鉱物世界の生成にとってどのような意味や機能や機制を持つのかが問われるに違いない。「モノとしての複製」と「行為としての複製」、これら二つの分明な範疇をない交ぜにした「コピー」論は不毛である。

 「コピー」を物象として捉える場合、つねに引き合いに出されるのが「オリジナル」と称するものである。すると、すぐさま「コピー」と「オリジナル」の二項の対立が始まり、永遠の不和に至る。と同時に、「オリジナル」崇拝がにわかに熱を帯びる始める。対する「コピー」は、胡散臭いもの、補完的なもの、代理的なもの、派生的なものとして相対的に卑しめられ、「オリジナル」に対する地位恢復が望めなくなる。しかし、「コピー」と「オリジナル」はそう簡単に峻別できるのだろうか。

たとえば、ラファエルロの描いた板絵『小椅子の聖母』を複製した銅版画、それを複写した初期鶏卵紙写真が残されており、これが展覧会図録に図版として掲載される。確かなことは、原画像が、画板を出発点にして、銅版、版画用紙、カロタイプ紙ネガ、鶏卵紙、フィルム、磁気ディスク、印刷原版、図録用紙まで、時代に応じた支持体の上で意図するとしないとに関わらず様々なノイズを抱き込み、変形を蒙りながらも、かろうじて現代まで維持伝達されているということである。こうしたプロセスを経てはじめて原画像がわれわれの許にまで届けられているという現実を前に、なにをもって「オリジナル」とするのか、それを問うても始まらない。なぜなら、銅版の先駆けに原画が、版画用紙の先駆けに銅版が、紙ネガの先駆けに版画がそれぞれ存在するように、プロセスの全体がオリジナル/コピーの連鎖によって成り立っているからである。問われるべきは、むしろ、「コピー」されることで、板絵としてこの世に一点しか存在し得ないラファエルロ作品の原イメージが、マス生産され、社会に広く普及することの意味、さらにはその過程で存在物に固有な質感や触感やサイズが置き去りにされ、結果として等質にして均様にして可変性に富む複製物になることの意味なのではないだろうか。

ところで、「コピー」を否定的なものとする考えは、歴史的に見てそう古いものではない。すなわち、近世に入りオリジナリティが賞賛されるようになってはじめて「オリジナル」の優越性が確立し、同時にそこから派生するものを蔑むような風潮が生まれたのだから。オリジナリティを盲目的に崇拝する近世以降の感受性は、人間存在の独創的な表現を実現した画家ジョットを高く評価する反面、彼を師と仰いだジョット派の画家たちの仕事を模倣者(コピイスト)として遠ざける傾向にある。しかし、師の仕事に倣うことを当然のことと受け止めていた弟子たちは、自らの生業をコピー稼業と自嘲的に捉えていたわけでは決してない。ビザンツの聖画像(イコン)のことを考えるなら、そのことはさらに明白である。一千年以上にわたって同一の図像が同じ様式・流儀で繰り返し描き継がれる東方キリスト教世界にあっては、「コピー」と「オリジナル」を峻別する二元論的な思考枠組みが、もとより成立し難い。神の霊的な光に庇護された「真なるもの」を写し取ることには、表現のオリジナリティなどという近代的概念の立ち入る隙きもなかったからである。

 「コピー」の重要な側面の一つは、モノの存在を唯一性の軛から解放する点にある。それまで一つしか存在し得なかったものも、コピーを通して複数存在するようになる。所有ないし共有の概念が、複数の個人や集団のなかでの分有の概念に取って代わられ、唯一物が一挙に社会へ浸透して行くという現象は珍しくない。現に、独裁者やカリスマ、スポーツのヒーローやマンガのキャラクターの姿はマス・メディアを通じて広く社会に流布し、それをイコンとして分有する個々人や社会集団を一つに纏める役割を果たす。為政者が「コピー」の有するこうした機能を知悉し、それを体制の統治に活用しようとするのは当然だろう。たとえば、紙幣や認証印がそうである。近代の印刷技術が誕生するはるか以前から存在する原初的な技術の下に生み出されていた古代中国の印刷紙幣も、中世ヨーロッパの公的文書に施された封蝋や近世日本の文書に捺されている花押や印影も、それらが有効に機能する地理的な広がりは同時にまた、そのコピー権を行使する権力の及ぶ範囲と重なり合う。今日の社会に流通している紙幣は、まさしく政府の管理下で大量に生み出される複製物である。それらの複製権・流布権の掌握と管理がいかに体制存続と秩序維持に枢要かつ不可欠なものであるか、改めて考えてみる必要がある。

 こうした問題を考える段になると、オリジナル/コピーの二元論は、俗に言うホンモノ/ニセモノの二項対立図式と単純にすり替えられないことが分かってくる。ホンモノの紙幣は印刷物(複製物)である。また、明治23年の教育勅語発布とともに全国各地へ下賜の始められた御真影も、真正のそれはやはり公の管理の下に複製されたものでなくてはならなかった。オリジナリティを有するもの、すなわち天下一物のものであっては、紙幣も御真影もその社会経済的・イデオロギー的機能を全うできない。こうしたケースでは、一見したところ寸分違わずに見える精巧な複製物(コピー)であることが、ホンモノにその存在の根拠を与えていると理解することができる。

 「コピー」をいかがわしいものとして遠ざけてきたのは、美術や文学など、もっぱら創造性や独創性にその存在価値を見出そうとする立場の人々である。もちろん、こうした意見にも傾聴に値する点がなくはない。レオナルドの『モナリザ』を言葉の包括的な意味で凌駕するコピー作品など存在したためしがない。そのことを見ても明らかな通り、模写にせよ贋作にせよ、コピーはオリジナルを超えることがないというのである。たしかに、これが通り相場かもしれない。しかし、オリジナル作品がオリジナルである所以は、その裡に創発的な要素が含まれるからであり、その創発的な要素が必ずしも形式的な完成と結びつかないこともまた経験的な事実である。

 コピーが繰り返えされる。すなわち同一の身振りが反復されるなかで、創発的な要素に対し、それに相応しい形式が纏め上げられ、やがて全体のイデアが十全な成熟に至る。一人の芸術家が生涯をかけ独創的な個人様式を完成させることも、また一つの時代様式が技術の継承を通じて洗練の度を極めることも、反復、模倣、再現、学習など、行為としての「コピー」を根底におく人間的な営みの成果である。ラファエルロの描いた、あの完全無欠とも思える聖母像でさえ、形式と技術の両面において、画聖に先んじる名もない画工たちが世代を超えて幾度となく反復を繰り替えし続けてきたこと、それらの逢着点と言えなくもないのである。

 

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(本館教授/博物館工学・美術史)

 

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Ouroboros 第15号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成13年10月19日
編集人:西秋良宏・佐々木猛智/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館