全世界的に地球温暖化をはじめとする地球環境の破壊が問題視され、人類を含む生物全体の将来が危惧される時代になった。日本周辺の海洋環境も例外ではなく、徹底的に乱開発された結果、日本の豊かな自然は衰退の一途をたどっている。
近年、環境保全対策の第一歩として、生物多様性の現状を把握するための研究が行われている。その成果は、特に保全を要する貴重生物のリストとしてまとめられ、「レッドデータブック」の名称で公表されている。貝類にも多くの絶滅危惧種が含まれており、イタボガキはその代表例である。
イタボガキは1980年以前までは食用種として大量に漁獲されるほどの普通種であった。しかし、1980年代中頃より全国各地の沿岸から忽然と姿を消し、誰も気がつかぬうちに超貴重種になっていたことが最近になって知られるようになってきた。
イタボガキは殻長15cmに達する大型のカキである。殻は扁平で、右殻には檜皮状の薄板が重なる。学名のOstrea denselamellosaは、この特徴的な彫刻にちなんで名付けられたものである。漢字では「板甫牡蛎」と表記するが、その由来は不明とされている。
本種は内湾の浅海に生息し、礫に付着して生息する。文献上は房総半島以南(太平洋側)・北海道南部以南(日本海側)〜九州西岸・朝鮮半島・中国に分布すると記されている。しかし、これは既に過去の記録である。現在、日本国内で確実に本種の生息を確認できる場所は瀬戸内海西端の周防灘のごく狭い範囲に限られている。九州西北岸、中部西岸にも生き残っている可能性があるとされているが、近年生貝が採集されたという確実な記録はない。
写真の標本は、筆者が1998年12月30日に山口県宇部市床波漁港のタコツボの中から採集したものである。残念なことに動物体の部分は既に乾燥して干からびており、動物体の液浸標本を作成することはできなかった。しかし、紛れもなく本種の生存を証明する貴重な標本である。
イタボガキが絶滅寸前に追い込まれた原因は分かっていない。しかし、それが人間による何らかの環境破壊活動に起因することは想像に難くない。食用に漁獲されるほどのカキの普通種が急激に個体群を縮小し、絶滅が危惧されるようになるとは未曾有の異常事態である。一般には知られていない多くの貝類も生息地が次々に失われており、イタボガキの異変は氷山の一角にすぎない。
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日本国内の様々な貝類コレクションを調査してみると、学術的に質の高いイタボガキの標本は意外なほど少ない。食用種はいつでも採れると馬鹿にされ、しばしば標本にすらされていない。また、貝殻の標本は残されていたとしても、正確な産地・採集年月日が記録されていない。現在普通に採集できる種であったとしても将来にわたって永続する保証はなく、イタボガキの標本は博物館にとっては一つの教訓を示している。
かつての貝類コレクションは、「珍品」が多いほどすばらしいコレクションであるとされた。しかし、現在では、いわゆる「普通種」に対しても標本が完璧に作成され管理されているかどうかが、コレクションの質を評価する一つの基準になり得る。そして、貝殻だけでなく動物体が保存されていれば、その種の生存を証明する絶対的な証拠となる。採集データの明確なイタボガキの液浸標本が残されていたとすれば、それは間違いなく第一級の学術標本である。
(本館助手/動物分類学・古生物学)
Ouroboros 第15号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成13年10月19日
編集人:西秋良宏・佐々木猛智/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館