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広開土王碑の拓本

早乙女 雅博


写真1 拓本をとっている風景
写真1 拓本をとっている風景
(正面が第I面)
写真2 第I面上半部拓本
写真2 第I面上半部拓本
写真3 石灰により改変された文字
写真3 石灰により改変された文字
(本来は「履」)

博物館の建築史部門がもつ資料は、(1)考古遺物約2000件、(2)ガラス乾板約290箱、(3)拓本・摸写・図面類約700点の3種類に分けられる。これらは、1945年以前に関野貞、伊東忠太、藤島亥治郎により集められたもので、地域でみると朝鮮半島のものが圧倒的に多い。そのうち(1)の晋州水精峯・玉峯古墳や下詩洞古墳から出土した土器や鉄器、(3)の高句麗古墳壁画の摸写などは展覧会にも貸与され、研究者の注目を集めるとともに、日朝韓の文化交流や相互理解にも役立っている。これ以外にも重要な資料が多くあるが、修復を必要とするものばかりで活用できないのは残念である。
ガラス乾板はまだ確認していないが、考古遺物、拓本・摸写・図面類のほとんどは関野貞が集めたものである。関野は、朝鮮総督府の内部地方局第一課が行なった史蹟調査を担当し、考古学・美術史・建築史に関する調査のため毎年のように朝鮮に渡った。この時に集められたものの一部が建築史部門の資料のなかに入っている。ここでとりあげる広開土王碑の拓本はそのような資料の一つであり、今年より始められた整理作業の過程で新たな事実が分かってきた。なお、整理作業には韓国国立文化財研究所の協力を得ている。
碑は、高句麗の都がおかれた中国吉林省集安市(北朝鮮との国境に面する)にある。西暦414年に立てられたもので、広開土王の事績が記されている。そして、碑文のなかに倭(日本)が高句麗と朝鮮半島で戦った記録がみえ、高校の教科書にも取り上げられているので、記憶に残っている方もいらっしゃるだろう。碑文の文字は、高さ6.39mにもおよぶ角礫凝灰岩製の四角柱の四面すべてに刻まれ、合計1775字よりなる。石碑は1880年頃に発見されたが、表面は風化して亀裂が入ったり剥落した部分もあり、また字画をはっきりさせた拓本を採るために石灰を塗って文字を作り直したりしたので誤った文字もある。全体のうち約200字はそのようなわけで読むことができない。
建築史部門がもつ拓本は、白色の薄い単層紙で、縦65cm、横40cmの長方形の小紙を右から左へ上から下方向へ碑面の上で貼り合わせている。第I面の拓本は小紙9段よりなり、全体の大きさは縦533cm、横142cmで1つ1つの文字は読みやすい。2行28字「郎」の裏に石灰が付着しているので、碑面に石灰を塗ってから採った拓本(石灰拓本と呼ぶ)であることは明白である。また、右中央から左上に延びる碑の亀裂が拓本に断続的に表わされるのが特徴である(写真2)。これを東大建築史本と呼んでおこう。工学部建築史研究室が保管する古い台帳をみると1914年3月30日に登録されている。そこで関野の史蹟調査を調べると、1913年10月に集安で広開土王碑を調査し、拓本を採る現地工人からの聞き取り調査も行なった。おそらくこの時に拓本を入手したとみられる。同行した今西龍も同じような拓本を入手したようで、それは現在天理大学図書館に保管されている。
これと比較すべき資料に九州大学本(石灰拓本)がある。黄色味を帯びた厚手の二層紙(あいへぎ)で、52cm×53cmのほぼ正方形の小紙を貼り合わせている。文字は読みにくい。I面右中央から左上に延びる亀裂が拓本に連続的に表わされるのが特徴で、貼ってあった新聞紙から1927年頃の製作であることが明らかとなった。同じ石碑でありながら拓本の型式は、時期により異なる。紙質、小紙の大きさ、亀裂の表現、文字の雰囲気などに違いがあり、時間的変遷をたどることが可能である。このような方法をとるのは、拓本が多くありながら、拓本を採った暦年代を決める情報が少ないためである。
碑の文字を確定するには、碑に石灰を塗る以前の拓本(原石拓本と呼ぶ)を探し出し、それを基本にすべきである。そのために石灰拓本の変遷過程を明らかにして、石灰を塗る以前に採られた拓本があることを型式学的に明らかにするこが重要である。東大建築史本は、その一助となっている。

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(文学部助教授/本館研究担当)

        

        

        

        

          

        

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Ouroboros 第7号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成10年12月9日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健