図1 高分解能電子顕微鏡で直視された アレンデ隕石の輝石の格子イメージ |
地球惑星科学の大学博物館には試料を保管・収納・利用するという役割と同時に、地球という人間の外にある形あるもののひとの認識のあり様の変化、または進化を記録し再び人間に戻すという作業場という側面もある。元来がひとの世界認識は自然に対する認識と、認識しているひとの持つ認識の仕掛け—精神—のそれぞれの探査と、両者が互いを識別する繋がりについて間断なく行われてきたのであり、そしてそれが哲学、美学などと自然科学に分化したのであり、さらに両者の間に論理学が構築されたはずである。どうあがいても自然科学はひとの認識なのであり、これこそが神学という純粋論理の世界からの、それがはぐれものであることの重要な契機なのだと思う。はぐれものということは、ひとの自然認識は、絶対静止ではなく、進化しているということである。自然の、つまり地球や宇宙そして生命体に対しての探査体という論理と道具が一体となったプローブはそれ自体もまた、対象と同様に、しかし時間的には同期せずに進化している。
ひとの内部の現象においても無論そのようなプローブはつくられたのであり、それはいつか進化して社会学、民族学、考古学などのひとの集団を扱う学となったとみたい。そのとき、自然の現象物に対する博物学的な記述のほかに、自然物と自然哲学の形成による認識論の新展開を見るべきだろう。これはたとえば生命や、観測の有限性、認知、脳、パターン形式、意識、などの問題設定である。
自然物に対する現代科学の認識のレベルがこのような問題設定を可能にしたことは間違いないことなのであり、哲学での認識様式の進化によって問題が掘り下げられたのではないことに注意すべきだろう。現代科学の認識の範囲はそのもてる力をフルに用いると、原子そのものの直視—ここではリアルタイムでの画像とその動きをみることを直視という—から150億光年先の銀河を直視することまで可能であり、地球の内部や人間の脳の内部までも直視できるのである。このようなコンピューターエイディド直視はひとの脳の認識能力の全体を用いることで、分析的、解析的な従来の観測、測定とは異なる直感を多用する方法である。ここにまったく従来の研究方法とは異なる世界がすでに広がりつつあるように思える。
図2 Mnの特性X線強度で直視された ざくろ石のMn濃度イメージ |
かつて、このような方法に基礎をおく学問分野は博物学であった。2次元あるいは3次元の画像の認識はパターンを認識することである。これには無論解析的にもスペクトル法がある。しかし、2次元あるいは3次元のスペクトルでさえ画像の認識である。ここでは解析的な分析ではなく、画像の濃淡やその空間的なかたちを脳がパターンマッチングを行うのである。要素的な認識はそれらを束ねたうえで分類へといたる。この認識論的な作業は常に行われることであり、あきらかに高次の認識の方法論的基礎であろう。
分類作業がそうであるならば、その対象が探査の基礎論理を持たない場合には、当然やみくもに記載分類するのであろう。それは、しかし記載の内容と分類そのもの自体を差異化することになる。ところが、この差異は見かけの差異でしかないのかもしれない。明確に根拠づけられた性質の記述であるならば、それは参照という意味で差異は正当化される。その参照体系が自己でしか根拠づけられない場合には、論理に本質的な困難を内包してしまう。それでは、コンピュータエイデッド直視が生む差異化あるいは分類は自己参照かそれとも分類基準が存在するか。これはさきのパターンの問題である。
現代科学の抱えた問題は、実は実に精細な、巨大な情報を、2次元あるいは3次元に濃淡、カラーで表現して作られるパターンの記述と分類にある。これは新たな博物学の始点である。地球・惑星科学・天体物理学・生命科学などの世界と自己を認識する科学はすでに新たな自然科学の世界に入っていると思う。
(新領域創成科学研究科教授/本館岩石鉱床部門主任)
Ouroboros 第7号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成10年12月9日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健