クントゥル・ワシ遺跡発掘。3時期にわたる建物の重なりが見える。 |
クントゥル・ワシの山の四方は巨石を加工して積み上げた壁が土留め壁になっていて、これが頂上部1ヘクタールほどの平地を支えている。そしてこの平坦な部分に紀元前1000年前後の頃から石造建築の神殿が何度も建設され、西暦初頭の頃まで4時期にわたって祭祀活動が営まれた。
その歴史を明らかにすべく東京大学古代アンデス文明調査団(代表大貫良夫)は1988年から発掘調査を開始した。これまでに、発掘は6回を数える。その結果まず、この遺跡の時期区分(編年)が確立できた。また、本館にある放射性炭素年代測定室によって実年代の測定も重ねられ、時間的長さについてもある程度の見通しを得ることができた。クントゥル・ワシの編年は以下の通りである。
最初の建設はイドロ期(紀元前1100-700)にはじまる。地山を整形し、つき固めた土の上に白い土をしっかりと塗り、そこに石壁の基壇や建物、広場などを建設した。石壁の表には20センチもの厚さに粘土を塗り、その上に薄く白い土で上塗りを施す。
この時期の建築は後の時代の建物などによって破壊されあるいは埋め込まれてしまって、その全容についてはわかっていない。ただその造りの良さから見て、農民の居住用ではなく、公共的祭祀の目的を持っていたと考えられる。
つぎに来る時期はクントゥル・ワシ期(紀元前700-450)で、大がかりな神殿建設が行われた。山の四方に巨岩を加工した石壁を12メートルの高さでめぐらし、北東面には幅11メートルの階段を作った。
頂上部には基壇や方形と円形の2種類の半地下式広場などを配置し、床下には石組みの排水溝を設けている。中央広場の階段にはジャガーの顔を浮き彫りした石彫を配し、そのほかの場所にも大小の石彫を置いた。中央神殿の建設にあたっては床下に数人の高位の人物を埋葬し、金製品その他の豪華な副葬品を添えた。
そのあとはコパ期(紀元前450-250)で、クントゥル・ワシ期の神殿を原則として継承しつつ、南西部にも神殿や広場そして斜面を上下する石の階段などを建設した。
コパ期の墓の金の装身具の発掘現場 | コパ期の墓の首飾り用金製品 | |
クントゥル・ワシ期の墓の胸飾り | クントゥル・ワシ期の蛙の鐙型壷 | |
クントゥル・ワシ発掘はいろいろと大きな成果をもたらし、アンデス文明形成期の研究に寄与するところ大であったと自負するが、ここではその中で昨年の調査で発見した墓のことを紹介しようと思う。
19890年の発掘のとき中央基壇下からクントゥル・ワシ期の墓が見つかり、4人の埋葬には金の冠、鼻飾り、耳飾りなど大きく見事な金細工が出土した。これらは紀元前700年よりも少し前に製作されたものであり、ペルーで最古の金の芸術品といってよく、学術調査で出たものとして最初であり、内外の注目を浴びた。今回の発掘ではクントゥル・ワシ期の墓から蛙を象った鐙形壷と直径23センチの円盤状胸飾りが見つかった。
それとともに、コパ期の墓2基からも金の装身具多数が出てきた。2センチ足らずの小さなしかしながら精巧なジャガーの頭部を模した首飾り、太い筒状の7センチもの首飾り玉、毛抜き、耳飾りなど合計182点に達した。
コパ期というと紀元前5世紀から4世紀頃で、その頃の金細工はペルーで他に例がない。西暦4世紀頃のモチェ文化の金細工はペルーでもっとも芸術性が高い発達したものであるが、今回のコパ期の金は、金細工のはじまりであるクントゥル・ワシ期と頂点といえるモチェ文化との間を埋めるものであり、金細工の技術史の研究に大いに役立つ資料である。
また、クントゥル・ワシ期やコパ期の神殿の中心部ではなく、南端の建築の床下の墓からも金が出たということは、神殿を中心としたこのクントゥル・ワシでの社会のあり方を考える上でも大切な資料である。
クントゥル・ワシ遺跡の発掘は今年も継続する。思いがけぬ発見はまだまだ続くことであろう。最近の2年間、近くの村に建設した博物館とともに遺跡には日本からの観光客も来るようになった。遺跡発掘の成果が村起こしに一役買うことになったのである。今後、遺跡の復元保存を行い、研究成果の地元還元、教育や観光開発などにも役立てたいと考えている。
(大学院総合文化研究科教授/本館文化人類部門主任)
Ouroboros 第4号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成9年5月12日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健