渡辺12景〜ある研究者のこだわりの場所〜 |
橘 由里香
東京大学大学院理学系研究科
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自分の仕事にプライドを持つ者が、見通しが立たない仕事を与えられた時には、どのような振る舞いをするのだろうか——。 「新型爆弾」に世界で初めて被災したヒロシマ・ナガサキ。確かに、被爆調査自体は原爆投下直後から始まっており、日本の原子爆弾研究者や陸軍軍医学校軍関係者らを中心に、数々の調査団も組まれていた。しかし、終戦を経て、文部省(現・文部科学省)は、「広島・長崎の実情を我が国科学の総力を挙げて調査するため」、学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設立した。その中には、物理学化学地学、医学など9分科会が設けられた。渡辺は地学班の長に任ぜられる。当時38歳。すでに東京帝国大学の教授であった。 総勢2000人に迫ろうかという文部省肝入りの調査団であった。必ずや成果を出さなければならぬという責任と、地学分野でどのような貢献ができるのかという不安と、そして——誤解を恐れずに言えば、研究者であれば誰でも感じるであろう、人類が未だかつて触れたことがない試料に出会えるという期待と胸の高鳴りがあったことだろう。 初めての状況で、当然、被爆調査の手法は確立されていない。そのようなとき、渡辺は「地質屋」として「フィールドワーカー」として、何にこだわって、どのような現地調査をしたのだろうか。渡辺の目に焼きついたものは、心の琴線に触れるものは何だったのだろうか。 渡辺は、調査終了後に時間を置いて2回行われた、全分野の代表が一同に会した調査団の研究報告会で、地学班の長としてこのような発言をしている。 「私どもの方には、測定機というものもありませんので、実際被害の現場を丹念に歩きまして、目で見た状態というものを記録に採って参りました。それと同時に試料の採集といったようなことを致しました」 では、そのような手法を採るなかで、渡辺の心に刻まれた「ヒロシマ・ナガサキの風景」はいかなるものだったのだろうか。 フィールドノート、採集した試料、撮影した写真から読み取れる、渡辺武男が強く印象づけられた場所—渡辺12景(広島6景、長崎6景)—を選び、紹介する。 |
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