長崎6景8.浦上天主堂 〜研究者の遠慮〜(現・長崎市本尾町・・・爆心から北東約500m) |
10月15日、9時に浦上駅についてから、市の東北部にあるこの天主堂を目指して歩いてきた。天主堂の坂を登る。敷石は砂岩。黄色っぽいものはない。溶融して茶色く変化している。瓦は未だによく熔けた跡を残している。12時に天主堂で昼食を摂った。 ——「天主堂 阪 敷石 sandstone yellowishノモノナシ fuseシテbrownトナル」「瓦 未ダヨクトケタ跡ヲノコセリ」「9:00 浦上着 市ノ東北部 浦上天主堂地区ヲ観察ス」「12:00 天主堂ニテ昼食」 (以下、スケッチに多数の覚書が残されている) 昭和21年5月13日。再度、浦上天主堂を訪れ、シャッターを切った。主任司祭の中田藤大氏に会ってお願いした。 ——「浦上ノchurch 中田氏ニアヒオ願ヒス photo」 浦上天主堂は、長崎における被爆の象徴として位置づけられている。平和記念公園には浦上天主堂の遺壁が移築され、広島の原爆ドームと対比されるような存在となっているというだけでなく、被爆後の歩みも「祈りの町・長崎」を象徴している。 浦上天主堂の再建にあたり、被爆した廃墟を象徴として残して新たな天主堂を平和公園に建設するという長崎市の申し出に対して、浦上の信者は、浦上の地にこだわりをもって、廃墟を壊して同じ場所に再建することを主張したという。その結果、信者は、廃墟を自らの手で引き倒し、ハンマーで石を砕き、その瓦礫を天主堂下の河川の護岸工事の材料として使用した。その際に大きな遺物は保存されたが、例えば獅子頭のような小型の遺物は全材料として埋められた。なぜ、被爆建造物として保存されなかったのか。なぜ、長崎市は信者の申し出に異論を唱えなかったのか。 それは、浦上天主堂は250年にわたる江戸時代の禁教と弾圧の歴史を背負っており、浦上の信者にとって悲願成就の証であったからである。そして、天主堂のみならず、建つ土地そのものも信者の特別な思いがこもる場所であったので、無理に移築は勧められなかったのだ。 浦上では、長崎の町にキリシタンが伝えられた1567年ごろからすでに布教が行われていたという。1584年、領主有馬晴信が沖田畷の戦の勝利に感謝してイエズス会の知行地として寄進したことから、浦上は名実共に「キリシタンの村」となり、1603年にはサンタクララ教会という聖堂も立てられた。しかし1614年、徳川家康が発布した禁教令によって、宣教師は追放、教会は取り壊しになり、信者も厳しい弾圧を受けるようになった。知人にも信仰を言えないような状況の中、浦上では全村民が団結してキリシタンの信仰を守るための地下組織を作った。その組織によって、浦上の信徒は一人の神父もいない禁教令の250年間、表面では浄土宗聖徳寺の檀家として装いながら、キリスト教の祈りや教義を伝承し信仰を伝え続けたのである。 1853年のペリー来航とともに鎖国と禁教令は転がるように崩れ始め、1858年の日仏通商条約では居留地内にフランス人のための礼拝堂の建立を認めるという条文が規定され、1865年に大浦天主堂が建立された。禁教令から251年後のことだった。 しかし、迫害の歴史は終わらなかった。同年、浦上には大浦天主堂の宣教師がミサを行う巡回教会として4ヶ所の秘密の礼拝堂が建てられた。宗教を取り戻した村民は表面で仏教を装うことと決別するため、400戸以上が寺請制度を拒否した。それがきっかけで再び浦上キリシタンへの迫害が始まり、3394人の全村民が移送され、浦上が無人の村になるという「浦上信徒総配流」が1868年に始まった。欧米諸国からの非難によって、釈放帰村が決定するのは6年後の1874年のことである。帰村できた村民は約1900人だった。 帰村した村民の悲願は、大浦天主堂に負けない立派な天主堂を建てることであった。教会を立てる土地は、かつて絵踏みをさせられ、村民を集めて総配流を言い渡された高谷家屋敷跡を買い取った。そして1914年、ついに浦上天主堂の本聖堂が完成したのである。
被爆によって天主堂は一部の側壁を残して全壊し、壁面に付けられていた84の天使像、33の獅子像、14の聖人像はほとんどが倒壊し、約20の天使像、数個の獅子、3体の聖人像が残った。うち天使17体と聖マリア、聖ヨハネは再建された現・浦上天主堂正面に飾られている。二つの鐘のうちほぼ無傷だった大鐘は今でも使用されており、小鐘の破片は司祭館で展示されている。
浦上駅前に降り立ったとき、渡辺が爆心方向を臨むと、まず天主堂の廃墟が目に入ったに違いない。浦上駅から爆心までは瓦礫が一面に敷きつめられたようになっている中で、高台に立つ天主堂の廃墟はいやでも調査対象になったであろう。渡辺の全調査記録の中でも、天主堂の調査は綿密さで群を抜いている。フィールドノートに描かれた見事なスケッチには、天主堂の各部位からの試料が収集されたことが記述されている。試料は、天主堂の土台の砂岩、柱の御影石、壁のレンガ、十字の印のついた瓦、鐘楼を支えていたコンクリートなど、多岐にわたっている。 渡辺は天主堂に強い印象を持ったようだ。毎日の調査の途中で必ず天主堂を経由しており、あたかも調査が天主堂を中心に行われているようである。翌年5月、この地を再び訪ずれた際にも立ち寄っている。このような、渡辺にとって複数回訪れて特に印象に残った場所は、広島の護国神社と長崎の浦上天主堂であった。一方は神道、一方はキリスト教と、双方とも宗教施設であることが興味深い。 長崎の被爆調査には、直接聞いたわけではないが、残されたフィールドノート、写真、試料から読み取れる、筆者が最も好きなエピソードが隠されている。 御大典記念碑には何の躊躇もなくよじ登り、土台のみならず石碑部分をハンマーで削って試料として持ち帰った渡辺が、初めて長崎を訪れた際は、マリア像については試料番号をつけたスケッチを残しながら、ついに像を傷つけたり持ち帰ったりすることはしなかった。しかし、翌年、再度浦上天主堂を訪れた際には、正面ドームの石柱を飾っていたと思われる獅子頭(筆者注:本書「現代科学者の目」の項を参照)を持ち帰っている。主任司祭の中田氏へのお願いというのは、たぶんこの件であろう。宗教施設や天皇関係の施設を試料と見るかについての是非を論じることは難しい。しかし渡辺の取った行動は、研究者の心と素の心との葛藤を見るようで、とても興味深く、またその心の動きに微笑ましささえ筆者は感じてしまうのだ。
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