長崎6景

9.皇太神宮 〜石以外は興味なし〜

(現・長崎市坂本・・・爆心から約800m)




 10月16日。調査2日目は快晴だ。最初に皇太神宮に行く。鳥居は、山口県徳山産の花崗岩でできている。鳥居についた影の方向は、おおよそ北から20°西方向。片足鳥居を撮影する。

——「皇太神宮 鳥居 徳山式gr.」「蔭 方向 大略 N20°W」「photo N20」

 5月13日。長崎を再訪する。まず、皇太神宮に行って片足鳥居をスケッチする。鳥居は角閃石、黒雲母が入っている花崗岩でできていて、熔融している。剥離状態を写真に撮る。石灯籠のこの面が剥離している。材質は徳山産の花崗岩。角閃石、黒雲母が入っている。階段は砂岩でできている。

——「hornb.-biot.gr. melt」「photo exf.」「コノ面 exf. 徳山 hornb.-biot. gr.」「s.s.」

 「片足鳥居」「被爆した大クスノキ」で有名な皇太神宮は、地元では山王神社、山王さんと呼ばれている。創建の由来は、1633年島原の乱の後、この地を訪れた徳川幕府老中松平伊豆守信綱が、琵琶湖湖岸の坂本に風景、地名が似ているので、かの地の山王日枝の山王権現を招祭しては、と進言したことによる。当時、浦上はキリシタンが大半で、神社がなかったための幕府の対策だったという。明治時代まで神仏混合により「白厳山観音院円福寺」として運営されたが、神仏分離令によって「山王日吉神社」と改称された。皇太神宮という名称は1942年(昭和17年)、もともと山里町にあった皇太神宮が台風により倒壊し、再建も困難ということで山王神社に合祭されることになった。その際、浦上皇太神宮と改称され、県社となったことに始まる。

 浦上駅の西北約500m、爆心の南東800mの高台にある皇太神宮は、被爆によって神社は倒壊・炎上し、神社入口にあった樹齢500年とも言われる2本のクスノキの巨木も焼損した。しかし、焼損は表面部にとどまったため数年後には再び芽吹き、現在は胸高8.2m、6mになっている。もっとも、渡辺は神社本体には全く興味を示さず、今は市天然記念物にもなっている大クスノキにも一瞥もくれていない。

 当時、ここには四の鳥居まであった。岩川町にあった一の鳥居は原爆による倒壊を免れたが、1962年(昭和37年)に交通事故で倒壊し、その後消失してしまった。二の鳥居は、上部が熱線で黒くこげ左半分が爆風で倒壊したもので、片足鳥居としてあまりにも有名である。三の鳥居、四の鳥居は、爆風で吹き飛ばされたという。

 こちらで特記すべきことは、二の鳥居の左半分、倒壊部分のほぼすべてが、片足鳥居の傍に横たえられて展示されていることである。被爆建造物で倒壊したものは消失するか資料館等の中で展示されるかが通常であるが、片足鳥居の隣での“青空展示”は、半分欠けた鳥居の痛々しさと相まって、被爆被害の生々しさをより一層伝えている。ヒロシマ・ナガサキの被爆建造物の展示・保存の中で、筆者を最もうならせた展示方法である。



 
現代の皇太神宮の風景
片足鳥居(左上)・片足鳥居の崩壊部分(左下)・被爆した大クスノキ(上)

 フィールドノートによれば、渡辺は皇太神宮を2回調査している。初回は片足鳥居の材質と影の方向を記述するだけに止まっているが、翌年5月13日の再び長崎を訪れた時は浦上駅から片足鳥居に直行し、スケッチを描き、石灯籠や鳥居の表面の熔融、剥離の様子を書きとめるなど、綿密な調査をしている。この際、片足鳥居の花崗岩の表面は、広島と異なって、爆心から約800m離れているにもかかわらず熔融していることを発見している。小高い丘の上に立っているために、上空500mで爆発した原爆に地上の距離で考える以上に近かったためと考えられるが、渡辺が初回にこの事実の有無を詳細に調べなかったことは意外である。初回調査では、その後に長崎医科大に行っており、ここで昼食をとっている。集合時間が決められており、十分な時間がなく移動して心残りだったために、翌年、再調査に来たのではないかと想像される。

 この2回目の調査では、片足鳥居の熔融面と著しく熔融した瓦について写真撮影をしたという記述があるが、残念ながらその写真は現存しない。




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