長崎6景12.長崎県護国神社 〜被爆被害を留めない場所〜(現・長崎市城栄町・・・爆心より約780m) |
17日の午後に、護国神社に行く。石段に焼きつけられた影の方向は、北から50°西方向で、傾斜角は32°。安山岩の表面が熔融している。木製の鳥居は真っ黒に焼けている。 ——「護国神社 石段 N50°W dip 32°」「and.ノ Surface fused セリ」「木ノ鳥居 大黒焼」 神社本殿に花崗岩がある。土台は安山岩でできており、その上に焼きついた影は北から55°西方向で、32°傾いている。ここからは、山里国民学校が北から70°西方向、皇太神宮は南から40°東方向に見える。 ——「神社本殿 granite 土台ノandesite 上ノカゲ N55°W dip32°」「山里国民学校 N70°W」「皇太神宮 S40°E」 神社の敷石の安山岩は、熔融している。花崗岩は表面が剥離するだけで、熔融はしていない。 ——「神社敷石用 and.fused」「gr. トブノミデfuseセズ」 安山岩がまだらになっている。神社南の石段の東側は○川の石でできている。安山岩の黒い部分、安山岩の白い部分、瓦、の順で熔融している。山里国民学校の方向にむけてシャッターを切る。 ——「and.spotted」「護国神社南石段東側 ○川之石」「and. 1黒 2白 3瓦 fused」「photo N70°W」
長崎県護国神社は浦上川を挟んで浦上地区と反対側の、通称志賀山と呼ばれる小高い丘の上にある。その歴史は、1869年戊辰の役で戦死者等43人の霊を梅香崎招魂社に祀ったことに始まる。その後1875年に、台湾出兵の戦病死者547人を祀る西日本で最初の官設招魂社、佐古招魂社が設けられた。1942年(昭和17年)になって、この梅香崎と佐古の両招魂社を合併して、明治維新前後から第二次世界大戦までの戦没者を祀る長崎護国神社が創建された。これは仮社殿であったので本社殿の建設が急がれ、連日勤労奉仕者が動員されようやく竣工したのが1944年の12月であった。しかし原爆投下で、1年持たずに壊滅してしまった。
最初にフィールドノートを見たときには、長崎県護国神社での渡辺の行動が腑に落ちなかった。安山岩は熔融しているが、花崗岩は剥離するだけで熔融していないことや、安山岩、瓦の熔けた様子の著しい順番を書き留めるなど、極めて重要な調査結果が記述されているわりには、スケッチが一切されておらず、撮った写真もただ1枚である。その写真も、現存していないので詳細はわからないが、おそらく山里国民学校方面を撮影した風景写真である。調査も終盤に入り、石の熔融状態、剥離状態などはすでに写真に撮影してあるし、調査結果にも新鮮な驚きがなかったことが主要な原因かもしれない。しかも、よくよく考えると、終戦直前に突貫工事で作られた事情を鑑みるに、建造物がほとんど木製ですべて焼け落ち、スケッチの仕様がなかったのではないか。 現在の護国神社は1968年(昭和38年)に再建されたものである。古くても昭和30年前後に奉納された鳥居や石灯籠が存在するだけで、被爆の跡を伝えるものは残されていない。渡辺が、広島県護国神社や浦上天主堂のような情熱を持って、一部でもいいからスケッチや写真撮影をしていれば、と残念に思うが、当時も地質屋の渡辺にとっては「被爆被害を止めない場所」であったのだろう。
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