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写真1 神岡鉱山スーパーカミオカンデ建設風景(写真は全て東京大学宇宙線研究所提供) |
写真2 カミオカンデの内部。20インチ光電子増倍管が約1000個配列している。 |
写真3 スーパーカミオカンデの内部。20インチ光電子増倍管が約10000個配列している。 |
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小柴先生は83年7月、自身が一から計画した岐阜県・神岡鉱山に地下実験施設「カミオカンデ」を完成させた。世界で初めて超新星ニュートリノを捕らえるのに成功したり、時間・方向・エネルギーの3要素すべてを網羅した太陽ニュートリノの観測に成功したりするなど、カミオカンデは「ニュートリノ天体物理学」という新しい学問を生んだ。
3代目の実験装置が稼動する今も「ニュートリノ天体物理学のメッカ」であり続け、「宇宙ニュートリノ観測のパイオニア」である小柴先生退官後も、素晴らしい研究成果・研究者を生み続けている。
「素粒子物理学の最先端を行く装置である」と、研究者の華々しい活躍ばかりが着目されているが、裏方として支えた現場の職人・技術者の協力なしには、今日のカミオカンデはない。彼らはどのようにカミオカンデ実現にかかわったのであろうか。「その道のプロ」たちにスポットライトを当ててみた。
第一回目は、神岡鉱山内へのカミオカンデ建設を許可し、カミオカンデの装置自体のデザインも手がけた小松弘さん(元・三井金属鉱業・茂住鉱長)に、話を聞いた。
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80年の10月か11月だったと思います。当時、宇宙線研究所の助教授だった須田英博先生と、筑波の高エネルギー物理学研究所の教授だった高橋嘉右先生が、突然、神岡鉱山にやって来たのです。受付の者が言うには、「小柴先生の命を受けて、素粒子と宇宙線のことで、小松さんに会いに来た」とおっしゃったという。何ことやら、とわからぬまま、ともかく仕事が終わる午後5時まで待ってもらいました。敷地内の“茂住クラブ”で対面して、「まあ、東京からいらっしゃったのだから、ご飯とお酒でもどうぞ」と勧めました。
そうしたら、両先生は、突然、入り口まで下がって、その場でがばっと土下座をして、「まことに申し訳ありませんが、私たちは食事とお酒をもらうわけにはいかないのです。話を聞いていただいて、いい感触をいただけないことには」と、ひれ伏すではありませんか。こちらは驚いて、思わず「何でも聞くから、どうぞ顔をあげて、召し上がってください」と言ってしまいました。それでも、お二人は「いえ、ここで断られると、私たちは東京に帰れません」と、依然として床に頭をすりつけたままの姿勢を崩さないのです。
とにかく、座っていただいて話を伺うと、「大統一理論を証明するためには(注:カミオカンデは、当初は、79年のノーベル物理学賞受賞者、グラショウが提唱した大統一理論の『陽子崩壊』を証明する目的で作られた)、宇宙線の影響を少なくするために、バリアのあるところ、つまり地下実験室でないとできない。そこで、神岡鉱山に是非、実験室を作りたいと社長に頼んだら、『現場の鉱長が首をたてに振らない限りだめだ』と言われた」とおっしゃる。
神岡鉱山には栃洞地区と茂住地区があり、小柴先生のグループは、以前、栃洞地区に小さい部屋を作って地下実験をしていたのですが、今回は規模が規模なので、栃洞鉱長にはけんもほろろに断られたらしいのです。両先生は、それは必死に私を説得なさいました。高橋先生は、「もし、実験室を作っていただいたら、私は一生この土地に住んでもいい」とまでおっしゃいました。
結局、私はその場で「OK」と言うのですが…実験の内容を良いと思ったかからというより、「飯を食わない」と土下座されたその迫力に気押されて、思わず頷いてしまったというのが本当のところです。翌日、お二人は嬉々として帰られたのですが、そのとき「お礼に、乗鞍にあるコロナ観測所に、いつでもフリーで入れるように計らいます」とおっしゃられたことが印象に残っています。いやあ、なんとも形容しがたい気分でしたよ。
でも、私の方は、それからが大変だったのです。そのころ、神岡鉱山ではイタイイタイ病問題がありましたから、人体に影響がありそうなものに非常に神経質になっていて、カミオカンデの「宇宙線観測」と「放射線、放射能」というのが、ごっちゃになっていて勘違いされてしまったのです。町会議員には「カドミウムの次は放射能か、神岡を殺す気か」と言われるし、社内で「けしからん。とんでもないことを承諾してくれた」と大騒動になるし、参りました。でも、結局は地元の地主さんたちが賛成して、ゴーサインが出ました。
81年になって、須田さんが「あんまり計画が進まないから、東京に来て説明してくれ」とおっしゃったので、豪雪の中、小柴先生らに説明しに行きました。みなさん、「もう、早く作ってくれ。一分一秒でも惜しい。明日から作ってくれ」しかおっしゃらない。カミオカンデの設計も私が担当したのですが…参考にするものがないでしょう、今市にある地下発電所をモデルにしました。しかも、地下1000mの空洞に作るわけですから、ボルトもレジンも、当時最新の技術を導入しました。
設計にあたり、須田さんから3つの宿題も渡されました。一つは、水のサンプルをもって来ること。酸性だと良くないらしいですね。二つ目は、実験装置に見立てた茶筒を持ってきて、「これを入れる空間を考えてくれ」と言われたこと。円柱の天井をドーム型にしたとき、「ボリュームが大きくなる、格好が悪くなる」と言われましたが、「地圧に耐えるには、この形しかない」と説明しました。三つ目は「地磁気のバリアのアイディアをどうするか」ということでした。
カミオカンデの設計図が出来上がって、初めて小柴先生のところに持って行ったときは、本当に嬉しそうでした。設計図を握りしめて離さないで、「結構、結構。これでいいから、明日から作って」とおっしゃるのです。しかも、後輩の先生を呼びつけ、設計図を「さあ、見ろ。さあ、見ろ」と勧めます。その先生が「授業があるから、後で見せていただきます」と立ち去ろうとすると、「授業なんていいから、見ろ」とおっしゃる。後輩の先生が「やっぱり授業はやらなくては…」と退席しようとすると、今度はなぜか私に「じゃあ、小松さん、授業を見ていってください」。結局、物理の授業を聴講することになりました。
授業が終わって、その先生と連れ立って小柴先生の部屋に戻ったら、小柴さんは机から、おもむろにウイスキーを取り出しました。そのウイスキーで、みんなでカミオカンデ建設の前祝をしたのです。昨日のことのように覚えています。
小柴先生はざっくばらんな方なので、初めてお目にかかったときは、本当に大学の先生なのかと思いました。お弟子さんから見れば怖い存在だったかもしれないけれど、私たちの前では常に気さくで、リラックスしていました。神岡鉱山でも、作業員や地主の息子と仲良くなって、家にふらっと行って上がり込んで、ご飯を食べていたときもありました。
けれど、お金には非常にシビアでしたね。カミオカンデの工事費の見積もりは、2.2億円でした。須田先生は「全予算が5億円で、光電子増倍管(注:陽子崩壊のときに出すチェレンコフ光を検出するセンサー)に3億円かかるから、2億でお願いします。でも、お金の問題ではない。一秒でも早く作ってください」とおっしゃっていたのです。でも、小柴先生ご本人が、値切る、値切る。結局、1.4億円になりました。もっとも、1個30万円見当だった光電子増倍管を13万円に値切った、という話を聞いて、「あちらも大変だったな。お互いさまだったのだな」と思いました。小柴先生にかかっては、かないませんよ。
当時は、日本の鉱業が斜陽の時代を迎え、どんどん閉山していました。そんな中、神岡鉱山だけは三井鉱山の中心として健在ぶりアピールしていましたが、80人近く人員を切るリストラを実施したばかりでした。カミオカンデは24時間体制の厳しい突貫工事でしたが、仕事ができて工員は非常に喜びました。神岡は残念ながら、2001年に自前の操業はやめてしまって、他の鉱山の鉱石の精錬などをやっています。けれど、カミオカンデのおかげで「世界の神岡」と名が残って、知れ渡っていますよね。神岡の人は全員、カミオカンデに感謝していますよ。
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(東京大学大学院理学系研究科
地球惑星科学専攻)
Ouroboros 第20号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成15年2月14日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館