医学部2号館3階ホール(撮影 上野則宏) |
ある日突然、「博士の肖像」という展覧会を準備せよと命じられた。こちらは博物館に入ったばかりの新米、むろん「NO!」とはいえない。
新米とはいえ、博物館に来る前は美術館にいた。17年近く、美術品を相手に暮してきたから、美術館の世界では古米から古々米になりかけたところだった。
美術品の中では、肖像というものはおおむねつまらない。たとえ、どんなに美しい顔がそこにあったとしても。
まして、「博士の肖像」である。いかめしい顔のオンパレードでは、間違いなく気が滅入るばかりの展覧会になるだろう。これが、最初の予感だった。
5月から7月までの3ヶ月間、学内を歩き回った。肖像画にせよ肖像彫刻にせよ、歴代教授たちの肖像が向こうの方から目に入ってくることはあっても、いざ探そうとすると、どこに何があるのかさっぱりわからないのだから、歩くことから始めるしかなかった。しかし、犬も歩けば棒にあたる方式では、効率が悪くてしようがない。まず各部局の庶務掛を、次いで図書室を訪ねて調査を重ねるうちに、いろいろと面白いことがわかってきた。
どこにも、肖像の台帳というものがない。なぜなら、それは国有財産ではないからだ。だからといって私物でもない。所有者がはっきりしないのだ。したがって、誰が管理者なのかということもまた、曖昧なままなのである。
学内に存在するすべてのもの、大は土地や建物から、小は私が今朝着た服や昼に買ってきたばかりの弁当にいたるまで、所有者は事細かく決まっていると思ったらとんでもなかった。肖像は、そんな七面倒臭い所有関係には我関せずとばかりに、学内のあちこちにひっそりとある。
いったいなぜ、肖像だけは、国有財産の、あるいは備品の、あの登録番号を打たれたシールを貼られずにすむのか。実はこの問題は根が深くて、掘り下げれば、肖像というものの本質にふれてしまう。少なくとも、曖昧な所有関係は、肖像の発端にまでさかのぼる。
そもそも、肖像とは誰のものだったのだろうか。手掛かりは、肖像に刻まれた言葉にある。たとえば、総合図書館の三階開架閲覧カウンターの一隅に、加藤弘之の肖像彫刻が置かれている。並んで古い台座がある。新しい台座に替えたあともそれを捨てられないのは、そこにこんな言葉が記されているからだ。
「加藤弘之先生ノ八十寿ヲ祝シ奉ランカ為辱知ノ有志胥謀リ此ノ銅像ヲ作製シ以テ先生ニ贈呈ス、大正四年六月」
この銘文を読むかぎり、肖像は加藤弘之に贈られたのであり、最初の所有者は加藤自身ということになる。それなら、加藤が大学を去った時に(大正4年にはすでに去っていた)、あるいは世を去った時(大正5年)に、肖像がきちんと相続されなければ、次の所有者は曖昧になるべくしてなる。むろん、すべての肖像が、そこに造形化された本人(これを像主という)のものではない。没後に作られる場合も多いからだ。
ただ、この言葉は、肖像が何よりも贈呈品であることを語って興味深い。いうまでもなく、肖像は研究に必要な備品でもなければ、室内を装飾するための美術品でもない。贈呈の瞬間にもっとも価値を発揮する物品として扱われる以上、贈呈式や除幕式がすんだあとは、次第にその価値を失ってゆくのは避けられないことなのだ。
「小金井良精像」和田英作作、1910年、 医学部解剖学教室蔵(撮影 上野則宏) |
「数藤斧三郎像」中村彝作、1920年、 教養学部美術博物館蔵(撮影 上野則宏) |
「岸上鎌吉像」高島野十郎作、制作年不詳、 農学部水圏生物科学専攻蔵(撮影 上野則宏) |
そもそも、肖像とは、ある特定の人物に似せて作られた造形物である。肖像であるためには、それが本人に似ているかどうかは二の次で、似せたという意識を関係者(作者や贈呈者)が持っているかが問題なのだ。そこで、作者よりも、像主が決定的に重要だということになる。
像主よりも作者を重視する時に、彼の作物として、肖像ははじめて美術品たりうる。そうなれば、像主はもう誰であっても構わない。作者の腕さえ楽しめばよいからだ。肖像は美術品としておおむねつまらないと書いたのは、つまりは、すべての肖像がそのまま美術品になるわけではないのに、像主よりも作者に、無理矢理関心を移行させて眺めることから起こるつまらなさなのである。
結局、像主がわからなくなれば、もはやそれは本来の意味での肖像とはいえない。こうした事態を避けるために、肖像に直接名前を記すことが行なわれてきた。肖像画には賛、肖像彫刻には銘を入れて、その人物を讃えることは、何よりもそれが誰であるかを忘れないための有効な方法であった。
しかし、名前を額縁や台座に記すだけでは安心できないことは、すでに肖像本体と台座とが分離してしまった「加藤弘之像」が教えてくれる。本体に加藤の名は刻まれているものの、わざわざ近寄っていかなければ気付かない。肖像彫刻からわずか数メートル先の書架に『加藤弘之の研究』という書物があっても(実際にある)、この人物とブロンズの老人とがつながらなくなるのは時間の問題だ(実際すでにつながっていないだろう)。
「加藤弘之像」朝倉文夫作、1915年、 ブロンズ、総合図書館蔵(撮影 鈴木昭夫) |
第二の危機は、肖像を守り伝えてきた学科や教室の改組、改装や引っ越しの時である。始末に困って廊下に出された肖像彫刻を、学内いたるところで目にする。むろん、「加藤弘之像」にしても、はじめから総合図書館三階開架閲覧カウンターの片隅にあったはずはない。
部屋から追い出すことは止むを得ない選択だろうが、その人物が誰なのかがわからなければ、いっそう気は楽だ。それでもゴミにはできない、なぜなら人の姿がそこに表現されているから、と私は考えてきたのだが、ゴミ捨て場に置かれた肖像彫刻を学内某所で目にして、考えの甘さを思い知らされた。肖像を待ち受ける運命にはゴミも含まれる。
しかしながら、こうした事態は、建物の中に肖像の居場所が用意されていないことの帰結なのであり、かならずしも管理者だけの責任ではない。近代になって、肖像を作ることは普及したものの、皮肉なことに、建築は建物への付加物を排除する方向へと向かったからだ。医学部一号館のように、階段踊り場に壁龕を持つ建物が、例外的に肖像に居場所を与えている。
むろん、前近代から肖像は作られてきた。肖像画は多く、肖像彫刻は少ない。大半の肖像画は掛け物のかたちをとり、普段は巻いてしまわれ、その人物の年忌などに取り出されて床の間に飾られた。故人追慕のために描かれたからだ。これは、建物の中に飾るべき場所があったというばかりでなく、時間の中にも、居場所がきちんと用意されていたことを意味する。祭祀という特別な時間である。
逆に、近代の肖像は、油絵もブロンズ彫刻も、飾られっぱなし、置かれっぱなしを前提としている。要するに、こちらは、時間の中に居場所が用意されていない。それを特別に眺める機会がなければ、いくら目には映ったところで、見ていないに等しい。おそらく、贈呈式や除幕式が、肖像が注目を浴びる最初で最後の機会だろう。それからあとには、代わりに、埃と鳩のフンを浴びる長くて退屈な生活が待っている。
しかし、世代の交代にもかかわらず、また肖像が置かれる厳しい環境にもかかわらず、肖像を大切に伝えてきた教室もある。おそらく、肖像を廃棄や散逸から守る最大の力は、教室への帰属意識に発するだろう。
医学部、理学部の人たちには親しく、それ以外の学部の人たちには耳慣れないこの「教室」という言葉は、正式には大学組織のどこを探しても見つからないが、歴史的な実体を指して使われてきた。それは明確に構成員がいて、実体として存在するから、教室名は建物にも記され、封筒にも名刺にも刷り込まれる。一種の歴史的共同体であり、そこではかならず教室の起源が明らかにされ、初代、二代、三代というぐあいに教授が続いて現在に至る系譜が整理されている。そこへの帰属意識が保たれるかぎり、歴代教授の肖像は安泰ということになる。
それなら、他学部にも、学科や研究室やゼミという共同体があると反論されそうだが、現存する肖像が、圧倒的に医学部に偏り、次いで理学部、工学部に多く、いわゆる文科系の学部には稀にしか見つからないという現状は、肖像を守り伝えるばかりでなく、そもそも肖像を生み出す環境の違い、研究体制の違い、研究組織の違い、師弟関係の違い、などを浮き彫りにする。
大正期の画家中村彝(つね)を筆頭に、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、鏑木清方などの手になるすぐれた美術品がないわけではないが、それよりも、肖像とはいかなるものかを考えることの方がはるかに刺激的で、展覧会開催の意義もあると、肖像を探し出しては埃を拭い考えた。
美術品としての評価は、確かに肖像を廃棄や散逸から守るが、すべての肖像を救うことにはならない。肖像を肖像として扱い、もう一度日の目を見せてやること、いいかえれば、肖像とわれわれの慣れ切った関係を破棄し、新しく組み替えてみること、おそらく、これが博物館という装置の果たす役割でもあるだろう。
(本館助教授/近代日本美術史)
Ouroboros 第6号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成10年10月1日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健