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「歴史の文字—記載・活字・活版」展

西野 嘉章


文字は人間の知的活動を支えるもっとも基本的な道具の一つである。大学の教育研究においてもまた然り。文字で記された文献を読み、標本を文字で記載し、研究成果を文字を通して公表する。ところで、もし文字の様態(モード)に何らかの変化が生じたら? 文字=記載への依存度の大きさを考えるなら、それが教育研究の現場に直接跳ね返ってくるだろうことは容易に想像がつく。

事実、自然史で分類学を専門とする研究者は次のように話す。学術標本を記載しようとするとき、常用漢字、当用漢字と文字の使用範囲がしだいに狭められてきたせいで、それが行い難いことがある。さらに深刻なのは、普段あまり使われぬ文字を使用しなくてはならない場合である。現行の文字フォントにそれが存在しないため、わざわざ作字をしなくてはならず、印刷物として刊行できないからである。偶蹄目をウシ目と、奇蹄目をウマ目と読み替える現代の慣行では、豚や羊がウシ目で、鹿がウマ目となり一般人には分かり難い。蹄(ひづめ)の数で分類するという漢字分名の長所がまるで失われてしまったというのである。

似たような例は文化史の研究の現場でも起こっている。歴史研究における古い文献の翻刻出版の場合がそうである。コンピュータ組版全盛の今日、一次史料に使われている旧字や異体字がフォントに無いため、やはり印行に著しい困難を生じているという。また、上記のものと多少ニュアンスも異なるが、印字に関するものもある。すなわち、博物館に保存される学術標本のなかには、種の命名の原基となった根本資料すなわちタイプ標本が存在する。当然、新しい種が発見されたなら、その標本には然るべき名前が付けられ、関連データが標本ラベルに記載されることになる。そのとき、こうした記載に携わる者は、いまだにペンによる手書きか、さもなくば活字やタイプライターによる印字に頼っている。電子プリンターを使わないのは、50年、100年先のことを考えるからだという。先端技術による印字では、その耐久性に保証が持てないのである。

こうした事例の因ってくるところを探ると、結局、一つの変化に端を発していることがわかる。すなわち、「活字」からフォントへ、「活版」から電子印字へという、「記載」の様態(モード)の変化にどれも起因しているのである。活版からコンピュータ組版へ移行することで、われわれはたしかに以前なら想像だにし得ぬような利便性を獲得した。しかし、その反面、伝統的な記載手段の持つ特性や長所を顧みることもなく、「時代の流れ」に迎合することで汲々としている。そのことに想いを馳せる機会がこれまであったろうか。そうした現状認識に立って、われわれは本展において文字記載の様々な様態をいまいちど歴史的に探り直し、文字とは何か、文字記載とは何か、それの近代的手段としての印刷とは何か、こうした問題を改めて博物館の空間のなかで考えてみることにした。

展示のなかでとくに大きな比重を割いたのは、金属活字の成立過程と活版印刷の技術に関わる部分である。金属を原料とする組活字の発明は、グーテンベルクのそれが西洋近世の成立を促したように、日本社会においても近代化推進の大きな原動力となった。そこで確立した活版技術は、職人たちの努力の甲斐もあって、ミクロン単位の信じ難い精度を達成できるようになった。しかし、技術革新の展開も早かった。活版の技術的な完成を待つようにして、まず電算写植が、次にコンピュータ組版がそれに取って代わるからである。文字記載システムの土台をなすものが、重くて扱い難い「モノ」(鉛活字)から軽くて扱い易い「デジタル・フォント」(記号)に移行してしまったというわけである。いま、この新しい体制は古いシステムを完全に葬り去ろうとしている。

本展には、いくつかの歴史的な文化財と併せて、約300万本の鉛活字が展示品として用意されている。100万本単位の数を論うには訳がある。活字による印行には、桁外れの膨大なパーツの準備と、それを組み立てる奇跡的な職人技が必要である。300頁程の標準的な本を活版で印刷するのにおよそ10万本の活字と込物(インテル)が使われ、その重量は1トンにも達する。われわれが何気なく手にしてきた活版印刷本は、そうした圧倒的なモノ性を土台にしていた。それに対し、昨今のコンピュータ組版による平版印刷本はどうか。活版プロセスと対照的に、そこでは十グラムにも満たない磁性体に情報のすべてを縮体することが可能である。もちろん、印刷物を純粋な記号媒体と見るのであれば重さは問題にならない。が、「歴史の文字」は、活版印刷の生み出したものも含め、すべてが間違いなく「モノ」であり、「モノ」特有の物理的な手ごたえ、視覚的な色合い、触覚的な肌合いを有している。文字を単なる記号媒体に還元して、それを磁気ディスクにパッケージ化するとはどのようなことなのか。そうすることで何か失われるものはないのだろうか。

活版印刷は一連の工業技術の連鎖から成り立っており、それぞれを繋げる職人の技は全き完成度を実現した。宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の活版印刷工場の条りで活写してみせた職人の技も、あのジョバンニ少年がピンセットでひろった極小のルビ活字も欠くわけに行かない。ばかりか、活字や紙型の素材の供給がストップしても、二度と復元し難い。15世紀に技術の発明があって以来、根本において何一つ変わることなく維持され続けてきた活版印刷。様々な産業技術が消長発展を繰り返してきた近世から近代において、かくも変わらずにきたものも珍しい。その完成された産業技術が、いまわれわれの目の前から消えてなくなろうとしている。

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(本館専任助教授/美術史・博物館学)

平成8年度特別展示

●開館記念特別展「歴史の文字——記載・活字・活版」

開催期間 平成8年9月10日(火)〜10月13日(日)
本展は総合研究博物館の開館を記念するものです。大学らしく本邦における文字記載を取り上げ、その歴史を、「古代の銘文付鉄剣」から「明治庶民の荷札」まで、産業科学史と社会文化史の両面から通覧しようとするものです。館内には国内に残されている希少な初期金属活字の大半が集い、また、300万本を超える鉛活字や大型輪転機でもって、消え行く「活版印刷所」の仕事場を再現、さらには超高速精細画像処理などのデジタル技術とマルチメディア館内ランの実験も同時に行います。展示と並行して、学内外の専門家30人以上の論文を結集した学術的図録が刊行されます。

●秋季特別展「日本植物研究の歴史をさかのぼる:小石川植物園300年の歩み」

開催期間 平成8年11月12日(火)〜12月20日(金)
本展は本学附属小石川植物園に植えられていたイチョウの木で精子が発見されて100年目にあたる本年、近代植物学が開かれて間もない日本でのこの世界的な大発見を記念するものです。日本では明治期に近代植物学が移入されるに先立って薬草を研究する本草学が発達し、その枠組みの中で植物の研究が進みます。小石川植物園の歴史は1684年に幕府が設けた薬草園にさかのぼり、植物園の300年の歩みとともに日本での植物学の過去・現在・未来をたどってみます。
講演会 平成8年11月17日(日)「日本の植物:その特色を探る」

●冬季特別展「デジタルミュージアム」

開催期間 平成9年1月21日(火)〜2月28日(金)
コンピュータが博物館のあり方に大きな影響を与えようとしています。人類が築きあげた知の集積場所であり、知の流通拠点でもあり、また知的思考の場でもある博物館をデジタル技術が大きく変えようとしています。デジタル技術は今までの時間的、空間的制約を開放します。大量の知を半永久的に小空間に保存することができ、さらにネットワーク技術によりどこからでも知にアクセスすることが可能になります。また、あらゆる人に対して博物館を公開します。今まで博物館を利用することができなかったハンディキャップをもった人々にも、例えば視覚障害者には音声で、聴覚障害者には文字で知識を提供します。そして国籍、知的レベルを問わず、あらゆる人々にパーソナライズされた知識空間をデザインしていきます。新しいデジタル技術により機能となるさまざまな事項を歴史的、理論的に見ることからはじめ、さらに実験的な展示を通し、未来の博物館に対しての可能性を議論します。
講演会 平成9年1月24日(金)「デジタルミュージアムの世界」

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Ouroboros 創刊第1号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成8年9月9日
発行者:林 良博/デザイン:坂村 健