現状確認調査の成果

(1)行方不明標本の発見

先述したように、モースの報告Plate標本(土器・土製品220点、骨・骨角器23点、石器9点)のうち、土器・土製品147点、骨角器13点、石器7点以外は行方不明とされていたが、今回の平箱調査により、土器24点が新たに特定された。大森の移動式平箱棚(棚番号PE-5の列)にあったものが17点(うち『大田区史』掲載9点)、大森以外の平箱や陳列棚に混入していたものが7点(うち『大田区史』掲載1点)である。新たに特定された土器は、以下24点である。

Pl. I-3(BD04-3)
Pl. II-1(BD04-10)
Pl. III-11(BD04-32)
Pl. III-13(BD04-34)
Pl. III-15 (BD04-36)
Pl. IV-2(BD04-39)
Pl. V-1(BD04-48)
Pl. V-12(BD04-59)
Pl. V-13(BD04-60)
Pl. VII-2(BD04-78)
Pl. IX-11(BD04-113)
Pl. X-3(BD04-120)
Pl. X-4(BD04-121)
Pl. X-12(BD04-129)
Pl. X-14(BD04-131)
Pl. X-15 (BD04-132)
Pl. XI-5(BD04-138)
Pl. XI-11 (BD04-144)
Pl. XI-26 (BD04-159)
Pl. XIII-3(BD04-180)
Pl. XIII-6 (BD04-183)
Pl. XIII-20 (BD04-197)
Pl. XIV-8(BD04-205)
Pl. XIV-10(BD04-207)

残りの行方不明標本は土器49点、石器2点、骨・骨角器10点となった。後日発見されることも考慮して、土器49点分のBD04番号は欠番とした。

(2)文献 〔1〕 、文献 〔6〕 、モース写真との一致

文献 〔1〕 掲載標本は、土器17点・土製品2点・石器2点・骨角器7点あり、そのうちモース報告に図が掲載されていないものは土器3点で、今回の調査により現存する土器1点との対応が新たに確認された。BD04-215がこれに該当する。

文献 〔6〕 掲載標本は土器16点、土製品1点、石器1点あり、そのうちモース報告と文献 〔1〕 に図が掲載されていないものは6点あり、今回の調査により現存する土器2点との対応が新たに確認された。BD04-216~217がこれに該当する。

モース写真は文献 〔20〕 に掲載されているが、一部不明瞭なものがあるため、新たにピーボディ・エセックス博物館からコピーを取り寄せて確認した。土器・土製品は55点写っており、そのうち、モース報告や文献 〔1〕 〔6〕 に図が掲載されていない土器が19点あることが判明した(ただし土器底部については対応関係が確認困難である)。現存する標本との照合を試みたところ、土器9点が新たに確認され、BD04-218~226がこれに該当する。

石器は3点写っており、いずれもモース報告に図が掲載されていて、標本も現存する。骨・骨角器は47点写っており、モース報告にも図が掲載されている標本は14点(一部は推定)で、うち8点が現存する。それ以外の33点のうち、現存する大森標本との対応を確認できたものが12点(一部は推定)あった。

なお、モース写真では多くの標本を板上に置いて紐で固定しているが、これは博物場の陳列用にモース自身がデザインしたものである 〔14〕 。現在でも骨・骨角器の一部には紐の痕跡が認められる。

(3)欠損部接合、新規接合、同一個体

今回の調査で接合が多数確認された。モース報告図に比べ欠損していた部分が接合した場合には、接合した状態で1つのBD04番号を付した。接合によって報告の図と形が変わってしまった場合には、図の部分とそれ以外の部分に、それぞれ枝番号を付して区別することにした。例えば、Plate II-4の土器片はBD04-13A、それに接合し図に示されていない土器片はBD04-13Bと表記した。接合の一部は接着剤を用いて接着したが、外れてしまいそうな場合はそのままにした。なお、BD04-106は、今回の調査前の時点ですでに接合によって報告の図と形が変わっていた。

報告図に比べ一部欠損していたもののうち、以下の5点は欠損部が平箱から発見され、ほぼ報告図どおり、もしくはそれに近い形に復元された。

BD04-13
BD04-38
BD04-44
BD04-103
BD04-118

未だに一部または大部分が欠損しているものは以下の23点である。

BD04-1 
BD04-10 
BD04-12 
BD04-31 
BD04-32 
BD04-37 
BD04-38 
BD04-39 
BD04-46 
BD04-51 
BD04-59 
BD04-60 
BD04-78 
BD04-90 
BD04-110 
BD04-112 
BD04-118 
BD04-121 
BD04-165 
BD04-178 
BD04-199 
BD04-202 
BD04-217(文献〔6〕の図)

今回の調査で平箱から新たに接合する破片が見つかり、報告の図と形が変わったものは以下の12点である。

BD04-13
BD04-22
BD04-40
BD04-55
BD04-93
BD04-105
BD04-107
BD04-170
BD04-180
BD04-183
BD04-185
BD04-207

また、接合しないがモース報告と同一個体と認められる破片が見つかったものは、以下の11点である。このうち、『大田区史』に掲載されていない破片は、BD04-251~255にまとめている。

BD04-251=BD04-31
BD04-252=BD04-82
BD04-253=BD04-93
BD04-254=BD04-102
BD04-255=BD04-126
BD04-274=BD04-1
BD04-472=BD04-55
BD04-550=BD04-105
BD04-606=BD04-202
BD04-628=BD04-107
BD04-701=BD04-124

(4)博物場の目録に掲載されている大森標本

大森標本には、朱書きで「54OM」などの注記を持つものがある。この数字は博物場の展示目録 〔3〕 の番号( 表4 左列の番号)と極めて整合性が高いことが確認されたため、博物場の注記と認定した。

表3 に博物場目録と現存する標本の対応関係をまとめた。ほとんどの標本はモース報告などに図が掲載されているが、斜体字で書いた土器14点は図がなく、博物場番号の注記によってモース関連標本であることが確定した(BD04-256~266, 525, 600, 630)。その他に、他遺跡標本の平箱内に混在していた獣骨1点を、「163OM」の注記から新たに大森標本と認定した。標本によっては朱書きが薄れて判読不可能なものもある。朱書きは水で洗浄すると容易に溶けだしてしまうため、今後も注意が必要である。

BD04-294は「525」の朱書き注記を持つが、目録によるとこの番号は「Kamisakaomura, Chiba Co., Chiba.」となっており、大森標本ではなく、上坂尾貝塚(押元貝塚)の土器と考えられる。また、獣骨BD-40には「169OK」、貝BD-50には「669」の朱書き注記があるが、ともに大森の博物場番号ではない。目録の記述と対応させると、それぞれ陸平貝塚、西ヶ原貝塚標本と考えられる。上記3点以外には、大森標本として、目録と注記に矛盾する点は認められない。

⇒表3 博物場目録との対応関係

(5)他遺跡の標本の混入について

他遺跡標本の混入と思われるものが、前項で述べた上坂尾貝塚・陸平貝塚・西ヶ原貝塚以外にも、いくつか確認された。BD04-282は、ピーボディ・エセックス博物館より取り寄せたモースの図の中で、「Shell Mounds, Botanical Garden, Tokyo」(小石川植物園内貝塚)の出土とされていることが確認できた。また、BD04-329A, 423Aは、それぞれ遺跡不明の標本(BD04-329B, 423B)と接合した。BD04-281は縄文中期の阿玉台式で、モースの報告にはまったく見られない型式である。これらも大森の標本かどうか疑わしく、本来ならBD04番号を付与するのは不適当かもしれないが、今回は他遺跡の標本が混入している現状をそのまま報告することにした。

(6)モース報告との対応に関する疑問点

今回の調査でモース報告の記述・図と実物を対応させていったところ、いくつか疑問点が生じたので以下に記しておく。

(6‐1)土器の径について

モース報告のPlate解説文中において、以下の2点は誤植または誤記と判断されるものである。Pl. II-5(BD04-14)は、モースの解説では"diameter 60 mm."とされているが、図・実物とも口径80 mm以上ある。また、Pl. III-1(BD04-22)は、モースの解説では"diameter 100 mm."とされているが、図の復元口径は約260 mmで、実物からも図のほうが正しいと考えられる。

(6‐2)いわゆる「ソロバン玉形の深鉢」について

モース報告Pl. I-9は、その独特の器形から「ソロバン玉形深鉢」などと呼ばれており、大森貝塚を代表する土器の1つとなっている。モースは同様の土器片が大森貝塚から多数出土していることを指摘しており 〔2〕 、現存標本にも多くの個体の破片が認められる。

Pl. I-9の土器については、今回の調査開始前の時点で人類学教室原番号12396の土器(本報告ではBD04-223)が比定されていた。しかし調査の結果、以下の点から両者を違うものと判断した。

・ 張り出し部分の文様が報告図では刺突文なのに、BD04-223では縄文になっている。
・ 報告図は底部まで描かれているが、BD04-223は胴部以下が欠損しており、割れ口も古く、発掘当初から無かったと考えられる。
・ 報告図と解説文では口径約144 mmだが、BD04-223の復元口径を今回計測したところ約250 mmもある。

BD04-223以外に、比較的残りの良い個体としてBD04-497, BD04-526などがあるが、いずれも張り出し部分の文様が縄文であるため、Pl.I-9とは認められない。よって、本報告ではPl. I-9(BD04-9)を行方不明と見なした。

完形のソロバン玉形深鉢の図は文献 〔1〕 にも掲載されており、「破片をつないで全形がわかるものは1例のみ」(和訳 〔18〕 より)として紹介されている。また、文献 〔6〕 にも類似する土器が掲載されている。しかし、これをPl. I-9と比較すると、張り出し部の文様が縄文になっている点、胴部文様の下端を区画する横位の沈線がない点などから、Pl. I-9とは別個体と考えられる。対応する可能性のある標本として、Pl. I-9の場合と同様にBD04-223, BD04-497, BD04-526などがあるが、いずれも図との一致を断定するには至らなかった。

なお、『日本原始工芸』 〔8〕 にも大森出土のソロバン玉形深鉢の図が掲載されており、文様の特徴からPl. I-9と同じものと考えられる。

(6‐3)人骨の対応

モース報告 〔2〕 に人骨のPlateはないが、本文中に19点のリストが記載されている。内訳は上腕骨3点、尺骨2点、橈骨1点、大腿骨8点、脛骨1点、腓骨1点、中足骨1点、下顎骨1点、頭頂骨1点である。大森人骨標本に関する記述はのちに小金井良精 〔4〕 、長谷部言人 〔10〕 、山口敏 〔15〕 によっても行われている。小金井は上腕骨3点、尺骨1点、橈骨1点、大腿骨8点、脛骨1点について残存部位と計測値を記述した。長谷部は当時収蔵が確認できる大森人骨は19点(上腕骨3点、尺骨2点、橈骨1点、大腿骨8点、脛骨2点、腓骨1点、中足骨1点、頭頂骨1点)であると報告し、上腕骨、大腿骨、脛骨の計測値を記載している。小金井、長谷部とも部位ごとの点数がモース報告と若干異なるが、その対応関係について言及されていない。

山口は『大田区史』 〔15〕 において22点を報告しているが、これは現在、大森人骨として収蔵されている標本と同一のものである。山口の報告では、これら22点のうち16点は部位ごとの点数がモース報告と一致するとした。しかし、破片の長さにモースの記載とずれがあることから、長年の間に若干の破損をこうむったのであろうと報告している。その他、モース報告との違いとして、大腿骨が1点少なく、脛骨がないことを指摘している。また、頭頂骨2点についてはモース報告との対応に関して記述していない。どちらの標本も左頭頂骨を含むため、判断を保留したのであろう。残り4点は部位の不一致からモース報告に未記載のものと述べている。

今回の調査では、モース報告にある部位と大きさの記載を現存する22点の標本と比較し、その対応関係をより詳細に検討すると共に、小金井 〔4〕 及び長谷部 〔10〕 の記述との対応関係も検討した。その結果、15点をモース報告に対応する可能性が高いとみなし、一覧を作成した(表4)。これらについては、特にモース報告において左右・長さなどの記述が完全には一致しない例が多い。表4では、既報告文献の記述が現存の標本と矛盾する箇所を斜体字で示した。また、表中の引用箇所は旧字体を常用漢字に改めている。

22点のうち下顎骨1点については、今回の調査でサルであることを確認した。すでに長谷部が「大森の下顎骨は人のではなく、日本猿のである。」 〔10〕 と指摘し、文献中にある人骨標本リストから除外している。下顎骨は「148OM」と注記がなされ、該当する博物場番号には「Human bones(lower maxillary and parietal)」とある。このことから、発掘当時には人骨として扱われていたと思われ、モース報告にあるサルの下顎骨には該当せず、ヒトの下顎骨として記述された標本と考えられる。また、BD-64, 73の長幹骨は欠損部分の割れ口が新しく、モースや小金井の報告時より破損のために短くなった可能性がある。モース報告に対応するとした殆どの人骨には19までの番号(表4の「人骨注記番号」)が黒エナメルで注記され、同じ番号と部位名が書かれた切手シールが貼られている。これは長谷部 〔10〕 によれば、1895(明治28)年頃に足立文太郎により当時人類学教室に所蔵されていた全人骨に対して付された標本番号である。

モース報告と小金井 〔4〕 及び長谷部 〔10〕 の対応では、モースの人骨リスト1番目の上腕骨及び15番目の脛骨について以下のように判断した。モース報告1番目の上腕骨は右側と記述され、遠位端が残存していたと推測される。一方、小金井の1号上腕骨(足立のNo. 1)は左側とされ、上下端が破損していたとされ、両者の記述内容は一致しない。しかし、モース報告では他の部位においても左右の相違がみられること、足立による大森人骨の標本番号はモース報告のリスト順をある程度加味したものと考えられる点から、両者が同一標本を示す可能性があるとして表示した。

また、本館にはモース報告の脛骨に該当すると思われる模型が収蔵されており、標本カードにはピーボディ・エセックス博物館に収蔵されている大森脛骨の模型より複製したと記されている。この模型の計測値と小金井 〔4〕 及び長谷部 〔10〕 に記載された計測値とは一致しないことから、モース報告の脛骨と小金井の1号脛骨(足立のNo. 18)とは別標本であると結論した。

既報告文献のいずれの人骨リストにも該当なしとした7点のうち、4点(BD-4, 5, 76, 77)は山口 〔15〕 で未記載とされた標本と一致している。残り3点のうち、2点(BD-3, 17)はモース報告などに該当部位の記載はあるものの記述内容に大きな相違があるため、本調査ではモース報告に対応しない標本のリストへ含めた。また、頭頂骨2点(BD-15, 79, 80(3片で1標本)とBD-78)については、今回はBD-15, 79, 80が「19」と注記され、19番目の記述内容(「Left parietal.」)により一致している点から、BD-78をモース報告に未記載の標本とみなした。

⇒表4 人骨標本とモース報告及び既報告文献との対応

対応する標本

対応しない標本

(7)標本番号・注記の種類と変遷について

今回の調査により、大森標本には様々な種類の注記・標本番号が付けられていることが確認された。ここでは、大きく3つの時期に分けてそれらの変遷を追ってみるが、推測の域を出ていない部分もある。

(7‐1)モース報告当時の注記と考えられるもの

現段階で分かっている最も古い注記は、先述した博物場の注記であり、土器の外面に朱書きで小さく書かれている点が特徴的である。骨標本の一部にも認められる。その他に確実に同時期といえる注記はいまのところ見つかっていない。

(7‐2)明治後半~昭和初期と考えられる注記・標本番号

博物場の閉鎖後、すでに他遺跡標本の混入が始まっていた可能性が高く、注記のみで出土遺跡を判断するのは困難となる。以下、この時期に該当すると考えられる主な注記を列挙する。

和紙「大森」

和紙に墨書きで「大森」などと記し、土器に直接貼り付けるか、把手に結びつけている。数点のみ見られる。また、BD04-152のように「第九期」と書いた和紙を把手に結びつけた例が見られる(写真図版4参照)。文献 〔5〕 のように、把手の変遷を扱った論文があるため、そのような研究の際に付けられたと考えられる。

切手シール「武蔵国荏原郡大森」「武蔵大森」「大森」

切手状のシールに墨書きで注記されているものが、しばしば貼り付けられている(写真図版4参照)。陸平にも同様の注記があり、使われている地名から明治29(1896)年以前の注記である可能性が高い 〔24〕

墨書き「大森」

非常に多く見られる。特に「森」の字に特徴的な筆跡が複数認められる(写真図版3参照)。複数の人によって書かれたと見られ、注記された時期に幅があるかもしれない。

墨書き「OM」

OMは「OMORI」の略と考えられる。注記された標本は少なく、時期を判断するのは難しい。

モース報告図番号

朱書きで「I. 1」などモース報告の図番号が注記されたもの。モース報告土器のすべてに注記されているわけではなく、特に、今回の調査で新たに発見されたモース報告標本にはほとんど注記されていない。よって、報告当初の注記とは考えにくい。図番号が誤っているものも数点ある。墨書き「大森」と重複している場合があり、図番号の方が新しく注記されたようである。

人類学教室原番号(4桁以下)

大正末期~昭和初期にかけて作成されたとされるカードに対応した、1~8480番までの標本番号。大森標本では土偶に1桁か2桁、完形に近い土器・石器・骨角器の一部に4桁の番号が付けられ、黒で注記されている。

人骨注記番号

人骨に黒エナメルで注記された127までの番号で、1895(明治28)年以前に足立文太郎により付された標本番号。人類学教室原番号とは異なり、人骨に限って付された。当時人類学教室に所蔵されていた全人骨に対して、番号の有る無しに関わらず改めて連番で付されている 〔10〕

(7‐3)戦後の注記、標本番号と考えられるもの

戦後~現在に至るまで何度か体系的な標本番号の整備が試みられた。以下のような注記・標本番号がこの時期に該当すると考えられる。

A番号

965年~69年に作成された遺物カードによる番号と、大判カード作成時にその延長として付与された標本番号。Aの後に4桁以下の数字が入る。大森標本では人類学教室原番号と重複して付されているものが多い。A番号は標本に注記されていないが、完形土器などにはA番号と人類学教室原番号が記されたラベルが入っている場合がある。これは1970年代に標本を撮影した際に使用したものである(赤澤威、2006年私信)。

人類学教室原番号(10000番台以降)

1968年以後に作成された大判カードにある、5桁の番号。それまでに人類学教室原番号(4桁までの番号)を持っていなかった遺物に付与されたもので、たいてい油性ペン(マジックなど)で注記されている。骨・骨角器・貝は収蔵されている箱単位で番号が付されているものが多い。

BD当初番号

多くは油性ペンで、一部は鉛筆で注記されている。BD-85まであり、骨・骨角器に多数付されている。今回のBD04番号とは無関係である。

初鹿野博之 (宮城県教育庁・文化財保護課)
山崎真治  (沖縄県立博物館・美術館)
佐宗亜衣子 (東京大学総合研究博物館)

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