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小野秀雄コレクション再考

木下直之


小野秀雄と瀧精一

半世紀近く前の出来事を憎悪の言葉で語り、すでに四半世紀も前に鬼籍に入った人物になお鞭打つ点で、小野秀雄の『新聞研究五十年』(毎日新聞社、一九七一年)は特異な回顧録だ。 恨みを買い続けたのは美術史家瀧精一(一八七三〜一九四五)である。おそらく、これは、昭和三年(一九二八)、東京帝国大学文学部に開設が決まりかけた新聞学講座を、文学部長だった瀧によって一蹴された怨みが小野の骨髄に達したというだけの話ではない。瀧を「象牙の塔に立てこもって学問の応用面を蔑視する古い頭の学者の集まり」(同書)の代表に仕立て、むしろ彼らの理解の届かない場所に、小野が新聞研究を展開させてきたことを物語ってもいるはずだ。

瀧の意向を体した大学当局は、新聞研究に対してつぎのような見解を示した。「(一)本学に於て将来新聞学なるものの講座を設くるに至るや否やは全く不明なり是れ単に経費の都合にのみ依るにあらず新聞学なるものの学問としての性質上然るものなり、(二)本学に於て新聞に関する研究をなすものは主として純学理上の研究をなすものにして、新聞の記者又は経営者の養成の如きは寧ろ間接なる事に属す、(三)(四)略」(同書)。

小野の提唱する新聞研究を「新聞の記者又は経営者の養成の如き」ととらえるのは明らかな矮小化だが、小野は小野で、「滝教授のような美術史の教授は美術のことがわかるだけで、新聞学のような社会科学には見通しがつかないのである」(同書)と当時を振り返り、人文科学対社会科学という単純な図式から最後まで逃れられなかった。穿った見方をすれば、「新聞研究五十年」を回顧するためには、頑迷な無理解者の存在を必要としたのである。

瀧精一は日本画家瀧和亭の長男として生まれた。大正三年(一九一四)、東京帝国大学文学部に美術史学講座が開設された時、初代教授となり、昭和九年(一九三四)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。さらに美術雑誌『国華』の主幹も務めていた。

昭和三年に瀧が新聞研究に対して示した拒絶は、文学部長としての判断であっただろう。小野はさらに、瀧が『国華』を通して朝日新聞社と深いつながりを持っていたことから、東京日日新聞の記者であった自分を排斥したのだろうと推測する。いずれにしても、美術史家としての瀧の視野には、新聞はもちろん、かわら版や新聞錦絵など入りようがなかった。

かわら版にも新聞錦絵にも絵があり、それなら美術史学の研究対象となり得ると考えるのは現代の発想であり、当時はそれは美術ではなかった(もちろん今も美術ではないし、本展がそれを美術に仕立てようと企んでいるわけでもない)。あるいは、かわら版や新聞錦絵を論じることは「社会科学」の研究ではあっても、美学講座の中に第二講座として開設されて間もない美術史学という「純学理上の研究」の受け容れるものではなかった。

そう考えるなら、小野の瀧批判もあながち的外れではないが、需要と供給の関係から自由にはなれないまま社会を流通する美術がなぜ「社会科学」として研究されないのかを突くべきで、「美術史の教授は美術のことがわかるだけ」と放免すべきではなかった。なぜなら、それができるだけの材料を、そのころの小野はすでに手に入れつつあったからだ。

小野秀雄のかわら版・新聞錦絵に対する関心は、大正五年(一九一六)に始まる。戸川残花を訪れた際、地震や津波のかわら版を初めて目にしたという。やがて『日本新聞発達史』(大阪毎日新聞社、一九二二年)を著すころには、自ら収集も開始していた。そして、大正一三年には、吉野作造、尾佐竹猛、石井研堂、宮武外骨らと計らって明治文化研究会を結成したのだから、かわら版・新聞錦絵に限らず、幕末開化期の生活文化を伝える資料は小野の手に届く範囲内に急速に集積されていた。

そのように視野に入ってきたかわら版・新聞錦絵を、小野は、いわば「日本新聞発達史」の前史に位置付けた。しかし、新聞を基準にして、新聞以前の未熟で未発達なニュース・メディアという性格をそれらに与えたことは、それ以外の解読に道を閉ざす結果となった。たとえば地震や津波の被害を伝えるかわら版のような災害情報が、どれほど不正確で主観的なものであったとしても、被災者にとっては鎮静剤に似た役割を果たすという災害研究が明らかにしてきたことも、新聞発達史をリネアに探るだけでは到達できない知見だっただろう。

さらに、かわら版や新聞錦絵が稚拙ながらも画像を持っていることの意味にも、考察が加えられるべきである。社会を流通する画像に対する理解は、小野・瀧ともに思いもつかなかった美術の社会科学、あるいは新聞の美術史学(むしろヴィジュアル・メディア研究と呼ぶべきか)にも道を開くに違いない (1)

落合芳幾と五姓田芳柳

新聞錦絵の興味深い性格は、もとになった新聞記事と錦絵との間に時差があることだ。たとえば、歌舞伎役者嵐璃鶴と密通したあげくに旦那を毒殺した原田キヌの事件は、明治五年(一八七二)二月二三日発行の『東京日日新聞』第三号で報じられたが、それが錦絵になって売り出されるのは明治七年の夏だから、少なくとも二年半の隔たりがある(図269)

殺人という出来事、その事件化(キヌは死刑、璃鶴は懲役刑に処せられる)、その新聞報道のそれぞれの間にも時差があるが(図270)、それから錦絵化に至るまでの隔たりは際立って大きい。もっとも、平田由美氏が「 “毒婦”の誕生」(二三八頁)で明らかにするように、さらに四年を経た明治一一年に、キヌは連続殺人犯「毒婦夜嵐お絹」という虚像(巨像でもある)に仕立てられる始末だから、それぞれの時差のあとに、新たなメディアがどのような情報を伝えたのかを細かく見てゆく必要がある。そのつどの情報の商品化こそ、「ニュースの誕生」にほかならない。

キヌの旦那殺しが二年半の熟成期間をおいて錦絵の主題に変貌したわけではない。真相は、新聞錦絵というメディアを新規に開発した関係者が、錦絵化にふさわしい主題を過去の新聞記事に探し、そのひとつとしてキヌの事件を見つけ出したということだろう。何よりもまず、それは売れるものでなければならない。人に金を払わせるだけの物語と画像が求められた。

物語も画像も必ずしもキヌの事件に必ずしも内在する必要はなく、戯作者と絵師(この場合は高畠藍泉と落合芳幾)の判断に委ねられる。そもそも画像に関していうなら、現実の出来事に固有なものなどない。むしろ出来事にふさわしい画像を絵師が作るのであり、それは写真の時代を、次いでテレビの時代を迎えた現代もなお変わらない。

殺人事件を扱えば、芳幾は凄惨な殺人の現場を描くことが多かったが、キヌのこの事件では、ふたりに殺意が芽生えた瞬間を描こうとしたようだ。春画にも通じるけだるさを漂わせるふたりの背後には、いかにも図式的に、毒殺に用いた鼠取りを売り歩く男の姿が描き込まれている(図269)

そこでは、情報の速報性も厳密性も二の次である。しかしながら、遠い昔話や超人的な伝説を売り物にしたわけではない。セールス・ポイントは現代の事件だという点にあった。それまでのかわら版は、現代の事件を扱おうとしても、武家社会には言及できない、いわゆる当局発表の公式情報がないなど、多くの制約を抱えていた。こと市井の殺人事件となると、かわら版が扱えたものは、仇討ちという私刑ではあったが公認された殺人ぐらいであった(図96)

明治維新とは、こうした情報空間の崩壊と再編成でもあった。明治七年の読者が受け入れた新聞錦絵の新しさとは、事件の主たちと同じ時空間を共有しているという臨場感にあっただろう。それこそが、錦絵が新聞に依った意味である。

おそらく、翌明治八年の春、浅草奥山で開いた油絵の見世物の大半を新聞錦絵に取材した五姓田芳柳にも、同じ判断が働いただろう。前年春の見世物では、油絵で芝居絵や役者絵を描いて見せることに終始した芳柳が、その直後に出回り始めた新聞錦絵に鞍替えしたのは、そもそも油絵の迫真性を訴えること、観客に臨場感を抱かせることを興行の目的としていたからだ (3)

だからといって、同時期の高橋由一のように鮭や豆腐などを迫真的に描いて満足しなかったのは、芳柳がもともと歌川国芳の下で学び(したがって芳幾とは同門ということになる)、浮世絵の世界に交わり、物語性を画面から排除することができなかったからに違いない。あるいは、物語性を排除しうるだけの油絵の迫真技術を芳柳が身につけていなかったともいえる。芳柳は当時「西洋画工」を自称したが(興行の引札にそう書いてある)、弟子の平木政次の証言によれば、明治七年の興行は「カンレンシヤに泥絵具で描きその上へニスを引いて、油絵の様に見せたもの」であり、明治八年では「油絵と云ふ看板ですが、実は水彩画」を見せたにすぎない(平木政次『明治初期洋画壇回顧』一九三六年)。

明治七、八年当時、ある出来事が手に届きそうなところで起ったと感じさせる情報空間が新たに出来上がっていた。それはまず新聞によって準備され、錦絵によってかたちを与えられた。芳柳はただ油絵というメディアを引っさげて、そこに参入しただけかもしれない。しかし、翌明治九年に下岡蓮杖が同じ浅草奥山で開いた油絵の見世物は、七年前の函館戦争と二年前の台湾戦争を主題とし(作品は靖国神社遊就館に現存、ただしこれも泥絵具を用いた油絵もどき)、東京日日新聞記者岸田吟香が深く関わったことを考えれば(吟香自身の姿も画中に大きく描かれている)、文明開化期の美術と、新聞や新聞錦絵など新興のニュース・メディアとの因縁は浅からぬものがある。

何を描いたことでそれが商品価値を持つに到り、それからまた、何を描くことをやめて近代を迎えたかをたどり直せば、当時の美術の姿が浮き彫りにされるだろう。その後、戦争という合法的集団殺人や演劇化された殺人が主題に選ばれることはあっても、市井の殺人事件を描く画家は姿を消すからだ。

以上は、小野秀雄コレクションのほんの一部に加えた私なりの解読にすぎない。小野の遺産は、さらに多様な解読を待っている。社会情報研究所の創立五十周年という時間をさかのぼる記念事業に、総合研究博物館の東京大学コレクション展という逆に現在の状況に向かって網を投げ掛けるような試みとを重ね合わせた本展が、そのための機会となればよい。



  1. 美術雑誌『国華』と朝日新聞社の今なお続く関係はともかく、美術展と新聞社の関係は、疑いなく、日本社会における美術の在り方をくっきりとかたちづくっている。それならば、小野と瀧が考えたほど、美術史学と新聞学は無縁ではない。
  2. そもそも江戸時代の殺人を現代日本人が現行の刑法に基づいて考える殺人と同一視することに無理がある。事件化されない殺人はいくらでもあった。ちなみに、原田キヌの殺人を事件化したものは、明治三年に制定された新律綱領である。
  3. 平木政次『明治初期洋画壇回顧』(日本エツチング研究所出版部、一九三六年)によれば、明治八年の見世物で公開された油絵は次の一一点。このうちの少なくとも八点は新聞錦絵をさらに油絵化したものと思われる。( )は平木による原註、< >は木下が該当する新聞錦絵を記した。

  一、正面 表招き(狂言)だんまり、似顔、切抜画、(飾り場所庭造り)
  一、嵐璃鶴とお絹、表座敷の図(鼠取り薬で旦那を毒殺事件、団十郎の句、絹々の夢の嵐に舞胡蝶)(九世三升)

    <東京日々新聞第三号>
  一、楠公桜井駅訣別図
  一、市川団十郎勧進帳、弁慶を西洋人が称誉の図
    <東京日々新聞四十号>
  一、佐賀県騒動貞婦一子殺し自害の図(岩井半四郎、似顔)
    <東京日々新聞六百八十七号>
  一、芝神明揚弓場婦女怨の刄、数人切の図
    <東京日々新聞八百三十三号>
  一、闇夜巡査墓地に於て婦女を救図
    <郵便報知新聞第四百六十六号>
  一、重罪犯人遠島舟中に於て目明しを殺害する図
    <東京日々新聞二百二十号か>
  一、吉備大臣入唐、貢物を得る図(坂東彦三郎似顔)
    <東京日々新聞九百十七号>
  一、上野戦争山王台、天野八郎奮戦の図
    <東京日々新聞六百八十九号>
  一、白浪五人男勢揃、似顔、切抜画、芝居書割り


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