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新聞錦絵と錦絵新聞

佐藤健二


本展覧会において、かわら版と並んで取り上げられた小野秀雄コレクションの素材は、従来あまり明確に意識されないままに二通りに呼ばれてきた。「新聞錦絵」と「錦絵新聞」である。

「ライスカレー」と「カレーライス」のように、呼称としてどちらでも支障はないと感じるかもしれない。しかしながら日本語の場合、語句の順序は、概念をどう設定していくかという方法論的な問題に密接に関わる。

「ライスカレー」と「カレーライス」の間でならば議論にならない選択でも、「マンガ雑誌」と「雑誌マンガ」とでは、その用語によって指し示される対象の具体性や、それを一つの分類として含む全体が異なってくることは明らかであろう。

副題および図録の図版解説やコーナーの展示解説を、「新聞錦絵」で統一したことをめぐり、最低限の解説を加えておきたい。主題である「ニュースの誕生」をどうとらえるかとも深く関連しているからである。

用法のなかの並列

研究の現状での基本的な問題点のひとつに、従来、どちらの語を使うにしても、あまり自覚的には使われてはこなかったという事実がある。浮世絵関係の事典類では「錦絵新聞」と項目をたてている例が目立つが、それらが浮世絵雑誌に掲載された宮武外骨や石井研堂の用例に影響されていることは明らかであろう。「新聞錦絵」の語は、小野秀雄の『新聞錦絵』の刊行以降に目立つ。しかし、美術史的な把握から一歩踏みだした労作といっていいジャーナリズム史研究会の『新聞錦絵』でも、たとえば「明治七年、八年に盛んに発行された「新聞錦絵」あるいは「錦絵新聞」と呼ばれる、一連の錦絵」というように両方の語を並列的に使っていて、明確な意味の差を設定してはいない。

むしろ二つの語に対して、理論的にあるていど踏み込んだ判断を示していたのは、小野秀雄である。小野は、新聞に掲載された事件を錦絵化した東京のものを「新聞錦絵」、前提となる新聞から独立した大阪のものを「錦絵新聞」と、区別して概念化したからである。しかしながら、この概念化は不十分なものにとどまった。東京か大阪かという地域差の問題と、新聞錦絵か錦絵新聞かという「新聞」性の差の問題とは、本来独立の論理軸であるにもかかわらず、それを重ね合わせてしまっているからである。

小野の「新聞錦絵/錦絵新聞」の用語は、けっきょくのところ単純にそれぞれの地域で出された新聞錦絵の表題レベルでの傾向の違いを、実態的に写したものにすぎないという印象をもつ。その対比は、分類という作用からみても記述的であって、分析的に再構成された概念ではなかったのである。

新聞錦絵現象の概念化に向けて

そのようななかで、この展覧会において、どのような用語を共通して使うかが、改めて問われることになった。もちろんそれぞれの立場で使えばいいという判断もあり、われわれもそれを基本的には尊重した。しかし概念としての差異が共通に踏まえられたうえで二つが使われているのであればともかく、呼称レベルで二つの異なる用語が並ぶのは冗長であり、混乱以外の何ものをも生み出さないという意見も強く、個々の論文を除き、図録の解説やキャプションのなかではひとつの語に形式的に統一する方向が選ばれた。

そのプロセスで、小野らの区別を批判的に継承しつつ総称として「錦絵新聞」を主張する土屋礼子氏と、基本的な出発点としては「新聞錦絵」という概念の方がふさわしいと主張する佐藤とが、電子メールを通じて「論争」めいた議論を交わすことになった。いくつもの論点を含む論争そのものの紹介はむずかしいので、二つの主要な論点にだけ触れておこう。

錦絵と新聞との関係

一つは、用語のなかの錦絵と新聞との関係である。それは錦絵なのか新聞なのか、とまとめてしまうと単純になりすぎるが、ニュースの誕生といういささか多義的な主題と関わって、新聞という語の位相が論点となった。

すでに『大阪の錦絵新聞』の著作のある土屋氏は「錦絵という形式を活用した独立したニュース媒体」の意味で「錦絵新聞」の語を用い、やがて確立してくる新聞との「速報性、継続性、定期性、事実性」における連続性に光をあてた。主張のひとつのポイントは、今日の新聞とは表現形式などが違ったものであったとはいえ、新聞錦絵には「新聞」と分類するにふさわしい媒体としての独立性・独自性が存在したという理論的な含意の強調であり、問題提起であろう。

これに対して、佐藤が「新聞錦絵」の語で主張したのは、それがもつ「錦絵」としての存在様式の基本性、すなわち多色刷木版メディアであるという複製技術のモノとしての特質であり、また嚆矢となった「東京日々新聞大錦」が新聞に載った出来事を素材に錦絵化するという原型をつくったという歴史的事実の基本性である。ポイントは、既に発行されていた新聞というメディアの情報世界を前提に成立し始めた錦絵(=多色刷木版メディア)文化として対象を設定する点にある。

定期的な報道媒体として離陸したのか否か、独立独自の取材報道や出版流通の体制をそなえるに至ったか否かは、その当時「新聞」と呼ばれていたメディアの実態も含めて、ひとつひとつの新聞錦絵の生態において検証すべき主題であると思う。その点では「錦絵新聞」概念の成立可能性を退けてもいない。さらに土屋氏が自らの「錦絵新聞」の範囲から外した「やまと新聞付録」の『近世人物誌』や、おもちゃ絵の『しん板しんぶんづくし』や『新聞絵解』などを含めて、新聞というメディアとの歴史的な展開との関係を分類しつつ改めて論じられる点は、錦絵としての存在様式に基本を置く「新聞錦絵」概念の利点のひとつだと佐藤は主張した。じっさい厳密な意味での「錦絵新聞」の限定の対象外の素材を用いて展示が構成されているという事実は、本図録での用語統一における「新聞錦絵」の採用を根拠づける共通理解の一つであった。

読者のなかの「新聞」

もう一つ、触れておくべきは「錦絵新聞」という語に寄せて提起された読者の論点である。

土屋氏は、新聞錦絵が発行された当時から一九二〇年代まで一般に使われていた「錦絵新聞」という用語には、受け手の「新聞」に対する視点が息づいているのではないかと指摘し、その語感を生かしてみたいと問題提起した。さらに進めて、たとえ生産の実態が新聞記事の錦絵化であったとしても、受け手たちはこれを「新聞=ニュース」の媒体としてとらえ、その受容を通じて、未知の新しいメディアすなわち「新聞」を認識したのではないか、という仮説を投げかけた。

たしかに、人びとが新聞錦絵の受容を通じてどのように新聞を想像したのかは、その「新聞」の内実を含め、たいへんに重要な研究主題である。しかしながら、その主題を方法的につめていくために押さえなければならない歴史的事実は多く、われわれが新聞錦絵と呼ぶこの対象が、隆盛の当時に何と呼ばれていたのかの探究すら、まだまだ不十分である。

「新聞」か「新聞」かの読みも無視できない差異で、「しんもん」の音は河内音頭の「しんもん語り」を媒介に、芸能やかわら版の領域にまで補助線を引いていくことになろう。新聞錦絵の資料の内側でだけ考えても、「新聞錦画」という文字が『新聞図会 第二十三号』のなかにあることなどをみると、「錦絵新聞」という呼称が一般的であったと断ずるのには躊躇を感じる。さらに明治末期の備忘録のなかに現れる「絵附ロク」の呼称の含意や、一九二〇年代の明治文化研究会を中心とした言及がなぜ「錦絵新聞」であるのかにも、その当時の歴史的時空に踏み込んだコンテクストの解釈が必要となろう。

そうした資料それ自身の多元性を受け止めるためには、読者の主観的な認識に最初から強く深入りした定義は方法的に望ましくないと私は考える。「錦絵新聞」の語の強調に込められた読者論的な問題提起に深く共感しつつも、それは歴史社会学が分析すべき課題であって、対象を指し示す基本的な役割において「新聞錦絵」概念の有効性を退けるものではない。概念の定義のもつ重要な役割の一つは、対象を指し示す機能で、そこにおいて問題提起の共同の検証や探究が行われる、共通の土台をすえることにある。仮説や解釈を用語の規定の中心に入れればいれるほど、社会学的な歴史研究における認識生産の土台としての共通性を失っていく危険性がある。

生産様式としてのメディアレベルで「新聞」も「錦絵」も概念設定し、「新聞」と呼ばれるメディアの勃興期でもあった時期に、その情報世界との接点において生まれた「錦絵」の一形態を指し示すところから「新聞錦絵」の基本的な規定を始めたのも、「錦絵新聞」の強調においてなされた読者論的な問題提起を無視したからではなく、むしろそれを研究主題として明確に受け止めることのできる枠組みの構築を考えているからである。

本図録での「新聞錦絵」への統一は、以上のような形で「錦絵新聞」を含みこむものであるとご理解いただければ幸いである。


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