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[かわら版の情報世界]

かわら版と舌耕文芸

延廣眞治


本日御覧頂いたように、小野先生は見事にかわら版を中心とする一枚摺の収集を成し遂げられた。しかも実際に集められたのは、社会情報研究所所蔵分より多かったのであるから、驚かざるを得ない。名著『かわら版物語』には、赤穂義士討入り後に、かわら版が刊行されたとの諸書の記述の溯源を試み、伴蒿蹊『閑田次筆』(文化三年刊、一八〇六)と突きとめ、その『閑田次筆』は、備後の人坂本才助の筆記によるが未見とされた。この話柄に因んで、赤穂義士関連の一枚摺を二種所持していたが、一枚は展覧会出品の際に抜き取られ、「他は疎開の時荷物諸共盗まれた」と記される。展示の折の盗難は、そう度々は起こるまい。しかし疎開となると、被害の点数はかなりに上ると思われる。

その「閑田次筆」巻四の記事は、凡そ次のようである。

大野九郎兵衛の娘の伝。娘を娶った備前藩士梶浦氏は、舅の名が、討入りの「人数を録して」売り歩いて来たのにも見えないので、連れ添うのは士道に反すると、離縁を告げた上、「家を失っているので裏の離れに住め。子の孝養を受けるのはよいが、我は対面せず」と、遂に生涯言葉を交さなかった。

この話柄は、不義士の報いの見本として好まれたらしく、西沢一鳳軒『皇都午睡』(嘉永三年成立写。一八五〇)三編上、山崎美成『赤穂義士一夕話』(安政元年刊。一八五四)巻六、大槻磐渓『近古史談』(元治元年刊。一八六四)巻四にも採られており、講談では「義士外伝」の内、「大野九郎兵衛の娘」と題して読まれたおり、例えば、二代目柴田南玉斎の速記が、『文芸倶楽部』七巻十四号(明治三十四年十月二十日刊、定期増刊)に収められている。

江戸時代には事件が起きると、かわら版や講談で伝えられた。赤穂義士討入りは、講談最大の読み物「義士伝」中の華であり、「難波戦記」も、殊に大坂で好まれた。

講談や落語、人情咄等を合わせて舌耕文芸と呼ぶのは、中村幸彦博士の提唱であるが(『中村幸彦著述集』巻十)、余りに多い講談は後日を期し、ここでは人情咄の素材と関わりのあるかわら版の内、幾つかを取上げたい。

寛政十年(一七九八)十一月十二日、深川(江東区)猿子橋辺りで、山崎みき・はる母娘が、夫であり父に当る彦作の仇、崎山平内を討った。平井仙龍に助太刀を仰いだものの、婚約者はるが十八歳のため評判を呼び、かわら版は「寛政このかたほまれかヾ見」(小野秀雄氏旧蔵)と、「江戸深川敵討之記」(都立中央図書館蔵)の二種類確認できる。後者は四丁もあって長く、瀧山勝内、奥野仙龍などと名が違っている外、読者向けをねらって事実を改変する。つまり勝内の首を打落とし、仙龍にも褒美を給ったと報ずるのであるが、実際には、大勢留めに入ったため本懐を遂げ得ず、二十八日破傷風で平内死去。その四日前、仙龍は癪気で病死。褒美に預かってはいない。

一方、「寛政このかたほまれかヾ見」も、はるをさの、弟がいる等、誤聞を含むが、平内が取押さえられたのは、正しい。共通するのは浅草観音の御利生を説く点で、『撰要永久録』等の公的記録には見えない。敵討のような大難事の成就には、冥助なくては適わぬと言うのが、江戸人の心性なのであろう。明治三十三年刊の田辺南麟口演『寛政復讐山崎勇婦伝』など、講談の速記本が残るが、今もなお演ぜられているのは、三遊亭円朝作の人情咄『敵討札所の霊験』(『やまと新聞』明治二十年六月二十六日より連載)。設定は史実と異なるが、水司又市と水島太一という、聞分けにくい善悪両人が登場する趣向は、錯覚しやすい山崎・崎山の両氏名から思い付いたのであろう。

同じ円朝の人情咄『操競女学校』(『やまと新聞』明治二十一年四月末より連載。欠号のため開始日不明)は、五人の女性の伝。二人目のお蝶の伝は、継母と密夫に父を殺されたお蝶が、弟徳次郎を励まして本懐を遂げるとの敵討譚で、大槻磐渓編『奇文欣賞』(明治元年刊、一八六八)所収、葛西因是「二童復讐」の兄弟を姉弟に代えて、膨らました作。しかし、お蝶が殺されかかったり、茹で殺されようとする条は、「二童復讐」には含まれていない。ところが、嘉永七年(一八五四)四月に、小金井の百姓庄右衛門の後妻が継娘を、毒殺しようとして失敗、茹で殺した旨、かわら版で報ぜられている(図32)。手習師匠が、毒殺から守ったものの、庄右衛門宅を訪ねた際には既に大釜で殺されていたとある。この師匠に当たるのが、「お蝶の伝」の大心和尚で、二度ともお蝶を守り通す。嘉永七年は、円朝十六歳。七歳から寄席に出、十七歳で場末の真打ちとなっている。この事件との接点は解らないものの、かわら版の記事が「お蝶の伝」に生かされているのは事実であり、かわら版が無ければ今日、このような惨劇が起こったことも知り得まい。

円朝が三遊派の再興を初代円生の墓前に誓ったのは、先に述べた場末で真を打ったのと同年の十七歳。三遊派と拮抗したのが柳派で、大看板の一人が春錦亭柳桜。黙阿弥の名作「梅雨小袖昔八丈」(明治六年六月、中村座初演)の原作となったのが、十八番の人情咄「仇娘好八丈」であるのは、よく知られている。この柳桜の「大久保曽我誉仇討」は、『百花園』創刊(明治二十三年十一月五日刊)以来十三回にわたって連載された点より見て、自信のある出し物と思われる。

右の大久保は小田原藩主の名字。つまり同藩足軽浅田只助の養子鉄蔵、実子紋次郎の兄弟が父の仇成滝万助を討ったので曽我兄弟に准えての外題。もっとも文政七年(一八二四)三月一日、磯浜祝町(茨城県大洗町)で本懐を遂げたのは、父が斬られてから五年半後なので、曽我兄弟の十八年に比して遥かに短い。柳桜は、小田原に出向き紋次郎(明治十二年八月十七日、七十一歳没)に会って取材した旨、冒頭で述べているのも自負の現れであろう。かわら版には、「孝子東賢気」(図96)と「水戸岩船岩ゐ町ニおゐて敵討」(『大洗町史』通史編写真掲載)の二種を確認し得る。後者は敵討当日に江戸の四谷伝馬町勘兵衛等より刊行の体裁を取っており、敵討後兄弟に新知百石(五十石が正しい)とする外は、ほぼ史実。一方前者は、朝田友勝・文次郎兄弟が有竹伴介を討つ等、人名がまるで違っている。特色は万介女房とはの言動にかなり筆を費やする点で、今も万助堂(願入寺境内)に祠られるような同情論の萌芽が見られる。この仇討譚は、講談にもなっているが、邑井一『 鉄 蔵紋次郎水戸の仇討』(明治三十二年刊)は、「大久保曽我誉仇討」の流用。人情咄も講談も速記になると区別し難い実例でもある。

最後に志ん生の高座が耳に残る、「猫の恩返し」を取り上げたい。『かわら版物語』に、「江戸の作り話のかわら版」として例示するのが、「めづらしやねこに小判」(水谷幻花所蔵)。文化十三年(一八一六)、本所緑町(墨田区)に住む時田喜三郎の飼猫を可愛がっていた肴屋の次郎吉が病床に臥していると、小判を咬えて来ることが重なった。これを聞いた喜三郎は打ち殺すが、次郎吉は両国回向院に葬り石碑を建立。石塚豊芥子『街談文々集要』、高田与清『擁書楼漫筆』、藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』、宮川政運『宮川舎漫筆』(文久二年刊、一八六二)等に登載。福森久助作歌舞伎『褄重噂菊月』(文化十三年九月、中村座初演)に当て込まれてもいる。同時代の証拠が備わり、回向院に猫塚も現存する以上、実事と判定すべきであろう。かわら版・日記・随筆等の間の喰違は、数々見受けられるので虚譚とする根拠にはならない。

ところが中込重明「『猫の恩返し』の源流」(『諸芸懇話会会報』平成八年十二月号)によると、静観房好阿作読本『諸州奇事談』(寛延三年刊、一七五〇)巻一の七「猫児の忠死」,関亭伝笑作合巻『復讐猫魅橋由来』(文化六年刊、一八〇九)二編に類話が見られるという。同内容の記事が時・所を隔てて繰り返される現象をニュースの鴨といい(平井隆太郎「かわら版の虚像と実像」『太陽コレクションかわら版・新聞,江戸明治三百事件』第二冊)、虚譚の証という。文学作品にも応用し得るのではあるまいか。「めづらしやねこに小判」を虚報と断ぜられた小野先生の慧眼に改めて敬意を表したい。


赤穂分限帖

小野コレクションのうちには、いわゆる元禄赤穂事件に関する摺物三点、仮名手本忠臣蔵の歌舞伎番付一点がある。この事件が江戸時代に繰り返し論じられ、また演じられ、人口に膾炙してきた在り方の一端を窺うことができる。「赤穂分限帖」は、取り潰しとなった赤穂藩の分限帖に、元禄一五年吉良邸襲撃に参加した者、参加の意志は持っていたが不参加であった者等を刻したものである。版行された時期は不明である。

図95
 

孝子東賢気

敵討は、いわば江戸時代の公然たる殺人行為である。そのためには、敵を討つ側が正義であり、討たれる側は釈明し難い不正義となる。だからこそ、この正義は、是非とも実現されねばならず、助太刀も認められた。ここには、不正義を制する正義の殺人とは、どのような手続きを経なければならなかったが語られている。この行為は少なくとも、主君に対する忠義や親に対する孝行を実現した究極の形として、かわら版が伝えるビッグ・ニュースのひとつであった。

図96


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