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ニュースの誕生を問いなおす

吉見俊哉


私たちは、日々ニュースを消費する社会を生きている。昨年の和歌山の毒入りカレー事件やその前年の神戸での酒鬼薔薇少年の事件、そして一九九五年の阪神淡路大震災やオウム真理教事件の報道から八〇年代の連続少女誘拐殺人事件やロス疑惑事件、グリコ森永事件あたりまで、ここ十数年の経験をふり返ってみれば明らかなように、私たちの社会は、すでにニュースを社会的な時間の流れの一部として消費していく欲望の機構をすっかり身につけてしまっている。テレビのニュース番組やワイドショー、宅配される全国紙や売店で買うスポーツ紙や週刊誌、電車の吊り広告、そして友人や仲間とのちょっとしたおしゃべりまでが、こうした欲望を維持し、増殖させていくシステムの一部になっている。

これらのニュースが単に事実を反映しているのではなく、むしろ事実を構築しているのだということは、すでに多くのメディア研究者の基本的な了解事項の一つかもしれない。五〇年代にブーアスティンがメディアによる事実の製造を、つまり現代社会ではニュース報道の方が事件をアリバイ的に作り出していることを批判したときには、まだニュースはそもそも「生の事実」を報道するべきものだという認識が根底から疑われていたわけではなかった。しかし六〇年代以降、現象学的ないしは構造主義的なアプローチがそれまでの機能主義や実証主義の基盤を突き崩していくなかで、こうした「ニュース」と「事実」の関係そのものが問い直されていくことになった。七〇年代末以降、いくつもの批判的アプローチがニュースを出来事の反映としてではなく、むしろ形のない出来事を公共的に語られる「事件」に変えていく意味生産的な語りとして分析し始める。そこではニュースが、語り継がれ、注釈され、各人なりに受容される点で、おとぎ話とも似た性格を持つとまでされていった。

しかし、ニュースとおとぎ話は同じではない。ニュースが事実に基づき、おとぎ話が架空の物語だから異なると言うのではない。そうした「ニュース=事実」についての素朴な認識を、私たちはもはやそう簡単に信じてはいない。それにもかかわらず、「昔々」のある原型的な物語の構造に回帰していくように見えるおとぎ話と、絶えず話の「新しさ」が要求されていくニュースの間には、やはり語りの形式に構造的な差があるのである。

この新しい公共的な語りの形式としての「ニュース」は、いつ、どのようにして誕生したのか。この問いに対する答えはそれほど簡単ではない。それはいわゆる近代新聞の誕生と重ならないし、歴史上の一時点ですっきり切断できるわけでもない。むしろこの展覧会が示していくように、すでに近代新聞が簇生しつつあった明治の日本にあっても、新聞錦絵にはいわゆるニュースの語りに包摂しきれない、むしろ戯作的でも浮世絵的でもある様々な語りが複合していたし、逆に幕末のかわら版にはある種のニュースの語りを見出すこともできたのだ。ところがその一方で、新聞錦絵はあからさまに近代の「新聞=ニュース」の形式を利用していたし、かわら版の方は、そうした新聞的な世界とは別の時空で、ニュースの語りと魔除けや祭文、番付や見立ての語りを結合させてもいたのである。しかも当時、この「新聞」という概念自体が今日のマス媒体としての新聞には還元されない、人々が「新しく聞き知ったこと」を様々な意味の広がりのなかで含意していた。

こうした問題の複雑さを象徴するかのように、この展覧会に向けての我々の作業のなかで、プロジェクトの中心メンバーである佐藤健二と土屋礼子の間にたたかわされた「新聞錦絵」と「錦絵新聞」の呼称をめぐる論争がある。展覧会の準備の過程で重要な意味を持ったこの論争の経緯については後続する佐藤論文を参照されたいが、ここでの観点からするならば、とりわけ両者の次の論点に留意しておきたい。すなわち、一方の土屋は「新聞」という新しい知のシステムがどういう存在なのかまだよくわからない人々が、錦絵の形式によって新しい出来事が伝えられる媒体を不確かながらつかんでいったことを重視し、錦絵のなかのニュース媒体性を発展させたメディアという意味で「錦絵新聞」という呼称を主張した。他方、佐藤はこうした人々の知覚構造の変化の重要性を十分に認めつつ、それだけでは必ずしも「新聞錦絵」という呼称を排除する理由にはならないと指摘する。その上で、「新聞」も「錦絵」も「かわら版」も同じくメディアの存在形式のレベルで設定されるべき概念であり、「新聞錦絵」は表現的には新聞の形式を用いた錦絵メディアなのだと主張した。

当面の選択として、我々は「新聞錦絵」という呼称を展覧会のタイトルに用いることにしたが、これは決して土屋の主張している「新聞」という新しい知のシステムの同時代のなかでの意味に注目しようとしていないからではない。むしろ、そうした「新聞=ニュース」概念の意味の広がりを問うていくことの決定的な重要性を確認しつつ、そのような問いが成立するマテリアルな場として、「かわら版」なり「錦絵」なりのメディアに照準していこうというのである。したがって、プロジェクトのメンバーたちの認識として、土屋の問いと佐藤の問いは背反しているのではなく、むしろ相補的に交差している。

問題は、このような「新聞=ニュース」概念そのものへの問いが、これまで日本の新聞学やマスコミ研究、新聞界やジャーナリストのなかでどれだけ深められてきたのかという点である。ひょっとすると、「新聞=ニュース」概念そのものの歴史的、社会的な厚みが問われることなく、かわら版はしばしば新聞成立以前の「前史」、新聞錦絵は初期新聞の亜種として片づけられてきはしなかったか。あるいはニュースはそれに先立って存在する事件を伝達するという信仰がいまだに疑われず、そうした信仰に基づいて近代的な新聞観、報道観が再確認されてはこなかったか。その結果、「ニュース」の歴史はしばしば今日につながる近代的な媒体としての「新聞」の、またラジオやテレビにおける「報道」の歴史に重ねられてきたのではないだろうか。結局のところ、私たちは「ニュースの誕生」を、あるいはニュースを消費する社会の集合的な知覚と様々な出来事のなかに「新しさ」を見出していく語りのメディアとの入り組んだ関係を、どれだけ問うてきたのだろうか。

今回の展覧会を構想するにあたり、我々の念頭にあったのは、ほぼこのような問いである。当然のことながら、この問いは展示されるコレクションの主である小野秀雄の「新聞=ニュース」観にも向けられている。知られるように、小野は日本の新聞の起源を明らかにすることにこだわり続けた。しかしその「新聞」の起源とは、結局は小野が生きた時代にはすでに自明のものとなっていた新聞概念を前提にした新聞紙としての「新聞=ニュース」の起源だったのではないだろうか。そのような疑念を一方では抱きつつ、他方で我々は、小野がこのように大量のかわら版や新聞錦絵を集め続けたことの意味を考えようと努力してきた。一方の小野が語った「新聞=ニュース」の歴史と、他方の小野が集めたもう一つの「新聞=ニュース」の歴史。この二つの歴史の間には、必ずしも彼の『かわら版物語』や『新聞錦絵』といった著作だけに回収され尽くすのではない歴史意識の水脈が幾重にも折り重なっているのではないだろうか。我々は、小野が集めた資料の厚みのなかからこの水脈を探りたいと考えた。

さて、ここでもう一度冒頭の状況認識に戻ってみよう。私たちは今日、ひたすらニュースの新しさを追い求め、次から次へと新しい事件が起こるのを欲望し、またメディアとしての新聞やテレビはそうした欲望を構造的に再生産しているようにも見える。こうした社会的な欲望の構造は、かつてかわら版や新聞錦絵を「ニュース=新聞」として消費していた社会のありようとはすっかり隔たっているようにも見える。だが、本当にそうなのだろうか。この展覧会で我々は、どこか現代のメディアに登場する犯罪とかつての新聞錦絵に描かれていた犯罪を、そして阪神淡路大震災と幕末の安政大地震を二重写しにしながら問題を考えている。なぜならある意味で、ニュースを消費する社会はすでに一九世紀半ばまでに始まっていたと考えるからであり、またある意味で、我々は今日、必ずしもニュースの新しさだけを消費しているのではないと考えるからである。近代的ニュース・メディアの発展史観を壊してしまったところで、いったいいかなる「ニュース=新聞」の歴史の地層が見えてくるのか。この問いを、来場してくださったすべての方々に向けて投げかけたい。


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