秋期特別展 平成8年11月12日(火)〜12月20日(金)
植物園一覧圖 (明治9年加藤竹斎により描かれた) |
ニガウリの画 (加藤竹斎画 明治初期) |
マンサクのスケッチ (加藤竹斎画) |
シダ類チャセンシダ属の一種 (加藤竹斎画) |
賀来飛霞 | ガマズミ (岩崎潅園著 本草図譜から) |
ヤマブキソウ (Hylomecon japonicum) |
ソメイヨシノ(Prunus yedoensis Matsum.)の タイプ標本 |
都心の緑地の減少は著しい。まるでビルの大海に浮かぶ小島のごとくであるが、そのひとつが小石川植物園である。四季折々の植物を観察できるだけでなく都民の憩いの場でもある。
この小石川植物園が300年余の歴史をもつことはあまり知られていない。樹令250年を超えるイチョウの大木、サネブトナツメの古木があるのはその長い歴史があってのことである。
小石川植物園は東京大学理学部に附属するが、貞享元(1684)年に小石川御殿(白山御殿ともいう)と呼ばれた館林藩の下屋敷の一隅に設けられた、徳川幕府の薬園がその始まりである。小石川御殿といえば、五代将軍綱吉が館林藩主松平徳松として、幼少の時を過ごしたことでも名高い。この御殿地にできた薬草園は、小石川(御)薬園とか白山官園と呼ばれ、薬草を栽培するだけでなく、園内と役宅に薬種製法所があり、製薬もした。また、二代将軍秀忠の園芸愛好の遺風により、薬園内には梅、桃などの花木や花卉も栽培されていた。
八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖と呼ばれるが、新しい産業の振興に努め、サツマイモやサトウキビなどの作物の導入をはかった。医薬にも強い関心があり、当時対馬藩が一手に朝鮮から輸入していた朝鮮人参の国産化を推進した。元禄以降、朝鮮人参の需要が高まり、販売は統制され、偽物も出回っていた。
吉宗の時代に小石川薬園でも人参の栽培が試みられたが、成功しなかった。人参に代わって多種多様の薬草がここで栽培されることになった。また、享保20(1735)年には大岡忠相の進言により小石川薬園で青木昆陽によってサツマイモの試作が行われ、関東でもサツマイモの栽培が可能となり、食料の安定化に役立った。
寛政3(1791)年には114種の薬用植物がここで栽培されていた。栽培植物の多くが実際に薬として利用され、大奥の女官が使用した糸瓜水も毎年五斗から多い年で一石五斗が納められていた。製薬の一部は、享保7(1722)年に町医者、小川笙船の建議で小石川薬園内に設けられた民間人への施薬院である養生所(日本で最初の病院といえる)での治療に用いられた。
近代植物学が誕生したのはヨーロッパであったが、その萌芽は本草学にあった。本草とは、「薬のもと(本)になる草」という意味で、本草学は、薬の調合から実際に野外で薬草を探す採薬まで、医学、薬学、植物学にかかわるさまざまな研究が含まれていた。本草学は洋の東西で隆盛を極めたが、ヨーロッパでは16世紀には薬になるならないに関係なく、植物そのものを研究の対象とする植物学が誕生した。ヨーロッパでの、歴史の古い植物園の多くは薬草園をその前身としているのもこうした歴史によっている。
日本ではどうであろう。江戸時代初期の本草学は明の李時珍の「本草綱目」を中心とした文献学・解釈学で、日本の植物を中国の本草書に記載された植物に当てようとした。植物分類学の知識が欠けていたため、日中の植物相には大きな相違があるとは考えなかった。
宝永5(1708)年に完成した貝原益軒の「大和本草」をもって、日本における本草学者が自ら植物を観察研究する時代が始まると一般に考えられている。益軒以後、多くの本草学者が山中を巡り歩き、薬効のある植物を発見することや今日の民俗植物学的資料の収集に努めた。深山幽谷に限らず、野外に赴いた本草学者が直面したのは、書物の知識だけでは到底理解できぬ日本の動植物の多様さであった。水谷豊文のような一部の本草学者は自からの観察結果を書きとめ、魚拓ならぬ葉拓図や写生図を作り研究を重ねたのである。
小石川薬園は幕末に至るまで豊文のような植物研究を推進した本草学者とは直接関係をもつことがなかった。あくまでも製薬のための栽培園、製薬場として機能したのである。
小石川薬園は、幕末の混乱期にも存続した。幕府瓦解後、明治元年6月11日医学所頭取前田信輔、大西道節がこれを請け取り、東京府の管轄に移し、大病院附属御薬園となった。その結果、混乱による壊滅的な破壊からまぬがれることができ、植栽されていた樹木などが残ったのである。明治2年にはこれが大学東校の管轄となり、医学校薬園、明治4年7月には大学東校薬園と呼ばれた。明治6年3月には太政官博覧会事務局へ併合された。このような目まぐるしい変遷を経て、明治8年2月に文部省所管教育博物館附属となって、ここに小石川植物園と呼ばれることになった。明治10年に東京大学が創立されるとともに、植物園は大学附置となったのである。
水谷豊文の弟子であった伊藤圭介は、本年(1996年)が生誕200年になるドイツ人シーボルトに植物学を学んだ。東京大学の設立と同時に東京大学の員外教授(後に教授)となり、園内に栽培される植物の分類を研究した。一方、コーネル大学に留学した矢田部良吉は、初代植物学教授となり、植物園の管理と運営に携わった。
精子発見のイチョウ 明治29(1896)年に種子植物ではじめて、この木に生じた胚珠から精子が発見された。 |
甘藷試作跡 青木昆陽が享保20(1735)年に、江戸ではじめてサツマイモの栽培を試みたのを記念して建てられた。 |
サクラ林 ソメイヨシノをはじめとして、様々なサクラの園芸品種および野生種が植栽されている。 |
薬園保存園 植物園が元徳川幕府の御薬園であったことに因み、江戸時代から栽培されてきた代表的な薬用植物を集めて公開展示している。 |
柴田桂太先生記念碑 日本の近代生理化学の生みの親、本学教授であった柴田桂太先生(植物生理学)を記念して、園内の柴田記念館(旧植物生理研究室)に隣接して昭和37(1962)年に設置された。 |
シマサルスベリ |
本学が東京帝国大学と呼ばれるようになった明治30(1897)年に植物学教室は植物園内に移転した。この時代の小石川植物園は、日本での植物学の研究の中心となったばかりか、生きた植物の収集と並んで「おし葉標本」が収集されることになった。おし葉標本は植物を安全にかつ場所もとらずに保存する最良の方法として、今でもその右にでるものはない。おし葉標本からDNAさえ抽出でき、花粉のような微細な構造の解析にもおし葉標本が活用されるのである。
おし葉標本を収蔵することは、矢田部良吉がコーネル大学で実際に見聞したに違いない。また、圭介の師シーボルトも日本の植物のおし葉標本収集に精力を傾けていたし、圭介もこれに協力し、自家用のおし葉帳も作っていた。矢田部らは必死になって大学の標本室におし葉標本を収集した。矢田部以後も標本の充実に努めるとともに、標本を研究に積極的に用いた。5000点を超すタイプ標本をはじめ論文に引用されたオーセンティックな標本が多いのはそのためである。点数でも現在約170万点に達し、植物園と当館に分蔵されている。数量だけでも、大学としては世界の十指に入る世界的コレクションである。
伊藤圭介も矢田部良吉もおし葉標本と並び、植物画の作成に努めた。圭介の弟子の一人で豊後学派の本草学者として名高い賀来飛霞が小石川植物園に勤務していたことはあまり知られていない。彼は日本画にもすぐれた才能をもっていたが圭介・飛霞のもとで画作に励んだのは日本画の系統を継ぐ加藤竹斎である。矢田部の植物画は洋画の作風をもつ渡部鍬太郎が描いている。
はやくも大学への附置が定まった明治10年の10月には「小石川植物園草木目録前編」が理学部印行として出版された。これは東京大学の最初の出版物であろう。小石川薬園が植物園となってただちに世界の植物園に並ぶ活動を開始することができたのは、江戸の本草学に端を発した植物研究の水準が相当のレベルに達していたことが大きい。大学の植物学教育に先だって、圭介ら本草学者が日本の植物についていかに深い知識を有していたかを証明するものである。明治14年に圭介と賀来飛霞が著わした「小石川植物園草木図説巻一」は当時の植物学の世界水準に達しており、欧米の注目を集めた。多くを描いたのは加藤竹斎である。
ところで小石川植物園の名物といえば、必ずそのひとつに加えられるのは、旧岡田屋敷にあった大イチヨウだろう。樹齢は250年を超えるが、幹はまっすぐに伸び、いまなお盛んに葉を繁らせたその樹姿は素晴らしい。その小石川植物園の大イチョウで、いまからちょうど100年前に精子が発見された。この発見は当時の学説を根本からくつがえすものであり、創設まもない日本の植物学が世界に注目される契機となった。
ところで、今日の植物園は二つの役割をもっているといえる。一つはいうまでもなく植物学の専門研究と教育それに系統保存などの事業であり、他は植物と植物学についての知識の普及である。小石川植物園が設立の当初からこの双方の役割を果してきたことはあまり知られていない。小石川植物園は大学創設とともに一般に公開されてきたが、これは当時の日本の大学としては異例のことであった(明治21年からは観覧料を徴収した)。
御薬園から数えれば300有余年の歴史をもつ小石川植物園を中心に、日本における植物学の黎明期の様相を展望してみたのが、秋季特別展「日本植物研究の歴史をさかのぼる——小石川植物園三百年の歩み」である。
(本館専任教授/植物分類学)
Ouroboros 第2号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成8年11月30日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健