山梨県「黒川千軒」戦国時代金山遺跡の調査
今村 啓爾
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黒川金山G地点建物跡
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黒川金山坑道入口
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沢の中の石臼
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戦国武田氏の軍資金を支えたと伝説に言われる黒川金山の遺跡は、山梨県塩山市東部、多摩川源流域にそびえる鶏冠山(1710m)東面、黒川谷の森林中に眠っている。今は訪れる人も稀な深山であるが、足を踏み入れると、居住地として谷の両岸に築かれた広大なテラス群、半ば埋もれた坑口、散乱する鉱石粉砕用の石臼が過去の繁栄を語りかけてくる。
この廃墟の規模と保存の良さ、そして何よりも鉱山史における重要性に魅せられた私が文献史学の桜井英治氏(現北海道大学助教授)や東大・学習院大・武蔵野美大の学生たちと共同調査を開始したのは1986年のことであった。発掘調査は、遺跡現地にテント村を設営し、すべての必要機材を人力で担ぎ上げる厳しい条件下で行われた。以来4年にわたる調査と続く6年の整理分析を経て、本年末予定の報告書刊行にこぎ着けることができた。またその歴史的重要性が文化庁によって認められ、この秋に国の史跡に指定されたことは、この遺跡の調査、記録に携わった者としてとくに嬉しいことである。
鉱山町の実態
「黒川千軒」と言い伝えられる鉱山町の規模が、黒川の谷に沿って上下 600m、最大幅300mに及ぶことは、居住用テラスとその土留めの石垣の分布によって知られる。300段を超えるテラスの数からみて、最大時の人口は千人近くに及んだであろう。
遺跡全体の測量調査に続くA〜Iの9地点を選定しての発掘調査は、この大遺跡のわずか300 分の1 の面積にしかならなかったが、坑道、鉱石の粉砕作業場、金の熔融作業場、管理者の居住地・墓などが確認され、この鉱山の構造が能率的に解明された。各地点からは当時の生活を物語る様々な遺物類−土器・陶磁器・銅銭・きせる・かんざし・刀子・はさみ・火打ち金・つりばり・碁石・鉄砲玉・粉挽き臼・茶臼・石仏台座・五輪塔などが出土した。
近年飛躍的に進んだ中・近世陶磁器研究の成果をたよりに鉱山町の年代を推定すると、16世紀前半、1530年には出現しており、17世紀中頃に姿を消したことがわかる。全盛期は伝説の言うように武田信玄の時代であった。
古文書研究と考古学の協力
近年、遺跡の発掘と古文書による歴史学の共同研究が盛んになっているが、黒川金山の調査ではこの協力が計画的に行われ、とりわけ大きな成功を収めた。遺跡現地の発掘結果は、断片的な古文書をつなぎあわせて推定されたこの鉱山の盛衰とよく一致する。ただ唯一のそして重要な例外は、この金山の最盛期が古文書の残されていない、記録以前の時期にあったことで、考古学調査によってはじめて明らかにされた事実である。また、考古学が鉱山の規模・物質文化・技術面を解明したのに対し、古文書研究は金山の社会や組織を解明し、それぞれが得意とする分野で力を発揮して、この鉱山の歴史をよみがえらせた。
独自に開拓された鉱山技術
考古学にはその対象とする時代や遺跡の性質によって研究の鍵となる種類の遺物があるが、鉱山の考古学の場合それは鉱石の粉砕用石臼である。地味な遺物であるが、どこの鉱山でも大量に用いられ、固い鉱石の粉砕作業で消耗して大量に捨てられ、残っている。この点に注目した私は、黒川千軒遺跡の調査と平行して全国20以上の鉱山遺跡で鉱山臼を調査し、次のような変遷を明らかにした。まず鉱石を自然の平石の上に置き、手に持った磨り石ですり潰すという原始的な方法から始まり、次に回転式の臼がこれに代わる。そして17世紀の初頭には回転式の臼に軸受が採用された。この主要な変化以外にもいろいろと細かい工夫がなされている。黒川の石臼は第1の段階のものが主で、ほかに第2の段階のものが少しある。微粉砕した鉱石は流水によって選鉱され、得られた金粒は、日常生活で用いられたのと同じ何の変哲もない土器の皿で熔融し金餅状にされた。黒川金山におけるこのような粗末な道具立ては、当時まだ鉱山用具として特殊なものが発達しておらず、試行錯誤で金の採掘・製錬が開始されたことを物語る。この地で独自に金の坑道掘りが開始されたのである。この鉱山の鉱石が、石英脈のなかに純良な金粒を含むものであったことが、このような原始的方法による金の製錬を可能にしたのである。
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黒川千軒出土金属製品など
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最終的な金の熔融作業が小グル−プごとに行われていたという考古学調査の結果は、金山衆という鉱山稼業者が豪農と未分化な存在であったという古文書からの情報とともに、近世の専門化した鉱山経営とは異なる古い側面を見せている。
鉱山技術の展開
金山衆はそのトンネル掘削技術をかわれ、戦争における特殊工作部隊としても活躍し、やがて武士としての身分を獲得していった。しかしあくまで鉱山経営者としての道を進もうとした金山衆もいた。多様な性格を合わせもった金山衆も、中世から近世への社会変化の中で、官吏・農民・鉱山経営者・職人としての身分の明確化を果たさなければならなかった。このような金山衆のありかたは文書研究班が、権利・身分保障の印判状というごく短く情報量も乏しい文書を丹念に追跡し、その所在と内容をつきあわせて検討した結果、はじめて明らかにされたことである。
黒川金山は勝頼が武田家を継いだ16世紀末には急速に衰退し、有力金山衆はこの地を去った。17世紀、江戸時代に入るともはや金は産出しなかったようであるが、金山再興を願って居残った金掘りたちは、土木工事の請負などで生計を立てていた。有名な猿橋の掛け替え工事などに特殊技能を発揮していたことが知られる。歴史的に重要なのは、黒川など甲州で開発された技術が江戸時代に各地の鉱山に応用され、17世紀の日本を世界有数の金銀産出国に変え、江戸幕府の財政確立に貢献したことである。また、黒川出身の永田茂右衛門の用水工事における活躍は、この鉱山で生まれた技術が水田開発にも応用されたことを物語っている。遺跡現地でも水抜きの坑道とみられるものの存在が確認されているが、坑道掘削技術と用水工事の技術は双子の関係にあったといえる。
参考文献
- 黒川金山遺跡研究会『甲斐黒川金山遺跡調査報告書』塩山市1996年12月刊行予定
- 今村啓爾『戦国金山伝説を掘る』平凡社1997年1 月刊行予定
(大学院人文社会系研究科教授/本館考古部門主任)
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Ouroboros 第2号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成8年11月30日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健