東京大学医科学研究所 —伝染病から医科学へ—
1879年(明治12年)の記録によると、清国から日本に持ち込まれたコレラの大流行により16万人余の患者が発生し死者は10万人余に達したという。当時、伝染病は種痘を別にすれば科学的な予防、治療法はまったくなかった。
伝染病研究所第一研究部の実験器具 内務省からドイツのRobert Kochのもとに派遣されていた北里柴三郎は1892年(明治25年)5月、破傷風菌の純培養と抗毒素の発見という輝かしい業績をあげ帰国した。帰国するや、北里は伝染病研究所設立の必要を唱え、福沢諭吉、長与専斎(1882年(明治15年)大日本私立衛生会を組織)らの援助により、1892年(明治25年)11月30日、日本最初の伝染病研究所が大日本私立衛生会附属伝染病研究所が発足した。文部省からも帝国大学内に伝染病研究所を創設する案が議会に出されていたが、北里は1893年(明治26年)1月11日付の手紙で衆議院予算委員会の長谷川泰に
『… 文部省所轄ノ伝染病研究所二入リ業務ヲ執ルコトハ到底出来不申、否小生ノ好マザル所二候。… 文部省二関係ナキ独立ノ研究所ニアリテ他人二喙ヲ容レサセザル即チ小生ノ思フ如ク研究ノ出来得ル場所ニテ独立二業務ヲ執リ度所存二御座候 …』
と書き送り、文部省所轄になることを拒否している。それ以来106年間、いくつかの大きな変遷を経て、この伝染病研究所「伝研」は、現在の東京大学附置医科学研究所に至っている(表1)。記録では、1894年(明治27年)度末の職員は8名(所長1、助手3、薬剤師2、書記2)と傭員22名(雇1、看護婦8、小使13)の総勢30名となっている。そして現在、医科学研究所は大学院生を含めて総勢800名程の規模になっている。
初代所長の北里は、1894年(明治27年)、ぺスト原因探求のためぺストの発生していた香港に遠征し、Alexander Yersinとは独立に、それにやや先んじてぺスト菌を発見、そして1894〜1895年(明治27〜28年)にかけてはジフテリア入院患者に抗血清を注射し著効を上げ、これが日本における血清療法のはじまりとなった。また、1897年(明治30年)には志賀潔が赤痢菌を発見している。この貢献から赤痢菌属は志賀の名前を冠してShigellaとよばれている。
政府はこうした伝染病研究所の顕著な功績を認めて、1899年(明治32年)3月31日付勅令第93号により、
『第二条伝染病研究所は内務大臣の管理ニ属シ伝染病其ノ他病原ノ検索、予防、治療方法ノ研究、予防消毒治療材料ノ検査及伝染病研究方法ノ講習二関スル事務ヲ掌ル』
としている。内務省所管国立伝染病研究所は翌日4月1日より所長北里で事業を拡大することとなった。また同勅令第三条で、所長1名、専任部長3名、専任助手8名、書記専任4名の定員のほか20名以内の無給助手を置くことができると定められた。野口英世が伝染病研究所に所属していたのはこの当時のことである。 1905年(明治38年)4月1日には内務省所管痘苗製造所および血清薬院が研究所に合併され、研究所の事業に痘苗その他細菌学的予防治療品の製造が加えられ、その後第二次世界大戦後に至るまでの研究所の事業内容がほぼ決まった。
日清戦争、日露戦争と日本が経済的に困難な状況にある中で、伝染病研究所も行政整理の対象とされるようになった。第二次西園寺内閣のときは、伝染病研究所の移管縮小あるいは廃止が議論されている。1911年(明治44年)、北里は、過去3年間において、歳入は16ないし22万円でありこのうち細菌学的製剤による収入が15ないし21万円、俸給を含めた支出が20ないし24万円であり、不足分は2ないし4万円弱であることを示し「伝染病研究所の内務省所管ナラサルヘカラサル事」を論じている。結局、何事も起こらなかったが、この製造収入によって研究所経費のほとんどをまかなうという運営は第二次世界対戦後まで続いている。
(1) 大日本私立衛生会附属伝染病研究所 :1892年(明治25年)11月30日〜 (2) 内務省所管国立伝染病研究所 :1899年(明治32年)4月1日〜 (3) 文部省所管国立伝染病研究所 :1914年(大正3年)10月14日〜 (4) 東京(帝国)大学附置伝染病研究所 :1916年(大正5年)4月1日〜 (5) 東京大学附置医科学研究所 :1967年(昭和42年)6月1日〜 表1 1914年(大正3年)10月14日、政府は勅令第221号を公布した。
『伝染病研究所官制中左ノ通改正ス第一条中「内務大臣」ヲ「文部大臣」ニ改ム』
この移管は北里の了承なしに抜き打ち的に行われた。北里は、大日本私立衛生会会頭土方久元へあてた陳情書のなかで、文部省移管は医科大学(現東京大学医学部)移管への経過措置であることを一木文部大臣から口頭で知らされたことを述べ、伝染病研究所は内務省による「衛生行政の審事機関」でなければならず、「学芸の府に隷属」されては目的を遂行できない旨説いている。結局北里一門は総辞職するに至り、北里は芝区白金三光町に北里研究所を開いた。北里研究所同窓会ができるに至って、それまで2,000有余の会員を擁していた伝染病研究所同窓会員の所属がこのあと不明瞭になったという。
野口英世、志賀潔の履歴書が含まれている伝染病研究所履歴書綴 その後、第二代所長青山胤通は陸軍省医務局長森林太郎(鴎外)の協力を得て事業を引き継ぐこととなった。1916年(大正5年)4月1日より文部省移管時の構想どおり伝染病研究所は東京帝国大学に附置され林春雄が第三代所長となった。こうした変遷の中、研究所業務の大筋は変わっていない。
1919年(大正8年)に第四代所長に就任した長与又郎は、1922年(大正11年)の夏、移管以来7年間そのままになっていた所内組織を改革した。その主眼は,伝染病の予防撲滅のために、細菌学血清学的検索のみによるのではなく、病理学、生理学、化学、さらには生物学的研究が相補うようにすることであった。所長説明を文章としたM生は
『再思スレバ今度ノ改正ハ即チ本所ガ後来一大医学研究所ト為ルベキ前提トモ看做シテ蓋シ過チナキノ推理ナルベシ』
と書いている。長与又郎は1878年(明治11年)に前述の長与専斎の三男として東京に生まれ、1911年(34歳)教授に任ぜられ東大医学部の病理解剖学第二講座を担当した。伝染病研究所には1914年に技師兼任として入所している。その年、病理学会総会で川村麟也によって供覧された標本に刺激されてツツガムシ病研究をスタートさせたと伝えられている。1935年には東大総長に就任している。
伝染病研究所における研究活動のひとつの特徴は特定の研究課題については研究委員会を設け、いくつかあるいは全部の研究室が共同して研究したことである。北里一門が去ったあとの研究所があげた成果には、1915年(大正4年)の鼠咬症スピロヘータの発見、ツツガムシ病、日本脳炎の蚊媒介、宮川小体の発見などがある。
昭和初期に作られた馬の全採血を行っているところの模型 その後伝染病研究所は、第二次世界大戦後に至るまで、日本における伝染病研究の中心として、またワクチン、抗血清など細菌学的製剤の最大の製造所として活動した。このことは研究所の予算に特異な性格を与えた。伝染病研究所は東京帝国大学に附置されたときに東京帝国大学の特別会計に組み込まれていたので、官立とはいうものの収入支弁であり、政府が決めるのは空予算であって、実際には研究所自らの手で収入を得なければならなかった。収入の筆頭はジフテリア血清によるものであった。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって主要建物が著しい被害を受けた。震災後には第一厩舎(1928年(昭和3年))から第五厩舎(1938年(昭和13年))、採血室および畜丁舎、馬糧庫が次々と建てられ伝染病研究所の象徴的な建物となった。現在の本館は1934年(昭和9年)から1937年(昭和11年)にかけて作られている。1937年(昭和12年)7月7日、日中戦争が勃発すると、抗血清製造のために血清用馬を、1937年(昭和12年)には800頭、1938年(昭和13年)には1,024頭購入したという記録が残っている。その後抗血清製造に対する軍の要求はさらに増し、研究所の厩舎では収容しきれないほどになり、埼玉県の農家に飼育が依託されたという。
伝染病研究所は設立当初から、毎年定期的に伝染病研究についての講習会を開いて、医師、獣医師、衛生行政関係者などの教育を行い、公衆衛生院(1938年(昭和13年)創立)が充実する以前においては道府県の衛生技術官でこの講習を受けぬ者はほとんどないほどであった。文部省所管になった1914年(大正3年)以後においても衛生行政に関する事項については、内務、厚生大臣の指揮監督のもとに細菌学的製剤の検定および認可を行い、衛生行政に関する諮間に応じた。このように伝染病にかかわるあらゆる面に関与したのは、初代所長北里柴三郎が伝染病の原因や治療方法の研究だけでなく、その成果を実地医学に応用すること、さらに行政への関与も重要と考えていたためである。
第二次世界大戦後、占領軍および厚生省の方針によって細菌学的製剤の製造は民間が行うこと、その検定は厚生省直轄の研究所が行うことになり、1947年(昭和22年)、予防衛生研究所が設立された。このとき伝染病研究所は人員などを折半してその創立に協力した。以後製造は試験的なものに限定して漸減し、研究を主体とする研究所となった。
伝染病研究所創立当時猛威を振るっていた伝染病の医学上の重要性は、抗生物質の開発と衛生状態の改善によって、相対的に低下してきた。一方で、癌などの重要な疾患を解決することや、近代科学の進歩により研究方法のより高度な機械化精密化が必要となってきた。また、研究所ではすでに実験医学の研究には欠くことのできない近交系マウスを主とする各種実験動物の繁殖、育成にも成功しており、近代的実験を行うための共通基盤として、生物学、化学、物理学などに関係する基礎研究部門が整備されており、医学の基礎的研究を行う基盤ができていた。こうしたことを背景として、伝染病研究所は1967年(昭和42年)6月1日をもって廃止され、感染症、癌その他の特定疾患を研究する医科学研究所に変わった。18研究部で発足した「医科研」は1988年(昭和63年)25研究部の設置をもって完成された。その他、いくつかの附属研究施設の新設および附属病院の拡充がなされてきた。
ヒトゲノム解析センタースーパーコンピューターシステム 医科学研究所付属病院での先端医療の様子 1991年(平成3年)には、日本で唯一のヒトゲノム解析センターが設置され、現在5分野になっている。ヒトゲノム解析研究は、疾病の診断・予防・治療法の開発などを通して、社会に大きく貢献することを目的とし、また生物学の発展には欠かすことのできない基礎研究となっている。すでにいくつかの重要な疾病遺伝子が発見・特定されている。1998年(平成10年)1月にはこうしたセンターとしては最大級のスーパーコンピュータシステムが稼働しはじめゲノム情報サービスの世界のセンターとしても機能しはじめた。さらに、1998年(平成10年)には、ヒト疾患モデル研究センターが設置された。このセンターは、トランスジェニックマウス等を作りヒトの病気の病態解析や治療法の開発を行うための基礎研究を展開するものである。附属病院は、伝染病研究所が1894年(明治27年)2月に移転したときに開設された。現在、再生不良性貧血や白血病・癌・悪性リンパ種、エイズ等のウィルス性疾患、自己免疫疾患、その他免疫異常症等の難病治療のために、研究所内の基礎研究部門と密接な連携により、先端医療の研究とプロジェクトチームによる全人的医療を行っている。また1998年(平成10年)から、遺伝子治療が開始されることになっている。こうした医科研の全活動は、1997年(平成9年)10月から12月の間、東京大学創立120周年記念東京大学展「知の開放」プロジェクトの中で、医科研の研究部・施設の研究が撮影・編集されてCS放送およびインターネットを使って放送された。