調査の内容

本資料報告書は、平成17年、名久井文明氏が保管されてきた青森県金木町相野山遺跡の石器との対面にその発端は遡る。相野山遺跡の石器群は大形尖頭器が特徴的で、日本列島の後期旧石器時代終末期~縄文時代初頭、いわゆる神子柴石器群を考える上で大変重要な資料であるため、東京大学考古学研究室の安斎正人先生の提案により再実測・公表する運びとなった。

これを受けて、東北地方を中心とした当該時期の関連資料の文献調査を行ったところ、秋田県の綴子遺跡が最も多く引用されていた。そこで綴子遺跡の石器の所在を特定するために東京大学総合研究博物館人類先史部門で資料調査を行った。そして平成18年、相野山遺跡の報告において、関連資料である綴子遺跡の石器について公表した〔38〕。

その後、総合研究博物館に関連の石器資料が存在しないか調査し、八幡一郎が「大形打製石器」として注目した一連の資料、綴子(秋田県)、中山(秋田県)、鵜ノ木(岩手県)、菅谷(新潟県)の石器資料を特定することができた。そこで、同博物館において、同じ後期旧石器時代終末期~縄文時代初頭に属する可能性のある関連石器資料がさらに所在しないか、改めて網羅的に調査する運びとなった。

今回の現状資料の特定作業においては、まず一方で、本館人類先史部門の現行の台帳にあたり、文献上に記載されている地名で登録されている資料を抽出していった。さらに、もう一方では本館人類先史部門の標本収蔵棚の中から日本列島の石器資料が保管されている棚を全て実見し、「大形打製石器」と技術形態学的に類似する資料を探索していった。そして、この両者を最終的にクロスチェックして、現状で確認できうる限りの博物館所蔵の石器資料を網羅的に調査した。

文献上に記載された遺跡名は『日本文化史大系』〔22〕で写真掲載されている綴子と、その類例として挙げられている下記4遺跡〔23〕を台帳から抽出した。

①陸中国江刺郡羽田村北鵜ノ木(鈴木貞吉)

②陸奥国北津軽郡相内村オセドウ貝塚(長谷部博士報)

③羽前国西田川郡温海町(小田島氏報)

④羽後国南秋田郡馬川村高崎字中山(人類学教室蔵)

このうち、綴子と①と④に関しては、本館での所蔵が特定できた。②のオセドウ貝塚については、台帳に記載されている石器を実見したが、「大形打製石器」の類例と考えられる資料は含まれていない模様であった。③については、台帳上では特定できなかった。「西田川郡温海村」の遺跡名は遺跡地名表第一版〔4〕に既に見られるものの、それが指している資料は石田寛孝の「輪石」〔1〕である。この「輪石」は八幡が指す資料とは考えにくく、どのような石器を指しているのか不明であった。また、「小田島氏報」とは、『岩手考古図集』〔13〕を指していると考えられ、鵜ノ木の「類品」として綴子とともに「西田川郡温海町」を記載していることから、八幡は小田島の文章の引用をしているに過ぎず、本学には所蔵されていない可能性が高いものと判断した。

以上のように、八幡が執筆した文献上に記載されていた遺跡については、台帳の調査から綴子(現秋田県)、中山(現秋田県)、鵜ノ木(現岩手県)の石器を抽出することができた。

一方の標本棚の実見からは、八幡が文献中では紹介していない資料も確認できた。それは、菅谷(現新潟県)の資料で、石器の技術形態学的に後期旧石器時代終末期の資料と考えることができた。菅谷について調べたところ、八幡自身の文章ではないものの、昭和10(1935)年暮れに八幡が菅谷に足を運んだ形跡もあったため〔20〕、先の文献の執筆年代にも近い。そのため、抽出した綴子・中山・鵜ノ木・菅谷の石器は、八幡の関心の対象となった一連の資料として捉えることができる。

ところで、綴子・中山・鵜ノ木・菅谷を出所とする先史考古資料は、八幡一郎の「大型打製石器」関連資料以外にもあり、しかも石器だけでなく、土器や土偶も含まれていた。そのため、八幡関連資料の一括性を検討するためにも、これら4つの地名で登録されている資料について全点抽出し、属性のデータ化を行った。注記等の情報が極めて少ない資料についても、採集地名が部分的に一致する資料は同時に抽出した。そして、博物館で所蔵する各種遺物カードと実物の確認作業を行い、データファイルを作成した。

2007年3月
中村真理(東京大学大学院新領域創成科学研究科)

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