調査の成果

今回の調査では、まず、綴子、中山、鵜ノ木、菅谷に関する文献調査により、それぞれの文献における資料の記載状況と、東京大学に所蔵された経緯や管理・運営の歴史を整理した(表1)。そして最終的に、綴子38点(石器37点、土器1点)、中山53点(石器15点、土器32点、土偶6点)、鵜ノ木1点(石器1点)、菅谷25点(石器25点)の総計117点を特定することができた(表2)。しかし、後述するように、八幡の「大形打製石器」研究の対象となったと考えられる石器との一括性を認めがたい資料がほとんどであった。

以下では「大型打製石器」(表3)を中心に、現状確認調査の成果を遺跡別に報告する。また、今回特定した117点の資料全点について一覧リストを、石器資料については全点の写真を掲載する。

なお、以下の引用部分では、旧漢字の部分を常用漢字に改めて表記している箇所がある。また、「同」「仝」と記されている箇所はそれが示す語彙と置換して表記している。


⇒表1 東京大学総合研究博物館人類先史部門所蔵、綴子・中山・鵜ノ木・菅谷関連年表


⇒表2 本書掲載資料点数内訳 (単位:点)


⇒表3 八幡一郎「大形打製石器」関連資料

(1)綴子 (人類学教室原番号:12665-1~7、A番号:A1635)

綴子の「大型尖頭器」は、八幡一郎によって写真で紹介されたため、研究史上多く引用されている資料である〔22〕。本文中に記載はないが、写真とキャプションがあり「羽後国綴子発見の大形石器 フリントに似た岩石を以て作つた大形石器で左端例が長さ十七センチもある。以て他のものヽ大いさが知られよう。七個塊まつて発見されたといふ。」(〔22〕:138頁)と記載されている。神子柴遺跡の発掘を行なった藤沢宗平と林茂樹による記載も詳しいので、引用すると、綴子は「東京大学人類学教室所蔵品。長谷部言人博士が大正8年7月9日、秋田県秋田郡綴子村大畑、小笠原重太氏より貰いうけたものである。小笠原氏が自宅裏に溜池築造中1ヵ所から集中して出土したという。その間の事情については、山内清男先生から御教示をえた。」(〔25〕:154頁注釈)とある。この記載から、長谷部が譲り受けた資料であることが分かる。長谷部言人によれば、「そこで此夏(大正8年:筆者註)は先づ羽後地方の探訪を手はじめに津雲、阿高轟、国府などの名たゝる遺跡、換言すれば人の畑に鍬を入れる事にした。(略)七月三日秋田市に入る、此處を根據として東道の主人公は武藤一郎氏、歴訪した箇處は河邊郡四ツ小屋村小阿地、椿川村鹿野戸、同袖ヶ澤、南秋田郡五城目町中山、北秋田郡綴子村、同村糠澤合地及柏木岱、同大畑その他七座村麻生、(略)十一日秋田市を辭して河邊舟岡村長佐藤金次郎氏を訪ね、蔵品を拝見する。」(〔11〕:79-80頁)とあり、大正8年7月3日から11日の間に長谷部が現地で資料蒐集したことを裏付けている。

八幡の文献〔22〕はその後の研究においても引用されている〔29〕〔32〕〔37〕。八幡氏の記載によれば全部で7点の石器があること、写真にはそのうちの4点が載せられているということを読み取ることができた。そして、今回の資料調査によって、写真に掲載されていない3点を含めて、7点全ての石器が東京大学総合博物館に保管されていることが特定できた(図版1~5, 10, 11)。写真掲載されていない3点については(人類学教室原番号12665-5~7)、それぞれ尖頭器の破片で、剥離面の連続性から同一個体となる資料と判断できる。一方で、八幡が長谷部の言葉として「一箇所より完全品五個、破片三片出で、(中略)六個分かとのことである」〔23〕と紹介している。これは、下記に詳しく記述するが、中山の尖頭器を含めていると考えられ、採用しがたい。よって、博物館に所蔵されている綴子の尖頭器は7点であるが5個体と結論することができる。当該資料については既に実測図を作成し、資料紹介を行った〔38〕。

さらに、博物館には、綴子村関連と思われる資料があり、その点数は上記の「大型尖頭器」7点を含めて計38点である。その内訳は大型尖頭器7点、石槍1点、石鏃3点、石匙9点、打製小石器1点、石鋸1点、打製石斧1点、削器3点、石箆4点、石器6点、敲石1点、土器1点であり、主に石匙を中心とした縄文時代の石器であった。また、同一の袋で保管されてはいるものの、注記のない資料も含まれている。よって、採集の経緯や遺物の年代観を検討すると、八幡の取り上げた「大型尖頭器」との一括性や直接的関連性を見出すことは極めて困難な資料であった。このうち、人類学教室原番号4670(石箆)は文献〔19〕で実測図が掲載されている資料であった。

なお、遺跡の所在する北秋田市教育委員会の榎本剛治氏の協力を得て、7点の「大型尖頭器」について、遺跡の位置といくつかの情報を提供していただいた(保存資料)。特に注目される文献として、八幡の文献を引用しながら資料点数を7、8点と記載した資料があったが〔36〕、本学総合研究博物館で特定された点数とずれが生じていた。そこで、他に資料が存在する可能性を調べたところ、確かにもう1点、綴子の「大型尖頭器」が存在するようである。それは、1927年当時、弥生土器を発見した有坂鉊蔵が所蔵していた資料である〔14〕。この文献中の記載によれば、「発見地 羽後国北秋田郡綴子村、容量 一四糎、所蔵家 東京 有坂鉊蔵」とあり、石器の大きさはやや小ぶりであるが、掲載されている写真からは博物館に所蔵されている7点とは別資料ながら、技術形態学的に酷似している資料であることがうかがえた。ただし、有坂資料の所在等、今回は調査しきれなかったので、綴子の「大型尖頭器」の総数についてはなお不明である。

(2)中山 (人類学教室原番号:5074・5075、A番号:A1633・A1634)

中山は、八幡によって綴子の類例として挙げられている遺跡であり、「羽後国南秋田郡馬川村高崎字中山(人類学教室蔵、たゞしこれは楕圓形)」〔23〕と記載されている。ここで言われる楕円形の資料については、人類学教室原番号5074(図版6, 12, 13)が相当し、今日的な観点からは札滑型の細石刃石器群に関連するものと考えられる、大変興味深い資料である。しかし、問題はもう1点の「大型打製石器」と登録されている尖頭器である(図版7, 12, 13、人類学教室原番号5075)。この石器は実際に中山と記名されたシールが貼られているものであるが、それにも関わらず、八幡の文章の記載ではこの石器に関する該当箇所が見当たらないのである。綴子の項でも触れたが、同文中には「羽後国北秋田郡綴子村大畑の出土例」について「一箇所より完全品五個、破片三片出で、三片は或いは同一個體に属するかも知れぬから、六個分かとのことである」〔23〕という記載がある。しかし実際はこの記載とは異なり、綴子の完形品は4点であり、「楕圓形」の資料についても記載がありながら、ほぼ同じサイズの中山の尖頭器1点のみが文中に紹介されていないことから、中山の尖頭器のみを見落としたとは考えにくい。よって、綴子の「完全品」の一つに数えられたものは中山の尖頭器であると考えられる。

さらに、博物館には、中山関連と思われる資料があり、その点数は上記2点を含めて計53点である。その内訳は大型打製石器2点、石剣4点、石棒1点、石匙1点、石錐1点、磨製石斧1点、打製石斧1点、石製装飾品2点、石器1点、加工セル化石1点、土器32点、土偶6点であり、主に土器と土偶は縄文時代晩期の資料であり、そのうち、土器6点については遺物カードでのみ確認できるが、実物は確認できていない(保存資料)。石器も、時期的にそれに付随する器種が含まれている。よって、採集の経緯や遺物の年代観からは、八幡の取り上げた「大型打製石器」との一括性や直接的関連性を見出すことは極めて困難であった。

なお、中山の出土品については、明治27(1894)年に行われた五城目小学校展覧会に出品されたらしく、その参画者が真崎勇助と佐藤初太郎であったらしい〔28〕。真崎は様々な歴史学関係資料も所蔵しており、そのコレクションは秋田県や大館市の博物館でカタログ化されているが〔27〕〔34〕、その中にも中山の遺物が含まれている。また、佐藤初太郎は東京人類学会員、当時馬川小学校校長で、中山の発掘調査を行った人物とされているが、その調査年度については明治34年という記載〔24〕と、明治40年という記載〔28〕があり、判然としない。ただし、調査にあたっては五城目町村上嘉七・横山安整・佐々木熊次郎・中村徳松の四氏の補助を得ているようであり〔28〕、佐藤・村上・佐々木・中村については博物館所蔵資料の記録(保存資料)にもあることから、それらの記名があるものについては発掘調査の出土品である可能性が高い。また、佐藤の発掘調査で出土した遮光器土偶については国立博物館に提出した経緯があるらしいので〔24〕、その流れで東京に遺物が運ばれ、東京大学人類学教室に持ち込まれた可能性も考えられる。ただし、八幡が問題とした石器については寄贈者が渡辺由蔵であり、発掘資料との関連性を探ることは難しい。また、中山には長谷部言人も足を運んでおり、「南秋田郡五城目町中山」(〔11〕:79-80頁)とあることから、綴子と同様に、大正8年7月3日から11日の間に長谷部が資料を得た可能性もあるが、それ以上の推測はできない。

その後も、中山の土器や土偶は多く取り上げられている。例えば、1925(大正14)年には、中谷治宇二郎の注口土器の研究の中で人類学教室の蔵品として中山の注口土器2点が確認されている〔15〕。1927・1928年には杉山寿栄男らによって中山の土器と土偶の図版が掲載された〔14〕〔17〕。1991年には、磯前・赤澤によって東京大学総合研究資料館所蔵の縄文時代土偶・その他土製品のカタログが発行され、1996年には若干の改訂をした再版された〔33〕〔35〕。この中に中山の土偶も掲載されており、今回の調査でもカタログ紹介資料とそのデータを特定できた。一方、このカタログ中の関連調査年譜によれば、「年次不明のもの」として「秋田県庁からの秋田県中山出土品移管〔村上嘉七・中村徳松寄贈品を含む〕」と「佐藤初太郎による秋田県出土品寄贈」が挙げられているが、今回の調査によって、上記のような文献上の記載を確認できたため、佐藤・村上・中村らの資料については寄贈の経緯等にある程度の一括性を考えられるようになった。中山遺跡の位置は、周知の遺跡であるので既存の遺跡地図に記されている〔31〕。

(3)鵜ノ木 (人類学教室原番号:5723、A番号:A1636)

鵜ノ木の石器は八幡によって二度写真で紹介されている〔21〕〔23〕。しかし、同一の写真であるにも関わらず、そのキャプションは合致していないという問題があった。つまり、同一の写真について一方では「陸中国江刺郡羽田村北鵜ノ木発見大形石器」〔21〕、もう一方では「羽後国発見半月形打製石器」〔23〕と記載されていたのである。しかし、実物の石器とその注記を確認したことにより、これらの写真は前者の「陸中北鵜ノ木」が妥当であることが判明した。

後者の文献においては、文中で説明が加えられており、「陸中国江刺郡羽田村北鵜ノ木から、鈴木貞吉氏は大畑例と同型にして、しかもより大振りなるを四個得ている。」〔23〕とある。

東京大学総合研究博物館に所蔵されている鵜ノ木の資料は石器1点のみで(図版9, 12, 13、人類学教室原番号5723)、この石器以外は同一地名の登録はない。この石器の表面には、墨書で「陸中国江刺郡黒石村字前鵜ノ木 鈴木貞太郎氏献」と注記されている。上記文献写真で紹介された3点のうち中央に配置された資料が特定できた。

なお、両脇に映る2点の石器については、現状で総合研究博物館においては所蔵が確認できない。特に、写真右端の1点については、八幡に先立ち、1926年、小田島祿郎によって「変質岩製の長さ八寸五分を有する大形石器にして打製石包丁に属すべきもの江刺郡羽田村北鵜ノ木より同種のもの四個を出せり。此種大形石器はその出土甚だ稀にして、羽前国西田川郡温海町発見のものに同種のものを見るべく、羽後北秋田郡綴子村大畑産のもの亦類品とすべきか。(略)水澤市鈴木貞吉蔵。」と説明されており、「打製石包丁」として写真と文章で掲載されている〔13〕。このときすでに、綴子との比較が行われていることも注目される。よって、八幡の記述〔23〕は、小田島氏の文献〔13〕を引用しているものであることがわかる。また、『日本石器時代遺物発見地名表』では第五版〔16〕に北鵜ノ木の名前が初出となり、「打石包丁」として掲載されているので、これも小田島(1926)〔13〕の引用と考えられる。ただし、この第五版の中で北鵜ノ木の紹介者に小田島祿郎と記載されているが、『岩手考古図集』〔13〕の中にも記されているように、本資料の当時の所蔵者は鈴木貞吉である。鈴木貞吉は『遺跡地名表』に散見されるため、大正年間に東北地方の遺物収集に尽力しているようであり、『考古学雑誌』上でも遺跡の紹介を行っている〔12〕。その後、北鵜ノ木の石器はほとんど引用されることがなかったため、小田島(1926)〔13〕で報告された計4点の石器のうち、本資料以外の他の石器の所在や1点のみが本学人類学教室へ寄贈された経緯については不詳であるが、八幡(1937)〔21〕の記載によると1937年の時点で人類学教室の所蔵品ではなかったため、本資料が寄贈された年代についてはそれ以降の時期と考えられる。鵜ノ木資料に関連しては、盛岡大学の熊谷常正先生、関西大学山口卓也先生のご教示いただいた。

なお、本遺跡は文献中では「北鵜ノ木」と記載されている場合が多いが、石器表面には「前鵜ノ木」と墨書されており、さらに博物館で登録されている地名も「前鵜ノ木」であったため、ここでは便宜的に「鵜ノ木」として記載した。また地図上では、字名が同じ地域には鵜ノ木遺跡や北鵜ノ木遺跡などいくつかの縄文時代遺跡が存在するが、本資料の出土した位置は特定できない。

(4)菅谷 (人類学教室原番号:12449、A番号:なし)

菅谷の「石槍」は中村孝三郎によって神子柴遺跡や綴子遺跡の類例として紹介された資料で、薄手で細身の形態から「先土器時代」の終末期の「横倉型石槍」として片面のみの実測図とともに記載されている〔26〕。

ここで注目したいことは、直接的な記録は残っていないものの、菅谷の石器についても八幡が関連している可能性がないわけではないことである。昭和10(1935)年の暮れに八幡が菅谷に足を運んだ形跡があり〔20〕、八幡が他の大形石器に関する文献を執筆した年代にも近い。そのため、上記綴子・中山・鵜ノ木と同様に菅谷の資料は、八幡の関心の対象となった一連の資料として捉えることもできないだろうか。

さらに、博物館には、菅谷関連と思われる資料があり、その点数は上記1点を含めて計25点である。その内訳は石槍1点、石棒1点、石鏃10点、磨製石斧12点、敲石1点で、全て石器であった。採集の経緯や遺跡の位置に関しては、現地研究者の新発田市教育委員会の鈴木暁氏による綿密な調査がなされており、多大なるご教示を得たため、詳細はそちらに譲りたい。

2007年3月
中村真理(東京大学大学院新領域創成科学研究科)

保存資料:綴子標本に関する調査記録

     中山土器標本の人類先史部門遺物カード(複写)

     鵜ノ木標本に関する調査記録

     菅谷標本出土遺跡に関する調査記録

2008年3月
佐宗亜衣子(東京大学総合研究博物館)

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