「東京大学理学部博物場」関連資料と所蔵標本

(1)博物場の概要

『東京大学法理文学部第六年報』の「動物学教授エドワード、エス、モールス氏申報」(前項の資料I)の記述にみられるように、モースが全国を旅した主な目的として、「大学に博物館を設けて、展示する標本を収集すること」があった。資料VIII、X、XIIIからも、標本の収集にあたって「大学博物館への展示」を強く打ち出していることがうかがえる。

モースの提言した博物館構想は、1879(明治12)年の「金石列品室」から徐々に形となり、翌1880(明治13)年に設置された「東京大学理学部博物場」(以下「博物場」)で実現する。これは、東京教育博物館(明治4年創立)や、大坂教育博物館(明治11年創立)などと並んで、近代日本における博物館の先駆けであり、日本で最初の大学博物館に位置づけられる(椎名1988)。

博物場については、東京大学の年報(表2)に記録が残されているほか、いくつかの論考(磯野1988、西村ほか2006など)に詳しくまとめられている。それらを参考にすると、当時大学があった神田区一橋(現在の千代田区一ツ橋)にあって、大学の建物からは道路を隔てた西側の一橋通町に位置し(図版64)、外観写真も残されている(図版65上)。『文部省第八年報 明治十三年』(明治15年刊行)によると,設置当初の内部は① 動物室、② 植物室、③ 金石室、④ 地質及び古生物室、⑤ 土木及び器械模型室、⑥ 採鉱及び冶金学模型室、⑦ 製造化学標品室、⑧ 古器物室の八区画からなり、これらの分野の標本・模型3万点以上が展示されていた。

1881(明治14)年3月から6月には、上野で開催されていた第二回内国勧業博覧会にあわせて毎週日曜日に公開され、当時学生だった坪井正五郎が4月24日に見学に訪れている。坪井は自ら作成・出版していた『小梧雑誌』第四十八号において、「本部器械場図書館及ヒ博物場ハ内国勧業博覧会開場中毎日曜日午前九時ヨリ午後四時切手所持ノ者ヘ従覧ヲ許サルルニ付キ去ル二十四日器械博物ノ両館ヲ一覧シタリ因テ左ニ其列品ノ一二ヲ写出ス右切手ハ寄舎生ヘハ取締ニテ通学生ヘハ教場掛ニテ校外ノ者ヘハ上野教育博物館ニテ配典サル」として、博物場の観覧券のほか、金石列品室の様子、古物学展示標本等を描いている(図版67, 68)。

1882(明治15)年には再度日本を訪れたモースが、完成した博物場を見て「この博物館は私が考えていたものよりも、遙かによく出来上がっていた」という感想を記している(E. S. Morse 1917;石川訳1971)。1882年から1883年には増築工事が行われ、建物平面は当初のL字形からコの字形に、60坪分が増築された(図版64→65下)。

しかし、博物場の存続期間は5年余りと短く、1885(明治18)年に大学が本郷に移転するとともに閉鎖となった。『人類学会報告』第一号(1886年)には「東京大学博物場ハ此度法文学部教場跡ナル煉瓦石室ヘ移転サレシガ場所ノ都合ニヨリ古物及ビアイノ所用ノ器具等ハ一ツ橋外予備門構内ニ在ル大学ノ土蔵ヘ陳列ニナリタリ」と記されている。また、地理学者の山崎直方は、子供の頃に博物場を見学した思い出を記すとともに、「明治十九年頃に東京大学が一つ橋から本郷に移転するに及んで、自然に廃止となり、標本は各部の教室にそれぞれ分配されて陳列されたから、学部以外の人々には最早接する機会も無くなってしまった」(山崎1929)としており、展示標本は最終的に各教室に戻されたことが分かる。

(2)古物学の展示品目録について

博物場展示標本のうち人類・先史学関連の標本については、大学年報で「古物学」「古器物学」「古造物学」などと記され、博物場が設置された1881(明治13)年には1367点の標本があった。同年から目録作成にも着手しているが、『東京大学第一年報』には「諸標品錯雑シ随テ目録モ誤謬頗ル多シ」とあり、目録作成に苦労している様子がうかがえる。古物学標本の目録完成には約3年を要しており、『東京大学第4年報』に「古造物学区に於ては其既成目録を正誤印刷し」とある。

現在、東京大学総合図書館に所蔵されている古物学標本の目録 “Catalogue of Archaeological Specimens with some of Recent Origin” (「近代民族所用品を含む考古学標本の目録」)は、表紙に “1884.” と記されており、この時に印刷されたものと考えられる(図版66)。表紙の裏に “Jimbo Kotora” のサインがあり、「明治十八年五月十二日 佐々木先生より」と記されている。地質・鉱物学者の神保小虎が、学生時代に佐々木忠二郎から送られたものとみられる。

目録の全体構成を表3に示した。標本の種類や出土地によってNo. 1~788の番号が付され、点数は合計3365点ある(年報に記載された標本数との関係は不明)。最初に大森貝塚の土器(No.1~66)があり、続いて肥後(大野貝塚)、植物園(小石川植物園内貝塚)、王子(西ヶ原貝塚)、函館、小樽などモースが発掘した土器が並ぶ。その後に、佐々木・飯島が発掘した陸平貝塚の土器(No. 96~111)があり、ここまでは大部分が縄文土器である。No. 112~140は主に古墳時代の土師器・須恵器で、冑山や肥後などモース関連標本が多数含まれる。No. 141~184は人骨・獣骨・石器などで、大森から陸平の順を繰り返す並びとなっている。No. 185~296は瓦・陶磁器・硯などの歴史時代資料やアイヌ民族資料で、このうち陶磁器(No. 252~273)は「蜷川印」の存在などからモース収集品と推定される(小山1939)。以上No. 296まではモース関連標本が多く、標本の時代順や種類別をある程度考慮した配列となっている。その後は日本各地や海外の各種標本が続き、その中には大森・西ヶ原・小樽などの地名もみられる一方で、モースと関連の薄い遺跡名や、モース帰米後の1880年等の寄贈年代が記載されている。

上記のような配列から、佐原真は博物場の番号が付されたのは陸平貝塚の調査(1879年7月)以降で、その後は受け入れ順に番号を付けていったことを指摘している(佐原1977)。特にNo. 184までの標本は、博物場の設置当初に所蔵されていた日本の先史時代標本を集約したと考えられることから、本書ではNo. 184まで、大森貝塚ほかのモース関連標本及び陸平貝塚標本を報告対象とした。ただし、No. 185以降にも、PEM所蔵図と一致する函館の骨角器(No. 304)や、陸平の英文報告(I. Iijima and C. Sasaki 1882)に掲載された石器(No. 488)がある。これらは、No. 184までのリストから当初漏れた標本を後から追加した可能性が考えられる。

(3)所蔵標本と目録の照合

博物場で展示されていた標本には、目録と対応する番号が赤字で注記されている。松村瞭は「此の當時の標本は大森発見品を始め何れも赤字で番号或は地名が付けられていて、今人類学教室に大切に保管されている。」(松村1926)と記しており、その後、小山富士夫や山内清男も同様の指摘をしている(小山1939、山内1970)。

これまで確認してきた目録の対応関係を表4‐1~4‐3に示した。大森・陸平については、標本資料報告第67集と第79集に掲載した対応表に、今回の追加標本(斜体太字)を加えて改訂した。大森貝塚のNo.57のみ、目録点数1点に対し標本3点が確認されているが、それ以外は目録の点数と齟齬はない。

目録番号No.112~116(表4-3)は出土地名の記載が欠落しているが,対応する標本(KV14-1~6)には“Kabutoyama”と注記されており,古墳時代の小型壺であることから,冑山の横穴墓群出土と判断した。

また、目録番号No.135は“Tamura, Onuma Co., Iwashiro.”出土となっており、標本は確認できていないが、前述の坪井正五郎著『小梧雑誌』第四十八号に「岩代国大沼郡田村山村」出土品として紹介されている須恵器(図版68下)と考えられる。寄贈者の赤羽四郎は会津藩出身の外交官である。

これらも含めて,目録No.184までの地名一覧を表5にまとめた。目録番号は標本に赤字で注記されているが、No.184までの標本には、番号の後に出土地名の略号が注記されている場合が多い。例えば、大森では「56OM」、陸平では「96OK」といった形で、その他にも表5右端の欄に示したような略号が注記されている。人類先史部門に所蔵されている目録の下書きとみられるノート(1883年作成)には、“All specimens marked” “OM from Omori Shell mounds”などとメモされており、目録を作成するにあたって、番号とともにこれらの略号注記を使用することが考案されたとみられる。ただし、この目録下書きはNo.202で終了しており、それ以降の標本には略号注記は使用されない。

なお、「OM」「OK」については、その後も大森・陸平を示す注記として使用されたとみられ、朱書きや墨書きによる注記がみられる(標本資料報告第67集および第79集参照)。本報告でも陸平の石器・獣骨・貝に単独の「OK」注記があるが、その筆跡は博物場のものとは明らかに異なるため、博物場とは別時期の注記と判断した。

(4)古物学標本の展示板について

博物場の陳列室内部を撮影した古写真8葉が東京大学工学部に所蔵されている。このうち、前述の『小梧雑誌』に描かれた「金石陳列室」の写真を図版69上に、「古器物学陳列室」の写真を図版69下に掲載した。古器物学陳列棚の内部は明瞭でないが、多数の石器が板に括り付けられている様子がうかがえる。博物場の展示について、前述の法理文学部第六年報「モールス氏申報」には、「本部列品場蒐集品ノ展覧ニ便スル為メ設ケタル函ハ今其一ヲ落成ス是レ余ノ嘗テ米国ニ在ル時其ケンブリッヂボストン華盛頓等ノ博物館ヨリ規模ヲ取ル所ノモノナリ又見本ニ附スル小板ノ如キモ余カ意匠ニ出ツ」と書かれており、展示方法もモースの発案によることが分かる。

博物場を見学したことのある有坂?蔵は、「大森、陸平、西ヶ原、植物園などから発見されたものが極めて能く整理されて、そこに遺物が鼠色のペンキで塗った板にとりつけられ発見地を詳記されそれを一見すると能く解る様に並べられてありました」と記している(有坂1923)。

今回の調査で、博物場で使用されたとみられる展示板が複数確認された。板は厚さ1.5cm前後で、大きいもので約30cm×23cmあり、それを2分割(約23cm×15cm)もしくは4分割(約15cm×11.5cm)したサイズのものが多い。灰色、青灰色、黒色などに塗られ、穴をあけてタコ糸または細い針金で標本を固定している。また、板の下部には標本目録に対応した番号、標本名、出土地を記した札が貼られており、有坂の記述と一致する。

今回報告対象のNo. 184までの展示板としては、No. 118とNo. 163が確認された。No. 118(図版63下)は大和の土器で、展示板のみ現存する。No. 163(図版3下)は大森貝塚のシカ踵骨6点の展示板で、うち1点(BD04-1141)は板に付いたままの状態であった。No. 163は目録上で点数18点となっており、同じ番号の展示板が全部で3枚あったと推定される。

なお、図版29上の大野貝塚土器2点も板に固定されているが、目録に記述のない土器2点(筑前・赤迫)も混在していることから、博物場当時の状況を残すものではないと判断した。

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