東京大学総合研究博物館
標本資料報告 第116号

東京大学総合研究博物館 人類先史部門所蔵
E. S.モース関連標本

初鹿野博之

はじめに

大森貝塚は、1877(明治10)年にE. S.モースらによって発掘され、日本の人類学と近代考古学の発祥の地として知られている。その成果の概要は、東京大学理学部紀要第一号の “Shell Mounds of Omori” 『大森貝塚』として、1879(明治12)年に報告されている。また、モースの薫陶を受けた東京大学生徒の佐々木忠二郎と飯島魁により、1879(明治12)年に茨城県美浦村の陸平貝塚が発掘された。陸平貝塚の発掘は、日本人が主導した初めての先史考古学の学術調査と位置づけされるものであり、その成果は、1883(明治16)年に大森貝塚報告の付録 “Okadaira Shell Mounds at Hitachi” 『常陸陸平貝塚』として報告されている。これらの標本資料の多くは、現在、東京大学総合研究博物館人類先史部門に所蔵されており、本館では2003(平成15)年度~2006(平成18)年度にかけて、現存状況の確認調査を実施した。その成果については、本館の標本資料報告第67号『陸平貝塚出土標本』(2006)と同第79号・84号『大森貝塚出土標本』(2009・2010)として刊行している。

これらの標本調査により、小石川植物園内貝塚や大野貝塚など、モースが大森貝塚調査後に調査・収集した標本資料の現存状況の確認調査の必要性が明らかとなった。多くの標本資料が、1879(明治12)年に開館した東京大学博物場に展示されていたこと、また、標本の一部を図化したものが、モースが晩年を過ごしたアメリカ、マサチューセッツ州セイラムのピーボディー・エセックス博物館(Peabody Essex Museum)に所蔵されていることを改めて認識することとなった。そこで、初鹿野博之が中心となり、2007(平成19)年度から2014(平成26)年度にかけて、可能な限りの確認調査を実施した。この調査は、実質「全て」の棚と平箱から、モースの図や博物場の注記に該当する標本資料を特定するといった、膨大な作業が中心であった。また、2013(平成25)年度には、初鹿野氏がセイラムのピーボディー・エセックス博物館を訪問し、同館所蔵の標本図を調査した。そして、2014(平成26)年度までの成果により、大森・陸平資料と同様の方式に基づく新たな標本番号を付与し、写真撮影を行った。

本書は、上記の長年の調査による成果をまとめ上げ、報告するものである。この地道かつ、長期にわたり相当な集中力を要する諸成果が、今後の先史考古学に少なからず役立てば幸いである。標本の確認調査と整理・情報化などの実際の作業は、以下の方々によるものである:初鹿野博之、佐宗亜衣子、野口和己子、稲葉佳代子。写真撮影は上野則宏によるものである。

本事業を実施するにあたり多くの方々・機関のご協力をいただいた。特に、ピーボディー・エセックス博物館に収蔵されているモース関連資料については、岡みどり氏と美浦村教育委員会の馬場信子氏に情報提供をいただいた。ピーボディー・エセックス博物館の資料調査および掲載にあたっては、Paula Richter氏に多大なご協力をいただいた。また、博物場に関する資料と写真の調査と、それらの一部の掲載にあたり、東京大学総合図書館、工学部建築学科、工学・情報理工学図書館工14号図書室、東京大学大学院情報学環の各機関にご協力いただいた。ここに謝意を表し、厚く御礼申し上げる。

2017年9月

諏訪 元(東京大学総合研究博物館)

2018年2月付記

陸平貝塚標本の詳細は標本資料報告第67号にもとづいた、陸平貝塚出土標本データベースに示している。大森貝塚標本は標本資料報告第79・84号にもとづき、大森貝塚出土標本データベースに示している。

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