主な標本の来歴について

ここでは目録No.185以降の標本について、おおよそ番号順に(1)蜷川式胤寄贈標本、(2)小樽・函館の標本、(3)海外の標本、(4)地質学関係者の寄贈標本、(5)人類学関係者の寄贈標本、(6)佐々木忠二郎寄贈標本の6つに大別して、来歴等を記述する。また、41~62ページに掲載した一覧の中から、それぞれ該当する部分を抜粋したものを、表2~4・6~11・13・14・16~28に掲載した。

(1)にながわのりたね寄贈標本


蜷川式胤
(蜷川1988より)

蜷川式胤(1835~1882)は明治初期に文部官僚などを務めた人物で、当時の古美術研究の第一人者にして、モースの陶器研究の師でもあった。蜷川からモースに贈られた陶器類は、記録に残るだけでも800点以上あり(蜷川親正1988)、その一部が博物場に展示されたと考えられる。標本資料報告116号では、蜷川印のある近江滋賀寺の須恵器1点(目録No.119 = 報告番号AOS14-1)を報告したが、さらに多数の瓦と陶磁器の現存が確認された。これらは、No.184までの標本(縄文~古墳時代)に後続する番号が付され、歴史時代の標本として時代順を意識した配列になっていたことがうかがえる。

① 瓦(No.189~240)

目録No.189~240には日本各地の瓦53点が掲載されており、42点を確認した(表2、図版3~14)。多くの瓦には赤書きで、「蜷川式胤」の名とともに建物名・年代等が注記され、目録にも同様の内容が記載されている。ただし、目録No.203の「起昇寺」は「超昇寺」、No.221の「法興寺夢殿」は「法隆寺夢殿」、No.223の「兩原寺」は「向原寺」(豊浦寺跡)の誤植とみられる。

蜷川は瓦にも憧憬が深く、彼の瓦に関する研究は『観古図説瓦の部』(蜷川辰子1902)として出版されている。また、寺田和夫によると「蜷川は推古朝以来の古瓦を集め、(中略)彼の古瓦が東大に買いとられて人類学教室の倉庫に入っていた」(寺田1981, p.43)としている。瓦は蜷川から東大に直接渡ったか、モースを介して陶器類とともに寄贈された可能性がある。

確認された標本の多くは奈良・京都の寺院の軒丸・軒平瓦で、なかでもNo.214の東大寺大仏殿の瓦は、幅48cmを測る大型品である(図版8-1)。奈良・京都以外では、鎌倉北条邸(No.192)、駿河国分寺(No.194, 196)、秋田城(No.200)などがある。また、目録の記述に従うと、瓦の年代は6世紀の欽明帝期(No.233)から16世紀の天文年間(No.224)に及ぶ。ただし、最も古いとされるNo.233の軒丸瓦(図版12-3)については、瓦当の文様が平城京出土瓦に多くみられるタイプ(6282型式Ba種)で、8世紀代と考えられる(奈良市教育委員会ほか1996)。それ以外の瓦の年代等についても、今回は詳細な検討を行っていないが、現代の研究に基づいて再解釈する必要があろう。

なお、寄贈者は特定されていないが目録No.274~286にも瓦があり、13点のうち11点が確認された(図版14~17)。いずれも瓦の一部を刳り抜いて「瓦硯」としており、硯部分に墨痕が残るものや、木製の蓋を伴うものが多数ある。また、東大寺などの著名な建物の瓦を転用したものや、「元禄」の年号が刻まれたもの(No.280)があり、主に江戸時代~明治時代初期にかけて硯として製作・使用(転用)されたと推定される。

② 陶磁器(No.252~273)

目録には22点が掲載されており、先述した通り、小山富士夫が同定した18点が現存することを再確認した(表3)。博物場番号が照合されたものが13点、番号が消失しているが目録の記述に一致するものが5点である。また、小山も指摘している通り、一部の標本には、産地と年代を記した蜷川印のラベルが貼られている。目録には明治12(1879)年を基準に推定年代が記されており、モースが理学部在任中に蜷川から寄贈されたものとみられる。


(2)小樽・函館の標本(No.297~304)


(3)海外の標本


(4)地質学関係者の寄贈標本


(5)坪井正五郎ほか人類学関係者の寄贈標本


(6)佐々木忠二郎寄贈標本(No.681~710ほか)

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