「東京大学理学部博物場」関連資料と所蔵標本

(1)標本の寄贈者と年代

これまで述べてきた標本の寄贈者と年代をまとめると、表30のようになる。

まず、日本の先史時代資料(No.1~184)があり、続いて歴史時代資料(No.185~286)、アイヌ関連資料(No.287~296)という順で、ここまでは時代順を意識した並びとなっている。その後に北海道と東京の資料(No.297~305)が並ぶ。以上は、モースの収集品、彼と親しかった蜷川式胤の寄贈品、佐々木・飯島による陸平の発掘出土品などで構成され、大部分が1877~1879(明治10~12)年に収集・寄贈されたと考えられる。ただし、No.135の岩代国田村出土土器(赤羽四郎寄贈品、標本未確認)は、『東京大学第一年報』等の記述から1880~1881(明治13~14)年寄贈とみられる(注28)。また、No.136・137の伊賀の標本が佐々木寄贈品とすると(「佐々木忠二郎寄贈標本」の項参照)、1882(明治15)年まで下ることになる。

No.306~482には、海外の石器・土器などをまとめている。寄贈者が明らかなもののうち、Peabody Museum、S. S. Haldeman、E. A. Barberは、モースが収集にかかわっており、1880(明治13)年頃までに寄贈されたと考えられる。久原躬弦とローマ博物館からは1882(明治15)年に寄贈されている。

No.483~569には日本各地の標本がみられ、主に加藤敬介や富士谷孝雄などの地質学関係者が、1879~1882(明治12~15)年に収集・寄贈している。モース帰国後から人類学会が誕生するまでの一時期は、彼らが古物学標本収集の担い手だったことがうかがえる。

No.570~680およびNo.787は、東京・武蔵・下総の貝塚等から出土した標本が掲載される。これらは、坪井正五郎や白井光太郎らが人類学会創設以前の1882~1884(明治15~17)年にかけて収集したものと考えられる。

No.681~710は、伊賀の土器と日本各地の陶磁器で、佐々木忠二郎が駒場農学校に着任した1882(明治15)年以降に寄贈したものである。佐々木が寄贈した陸平や伊賀の標本は、いくつかの離れた番号に分散しており、佐々木は自身の収集した標本を複数回に分けて寄贈したことがうかがえる。博物場の開設から閉場までかかわりを持ち続けた人物ともいえよう。

No.711~786は寄贈者不明のアイヌ関連資料である。No.788はアイヌ頭骨で、寄贈者の「I. Ota」は太田稲造(のちの新渡戸稲造)とみられる。太田は1881(明治14)年に札幌農学校を卒業し、北海道開拓使等の勤務を経て、1883年9月に東京大学選科生として入学している。その直前の7月11日付けで、農学校同期の宮部金吾から太田にあてた書簡が残されており(北海道大学付属図書館北方資料室所蔵)、太田が先に東京大学に入学していた宮部を通じて、頭骨を佐々木に託したことがうかがえる(三島1998)。


注28)『東京大学第一年報 起明治十三年九月 止同十四年十二月』(1882年)p.283に、寄贈品として「鋤延瓶 一個 赤羽四郎」とある。坪井正五郎が明治14年4月に博物場を見学した際に、この土器のスケッチと説明文を『小梧雑誌』に掲載しており、「赤羽四郎寄贈品 岩代国大沼郡田村山村ノ村民(中略)古物家ノ説に上代鋤延瓶ト唱ヒ酒ヲ醸スニ瓶ヲ土中ニ埋テ造シト云ヒ傳フ即此等ノ類ナラント」とある(標本資料報告116号図版68に掲載)。これらの記述は目録No.136「Vessel for sake (wine). Tamura, Onuma Co., Iwashiro.」に一致する。

(2)目録の作成過程

現存する古物学標本目録の表紙には1884(明治17)年の年号があり、これは『東京大学第四年報』の博物場監督久原躬弦申報にある「古造物学区ニ於テハ其既成目録ヲ正誤印刷シ」という記述に一致する(注29)。これ以前の年報にも博物場の目録作成の記述はあるが、古物学標本に限定していえば、記録上も現存もこれが唯一の目録である。

この目録の作成段階の原案とみられる手書き原稿が人類先史部門に現存する。「Catalogue of Archaeological Collections」という題名で、作成は1883(明治16)年となっている。記述内容は現存する目録と基本的に同じであるため、この時点でほぼすべての標本が揃っていたことが分かる。目録作成は当時の博物場監督の久原を中心に進められたと考えられるが、ちょうどモースの3度目の来日期間(1882年6月~1883年2月)にあたっており、彼も指導にあたった可能性がある(注30)。博物場を視察したモースは「この博物館は私が考えていたものより遙かによく出来上がっていた。もっとも、すこし手伝えば、もっとよくなると思われる箇所も無いではないが―。」としている(E. S. モース1971, p.43)。モースとしては、後のボストン美術館の陶器コレクション(Morse 1901)に見られるように、時代順・地域別といった分類ごとに整然と配列するのが理想であったと思われる。彼がどの程度携わったかは明らかでないが、No.305までの国内標本はおおよそ年代順・種類順に整備されている。続くNo.306~482には海外標本がまとめられているが、これらは標本の種類や出土地等によって順序良く整備されているとは言い難い。現存する博物場古写真をみると、古物学陳列室では展示板に付けられた多数の石器が棚いっぱいに並べられた様子をうかがうことができ(標本資料報告116号の図版69下)、おそらく海外標本の棚と考えられる。目録原稿作成の時点では、すでにNo.569までの標本がこのような形で陳列棚に並べられていた可能性が高く、これらを年代や種類ごとに並べ直すことは困難だったと考えられる。さらに1883年以降になると、坪井らの活動によって続々と標本が増加しており、これらは基本的に受け入れ順のまま整備された結果、同じ遺跡の標本が点々と散在するような構成になったのであろう。目録原稿の最後には、No.787とNo.788が明らかに違う筆跡で書き加えられており、標本の収集と目録の作成が並行して進んでいたことがうかがえる。


注29)『東京大学第四年報 起明治十六年九月 止同十七年十二月』(1885年)p.405

注30)モースは3度目の来日中に、ピーボディー科学アカデミーから博物場に送られたサンゴのコレクションの収納と整理を監修し、その際に博物場職員の久原と種田織三が補助したとしている(守屋1988, p.148)。

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