滝沢正順 東京大学機械工学系三学科図書館 |
1 はじめに明治19(1886)年3月1日に公布された帝国大学令によって、法・医・工・文・理の五つの分科大学から成る帝国大学が発足する。明治23年には新しく農科大学も設置され、分科大学は六つになる。明治前期には文部省以外の省などによって設置された官立の専門学校が、それぞれの分野での高等教育機関として重要な存在だったが、それらの官立専門学校のうちには、東京大学・帝国大学のなかに併合されていったものがある。現在とのつながりだけでいえば、それらはたんに一大学(今の東京大学)の学部の源流の一部であるというにすぎないが、明治前期の教育史の上ではそれぞれが大きな位置を占める別々の教育機関だった。併合された学校名を、明治16年の時点で所属する省とともにあげると、司法省法学校、工部省の工部大学校、農商務省の駒場農学校と東京山林学校である。 明治前期の高等教育機関の図書館については、現在まだかならずしも十分にはあきらかにされていないと思われるが、高等教育機関の範囲を限定してみると、たとえば明治12(1879)年に学位制度ができたとき卒業生が学士の称号を受けられた学校としては、東京大学と右に校名を記した各省の学校(東京山林学校はまだ開校していないが)、それに北海道開拓使の札幌農学校があった[1]。これらは今日の大学・大学院に相当するわけであるが、それらの官立学校の図書館[2]のうち、東京大学と札幌農学校の図書館については、その内容はすでに知られている[3]。しかしこの二校以外は図書館の内容を詳しく取り扱ったものが見られないようである。本稿では工部大学校について、その図書館(「書房」といっていた)と蔵書に関する点について述べてみたいと思う[4]。 ところで、『帝国大学一覧』は「明治二十/二十一年」[5]から「明治二十四/二十五年」まで「第二章・沿革及組織」の冒頭がつねに、「帝国大学ハ東京大学及工部大学校ヲ合併シテ成ル」[6]と記されているが、工部大学校は、明治19年の帝国大学設置当初についていえば、帝国大学の直接の母体となった二つの大学の一つであり、大学という名称の明治以降の早い例の一つでもある。そして、工部大学校の書房は日本で最初の工学専門の大学図書館であるということになる。 これまで工部大学校の書房についてふれたものとしては、図書館史の年表のいくつかがその設立を記しているほか、藤田豊氏の書かれたもの[7]などがある[8]。 なお、工部大学校の書房は、同校が「工部大学校」といっていたときだけに存在したわけではない。書房は明治6年に設置したとされ、明治26(1893)年に廃止されるまで、工学寮・工部大学校・帝国大学工科大学と存続している。 2 工部大学校の資料はじめに工部大学校(工学寮)全般に関するおもな資料名をあげておくことにする。 [一]『工部省沿革報告』、大蔵省編・発行、明治22年 [二]『旧工部大学校史料』『旧工部大学校史料附録』、同史料編纂会編、虎之門会、昭和6年 [三]『工部大学校昔噺』(丁友会パンフレット1号)、後藤単伝編、昭和2年 [四]『工部省年報』 [五]「工部大学校年報」 [六]『工学寮学課並諸規則』『工部大学校学課並諸規則』 [七]The Calendar of the Imperial College of Engineering, Tokei (Tokio) [一]は、明治18(1885)年に廃止された工部省について、大蔵省が編纂したもの[9]。 [二]は、旧工部大学校出身者によって組織されていた虎之門会が出版したもの[10]。『附録』の方は回想が集められている。 [三]は、東京帝国大学・東京大学の工学部の学友会である、丁友会が発行したもの。工部大学校のことや自分たちの先輩であるその卒業生の話を単行冊子として発行したもの。 以上の三種は工部省や工部大学校がなくなってから編纂されたものである。それに対し次の四種は工部省や工部大学校(工学寮)が存在していたときのものである。 [四]は『第一回年報』(自明治8年7月至同9年6月)から『第六回報告』(自明治13年7月至同14年6月)までを参照。第七回も国立公文書館が所蔵している。名称は第一−五回は年報だが、第六回は報告、第二回は報告・報告書、第五回は年報書となっている部分もある。 [五]について参照できたのは、『工部大学校第二年報』(自明治16年4月至17年3月[11])と、『文部省第十三年報附録』(明治一八年)に収録されている「工部大学校年報」(明治一八年)のみである。 [六]は、学課と諸規則を日本文で書いたもの[12]。 [七]は、学課と諸規則、それに各種の試験問題と学生の成績などが英文で書かれている[13]。「東京」のアルファベット表示は、Calendarの表紙・標題紙では1883年度まではすべて「Tokei」、1884・1885年度が「Tokio」になっている。 [六]と[七]は、学課と諸規則については、英文と日本文の違いがあるだけで、一対のものである。工部大学校第1回卒業生によって明治12年11月に創立された日本最初の工学の学会である工学会は、機関誌として『工学叢誌』『工学会誌』を発行していた[14]が、『工学会誌』第三六巻(明治一七年一二月)の「本会記事」のなかにある「会長報告」に「工部大学校ヨリ同校規則書和洋文ノモノ各一部ヲ本会へ寄附セラレタリ[15]」とあるのは、『学課並規則書』とCalendarのことと思われる。 3 工部大学校についてさて工部大学校について、あとで必要になる範囲で簡単に述べておこう[16]。工部大学校のことを考える場合、その前の工学寮も一緒に考える必要がある。書房との関連からは期間的に次の三つに分けるのが適当と思われる。 第一期 工学寮時代 明治4—10年 第二期 工部大学校(工作局所属)時代 明治10—15年 第三期 工部大学校(工部省直轄)時代 明治15—18(19)年 工学寮は明治4(1871)年8月工部省の一等寮として設置された(8年11月二等寮に改められる)。工部省は明治3年に、日本に西洋式の工業を確立するため、山尾庸三の建白によって設置されたもので、工学寮はそれに必要な人材を育成するために設けられた。明治7—15(1874—82)年の『学課並諸規則』では、工学寮・工部大学校は「工部ニ奉職スル工業士官ヲ教育スル学校[17]」であるといっている。もっとも明治16—18年のでは「工部省ニ属シ工学士ヲ教育スル学校[18]」と変化している。 工学寮の最初の工学頭は工部大丞の山尾庸三で、庁舎は虎ノ門の旧延岡藩邸に設けられた。明治6(1873)年の6月に都検(のちに教頭と改称)ヘンリー・ダイヤーをはじめとする9名の外国人教師が到着し、8月には第1回の学生が入学して、実際の教育が始まる。外国人教師はスコットランドに関係をもつイギリス人たちであった。 工学寮・工部大学校の課程は6年で、予科・専門科・実地科がそれぞれ2年ずつになっていた。専門科は、土木・機械・造家・電信・化学・冶金・鉱山の七科あったが、明治15(1882)年に造船科が加わって八科になった[19]。専門科では、1年のうち6カ月は工学寮・工部大学校で勉強し、あとの6カ月は東京や地方の工場・工事現場等で実習をおこなった。実地科になると2年間とも現場での実習が中心となる。年度は、4月から翌年3月までで、4月から6月までが夏期、10月から3月までが冬期になっていた。 学校の場所は東京・虎ノ門にあったが、最初は建物の準備が間に合わず、授業のためにもと松平大和守の上屋敷の御殿の畳をとりはらって教場にしていた。しかし明治6年12月にイギリス人アンダーソン設計の、濠に面した「ゴシツク式煉瓦造弐階建[20]」の建物が竣工してこれが教場として使われた。この建物は大きさとしては「格別大ではなかつた[21]」というが、濠の向いの道路から建物の背面が一般の人によく見え、当時の虎ノ門を描いた小林清親の『ためいけ』『虎の門夕景』、井上安治『虎の門工部大学校』にはこの建物が描かれている[22]。明治10年になるとフランス人ボワンヴィル設計の本館が竣工して教場となり、濠に面した建物は博物場[23]となった。本館の建物は明治初期には本格的な西洋建築として有名であり、「其の一階は則ち真の広堂にて主として学校の儀礼用に供せられた[24]」が、この「広堂[25]」は学校外の式典等の会場にも使われた。明治12(1879)年に来日して国賓として待遇された前アメリカ大統領グラント将軍の歓迎会の式場にも使われ、明治19年7月の帝国大学第1回卒業証書授与式の会場にもなった。明治23年開催の第1回帝国議会の議場として考えられたこともあったようである[26]。教場としては本館だけでなく、本館を中心にしてその左右両翼にも校舎を増築して、「コ」の字形の配置にする予定だったが、実際には左翼の校舎しか増築されなかったのでカギの手型の配置で終った。人力車で虎ノ門を通ったあるイギリス人は「木造家屋とは一変した対照をみせる、立派な工部大学校[27]」と書き残している。 さて、明治10(1877)年1月11日、官制の改革で寮が廃止になり、工学寮は工部大学校と改称されて、工作局に所属することになる。ここからを第二期ということにする。 明治11年7月15日には、明治天皇が来席して、工部大学校開校式がおこなわれ、12年11月8日には、第1回の卒業式があり、23名が卒業した。これ以後、明治18年4月30日の第7回までの卒業があった。 工部大学校の卒業生には一等と二等があり、一等卒業は工学士だったが、二等はたんなる卒業生。また三等として修業があり、修業後1年間在校して卒業試験に及第すれば二等卒業と同じになった。この当時、工部大学校以外の工学の高等教育機関としては、東京大学の理学部に工学科ほか工学系の教育をする学科があったが、東京大学では卒業生は全員が学士だったため、工部大学校の学生・卒業生には不満があったようである。しかし明治20年になって法令が改められ、工部大学校卒業生は全員が工学士になった。 明治15(1882)年6月には工学寮・工部大学校の運営に尽力してきた教頭ヘンリー・ダイヤーは任期が終わり、帰国する。後任の教頭には化学教師のE・ダイバースが就任する。 明治15年8月19日、工部大学校は工作局から離れ、工部省直轄となる。これからを第三期ということにする。 工学寮・工部大学校の教師ははじめは外国人教師だけだったが、第三期になると日本人教師(ほとんど卒業生)の方が多くなっている。 明治18(1885)年12月22日、工部省が廃止になり、工部大学校は、文部省に移管される。一方、東京大学では、それまで理学部にあった工学科ほかの工学系の部分を理学部から分離して、明治18年12月25日に工芸学部を新設した。そして明治19(1886)年3月1日、帝国大学令が公布され、工部大学校と東京大学工芸学部が合併して、帝国大学の工科大学となった。 なお、工科大学の予科は明治19年4月1日に東京大学予備門に併合される[28]。東京大学予備門は同月9日公布の中学校令によって第一高等中学校になり、さらに、明治27年6月23日公布の高等学校令によって第二高等学校になる。 工部大学校の卒業生からは明治・大正の工学・工業界の重要な人材が多く輩出していて、明治文化史上の偉蹟[29]という人もいる。人数的には帝国大学以前の工部大学校の卒業生は200人を越えている。これに対し、東京大学の方は工学系の理学士全部でも100人に達しない[30]。 4 書房について『教育新誌』は明治11(1878)年5—9月に「日本書籍館」の連載をしている(掲載号は23、25、27、29—31号)。この連載には16の図書館が紹介されているが、その第27号には工部大学校の書房のことが記されている。全文を引用しておこう。 「工部大学校ノ書房ハ明治六年十月中設ケタル者ニシテ東京三年町一番地同校博物場ノ一区内ニアリ其ノ書籍惣計一万二千四百九十一冊アリテ和漢書籍ヲ四千四十六冊トシ外国書籍ヲハ八千四百四十五冊トス」 また『教育雑誌』第68号(明治11年6月3日発行)の巻尾には明治10年調査の「書籍館一覧表[31]」があるが、この表に出ている書籍館は『教育新誌』連載のものと同一である。両者は館の名称ほか一部違いがあるが、内容(所在地・設立年・書籍数)はだいたい同じである。『文部省年報』の書籍館一覧表には、管轄を異にするためか工学寮・工部大学校の書房はもちろん載っていない[32]。 『教育新誌』第27号と『教育雑誌』第68号の記載によれば、工学寮時代の明治6(1873)年に書房が設けられたわけである。先に濠に面した建物の竣工を明治6年12月と述べたが、これは「工部大学校年報」(明治18年)の沿革概要によっている[33]。この竣工年月と右の引用文中の書房設置年月とを信じるなら、書房の設置は濠に面した建物の竣工よりすこし前であるということになる。すると、はじめは旧延岡藩邸かもと松平大和守の上屋敷に仮に書房があったか、あるいは濠に面した建物が完成する前から書房(や他の施設の一部)がすでに置かれていたか、どちらかなのであろう。いずれにしろ書房の設置は、外国人教師たちの到着と第1回の学生の入学のあとであるということになる。そして濠に面した建物が、明治10年になって教場でなく博物場になったときにも、まだ書房はこの建物の中にあったことになる。造家科を明治12(1879)年11月に卒業した工部大学校第1回卒業生で工部大学校の助教授であった、曽禰達蔵の回想によれば、内部の様子は次のようである。 「此の建物の特徴は中央の広堂で中に二列数本の長き木造族柱の立てると二階の床に当る所は三方廻り廊下にて中部は高き一階となり、上は実に手の込入つた見事なる木造の穹窿天井となつて居た等である。其の廻廊床は壁に接して一列に書棚が設けられ、其の反対の欄干に接しては閲覧用の卓子が造り付けられてあつた。即ち此の廻廊は書房と称へられて図書室兼閲覧室である[34]」。 工学寮時代の書房の担当は図書科もしくは図書課であった。先の引用文中の書房設置年月より前の、明治5(1872)年6月27日に定められた「工学寮職制並事務章程」では「工学寮ハ工業ノ学ニ関スルー切ノ事務ヲ掌管ス」として、主記課・主計課・文学課・選輯課・図書課の五課が設けられている。そして図書課は「図画書冊器械収蔵出納等ノ事ヲ管ス」と規定されている[35]。また「工学寮及測量司分課庭務規定」の図書課には次のようにある。 「本寮所蔵ノ図書器械ヲ掌ル。 書籍画図器械ハ悉ク号数ヲ詳記シ損壊ナカラシム寮中職員及学生ノ借覧ヲ請フ時ハ證札ヲ取テ之ニ付ス若シ紛失ノモノアレハ之ヲ贖ハシム[36]」。 書房の場所は、その後明治10年のうちか11年の半ば頃くらいまでに博物場から本館へと移される。明治10年なら、『教育新誌』第27号と『教育雑誌』第68号に載っている書房の調査の後ということになる。本館の竣工は明治10年であるが、その具体的な月日の記載は、3月[37]、6月20日[38]、10月20日[39]と、文献によって必ずしも一致していない。しかしいずれにしろ、書房が本館へ移されたのは、本館が完成してからあまり時間がたたない間と考えてよいように思われる。「工部大学校年報」(明治18年)の沿革概要の部分には、明治10年3月本館が竣工したと記したあとに続けて「乃中堂広間ノ二階ニ書房ヲ置キ左右翼ノ各室ヲ各科ノ教場ト為ス[40]」と記している。『工部省沿革報告』の工部大学校の沿革も字句は異なるが同じ書き方をしている[41]。かりに移転がすこし遅かったとしても、明治11年7月15日までには本館に書房が移され、その体裁は整っていたと思われる。この日はすでに記したように、明治天皇の来席した工部大学校開校式の日で、式の際に、天皇は工作局長大鳥圭介に先導されて校内を案内されたが、案内されたなかに書房も入っており[42]、案内の順序からいって本館に書房があると思われるからである。 さて曽禰達蔵の回想を再び引用しよう。 「本館の)建物の中央は前部に於てこそ三階建なるが其の主体なる後部は広堂にて之を中房と称した。長さ約百尺、幅約五十五尺あり……。二階床と同水平に三方廻廊を廻らし、図書室兼閲覧室となせるは濠上の建物の中堂と同上であつた[43]」。 濠に面した建物のときにも、本館のときにも、書房は建物中央の2階にあったわけである。書房が教室間の中央的な位置にあるという配置は、ことによると都検ヘンリー・ダイヤーの意図によるものであるかもしれない。それは、ダイヤーが校舎の構造や教室の位置を考えたという記述がいくつかあるからである[44]。たとえば、明治35(1902)年にダイヤーに対し、東京帝国大学名誉教師の称号を授与するときの称号附与申請書のなかには、ダイヤーの功績として、工学寮・工部大学校で「同校創業ニ際シ学科課程ハ勿論、其他諸規則ノ撰定又ハ校舎ノ構造教場ノ配置等ヲ計画シ[45]」とある。 本館の書房の様子については、Calendar(1883年度と1884年度)の「General Regulations」のなかの「Library」の部分に次の文章がある[46]。これは工学寮・工部大学校を三つの時期に分けたうちの第三期であるが、同じ年度の『学課並諸規則』の書房の部分より詳細である。 The Library is contained in the spacious side galleries of the Examination Hall. The books are in wall-cases, and are about twenty thousand in number. The floor of the galleries is provided with reading tables, and besides this accommodation there are two Reading-Rooms furnished with current periodicals, one set apart for the use of proffesors and instructors, the other for students. また、 The Library is divided into the General Library and the Class Library, and is open during all College hours, for the consultation or borrowing of books. 第三期の『学課並諸規則』では、General Libraryは参考用図書、Class Libraryは教科用図書か科業用図書といわれている。Class Libraryの方は授業のテキストが中心で、General Libraryとは利用のしかたが異なるので、図書の種類としてだけでなく、置き場所も区別されたのだろう[表1]。 書房関係の名称の英語と日本語を、Calendarと『学課並諸規則』で対照させてみると、表1のようになる(日本語の方の変化する年は後述する)。libraryにたいして書房の訳語をあてることは、明治時代の英漢・英和の辞書に例がいくつもあって、工学寮書房のできる以前の辞書のなかにも数例が見出せるという[47]。General LibraryとClass Libraryの区分は、第一期の『学課並諸規則』とCalendarではみられない。また、Class Libraryは複数形のときもある。『学課並諸規則』以外では、第三期のGeneral Libraryに参考部、第二期のClass Libraryに課(科)業用図書、第三期のClass Libraryに教科部・日科部・日科本という語も見られる。しかし『学課並諸規則』のなかのものもふくめて、これらの日本語が、工部大学校での公式の名称としてでなく、一般的な用語として使われている場合もおそらくあるのだろう。本稿で使う用語は、引用以外については、一応、『学課並諸規則』で使われている語句(表1の枠内にあるもの)で統一することにする。読書室についてはCalendarでは、第一・二期の明治6—14年度は「a Reading Room」だが、第三期の明治16・17年度は右に引用したなかにあるように「two Reading-Rooms」で、教員用と学生用に分けられている。また、表1のLibrarianの日本語は、図書館員についての一般的な用語でなく、担当する係の名称である。 Class LibraryとGeneral Libraryに関していうと、あとに述べる書籍目録ではClass Libraryには多くの複本がみられる。このように授業のテキストを学校で用意することは、当時としては決して例外的なことではない。他の学校の場合をすこし詳しくみてみよう。たとえば、(東京)開成学校・東京大学では教科書を購入できない学生に貸すための多くの複本が蔵書目録にみられるという[48]し、司法省法学校では、明治14(1881)年改正の[法学寄宿生徒規則」第1節総則第9条は「学課上必要ノ書籍ハ官ヨリ之ヲ貸渡且縦覧室ニ於テ其他ノ書籍ヲ参観セシム[49]」となっている。同校に学んだ者の回想にも「書籍は全部貸與された[50]」とあり、明治5年に司法省明法寮の学生100人に必要な書籍の価格見積もりをしたものでは、法学書はもちろん、文法書、算術書、歴史の本にいたるまで、テキストはすべて100部ずつ見積もられている[51]。テキストと他の書籍についての状況は、東京大学法学部に併合される前の東京法学校のときも同じになっていた[52]。東京山林学校でも、最初の規則である明治15(1882)年7月の規則の第8章第29条には「山林学上ニ要用ナル和漢洋書籍ハ」「官ヨリ貸付ス」とある[53]。札幌農学校でも教科書は学校から支給されたようである[54]。私立学校にも目を向けて、たとえば明治16年の時点をみると、テキストを学校で用意するところとしないところがある。慶應義塾では「書籍出納之規則」のなかに「課業ノ書籍大概ハ之レヲ貸ス[55]」とあるのに、東京専門学校では「書籍室ニ設備セル参考書類ハ生徒之ヲ閲覧スルヲ許ス[56]」が「生徒ノ日課用書ハ総テ自辨タルヘシ[57]」となっている。 テキストにかぎらないが、複本が多くあることは学生の勉学にとっては有益なことである。それは、明治10年代後半に東京大学理学部工学科で土木工学を教えたアメリカ人ワデルの授業についての次のような回想を考え合わせてみるまでもなく明らかである。 「教科書は皆アメリカ人の著書で厚さの二インチ位ある本を幾つかの部分に分けて二週間或は三週間位に学生全部に読了させるのです。本は大がい一冊しかないのですから諸君はくじ引きで順序を極めて読んで居られた。貧乏くじに當つた人はよく徹夜でよんで居られるのを見かけた[58]」。 さて、『学課並諸規則』とCalendarには予科と専門科の授業時間割が載っているが、そのなかには「書房」「Library」と書かれた時間がある。『学課並諸規則』に時間割のある明治16—18年度だけ示してみよう。 予科の1・2年はどの年度も同じで次のようになっている(授業時間は月—金曜の8時から12時までと、午後1時から4時まで。9月は午前中だけが授業時間)。 [予科1年生] 4—6月(夏期)1週間に計4時間半 月曜 2時30分—4時 水曜 同 金曜 同 9月 1週間に計5時間 月—金曜、毎日、10時—11時 10—3月(冬期) なし [予科2年生] 4—6月(夏期) 水曜 1時—2時30分 9月 なし 10—3月(冬期) 水曜 1時—2時30分 専門科の3・4年では特定の学科の特定の期間にだけある。明治17・18年度は同じで、次のようである。 [専門科3年生]土木科 10—3月(冬期)1週間に計3時間 火曜 8時—9時 木曜 8時—10時 [専門科4年生]土木科 10—3月(冬期)1週間に計3時間 火曜 9時—10時 木曜 9時—10時 金曜 10時—11時 明治16年度は土木科と化学科にある。 [専門科3年生]土木科 10—3月(冬期)1週間に計4時間 月曜 9時30分—12時 金曜 9時30分—11時 [専門科4年生]化学科 10—3月(冬期)1週間に計4時間 火曜 1時—12時 木曜 1時—12時 明治16年以前の『学課並諸規則』では、予科の書房に割り当てられた時間は多いとされており、明治11年と15年の『学課並諸規則』の書房の本の貸し出し可能冊数を記した節に、予科の学生は書房での閲覧時間が「許多ナルカ故ニ」、特別の理由によって教師の認可がなければ(休日以外には)本を書房外には借り出せないと書かれている。 実地科は、すでに記したように校外での実習が中心だが、6年の冬期には卒業論文等のために書房も利用される。 「第六年ノ冬期ニ於テハ生徒本校ノ書房図学場及ヒ試験場ニ在リ或ハ近傍ノ諸工場諸工事ヲ巡視シ以テ卒業試験ノ為メ論文意匠仕様等ノ準備ニ従事ス[59]」 『工部大学校第二年報』の「造家学教授コンドル申報」には、実地科の学生について述べた部分に、「余ハ復タ以為ラク本校ノ如キハ書房ト云ヒ読書室ト云ヒ出入常ニ自由ニシテ」云々とあって[60]、学生の教育に有益なものの一つに書房があげられている。 都検ヘンリー・ダイヤーが工部大学校の第1回卒業式でおこなった講演を、工部大学校のCalendarの抜粋などと合わせて、工部大学校で明治12(1879)年に冊子として印刷した The Education of Engineers. [61]には、書房のことが出てくる部分がある。それは第1回卒業式での講演‘Professional Education’のなかである。 the library contains a good selection of books, supplying examles and descriptions of works which have been actually carried out.[62] 書物について述べた部分にも図書館が出てくる。 Carlyle has remarked that “the true University of our days is a collection of books” and that after a student has done with his classes, the next thing is a library of good books which he ought to read and to study.[63] また、書房と必ずしも直接の関係はないと思うが、工学寮・工部大学校で注意されることに、成績の優秀な学生にたいして賞品として書籍を与えたことがあげられる。 「毎年冬期ノ終りニ於テ預科及ヒ専門科ノ各級ヨリ俊秀ノ生徒数名ヲ撰ミ書籍或ハ器具ノ賞品ヲ與フ[64]」 実際の賞品から例を引いてみると[65]、たとえば、 チヤンブル氏 エンサイクロベジヤ 十冊 ランキン氏 応用重学 壱冊 ランキン氏 蒸気機関論 壱冊 ボウ氏 エコノミクス、オフ、コンストロクシエン 壱冊 トムソン氏 電気及磁気論 壱冊 卒業生の志田林三郎や田辺朔郎の遺品のなかには、多数の賞品の書籍があるという[66]し、東京大学総合図書館の蔵書のなかにも賞品の図書が見つかる[67]。このように書籍を賞品として与えることは、同時期の他の学校、たとえば駒場農学校にも例がみられ[68]、また外国人教師たちの出身地スコットランドの教育的伝統でもある[69]という。徳川時代にも、たとえば昌平坂学問所では勧学の褒美として書籍を書生に与えている[70]。 ところで工学寮・工部大学校には、日本で最初の本格的な官立美術学校であり、女性も入学できた、工部美術学校が設けられていた(明治9年11月設置、同16年1月廃止)。そこでは図書館はどうだったのだろうか。工部美術学校の教師たちはイタリア人であったが、彼らのなかのたとえばフォンタネージは、来日に際して、教材の一部として、美術関係の図書をもってきたようである[71]。しかし「工部大学校の資料」のところであげた文献はもちろん、『工部美術学校諸規則[72]』や、国立公文書館の「大政紀要」にあるという工部省の「美術 自明治九年至仝十五年[73]」にも図書館関係の記述はみられない。学生だった者の回想[74]でも同様のようである。工学寮・工部大学校では成績優良の学生に与えられた賞品には書籍が多くあったが、工部美術学校の場合、「進歩」や「精勤」(「勉励」)の賞品として与えられたのは、油絵具、銀時計、水画(絵)具、水画紙横文入、図引紙、図引器械、鉛筆、といったものである[75]。 工部美術学校旧蔵書の一部が現存しているが[76]、それらの洋書(伊・仏・英)に押されている学校の印などは工部美術学校個別のものだけである。工学寮・工部大学校の印や蔵書票が一緒にみられることはないので、工部美術学校の蔵書は工学の方とは管理や利用が別個だったように思われる。工部美術学校の廃止後、学生の作品などは博物場の所蔵となったが[77]、蔵書については記録はないようである。 5 蔵書服部撫松は「東京新繁昌記」のなかの「書肆」に「文華の明らかなる、今に於て盛なりと為し、……英書日に舶し佛籍月に渡り、支那獨逸又た相次ぐ。蟹行の書、蚯蟠の字、煥乎として皆其れ文章有り[78]」などと書いているが、明治初期の教育機関では、海外とくに欧米からの書籍の購入はどのようにしておこなわれていたのだろうか。 「東京開成学校第三年報」(明治8年)によると同校でのこの年の洋書の購入は次のようであるという。 「諸学科用ノ書籍ヲ准備セン為メ本年中横浜在留米国人ウェツトモール氏同国人ハルトリー氏英国人コツキング氏築地在留獨逸人ハーレンス氏及府下ニ在ル一二ノ書肆ニ命シ英佛獨米ノ各邦ニ注文スル者及ドクトル、モルレー氏米国ニ趣クニ際シ彼国ニ於テ購求ヲ委托スル者ト合テ二千二百九十八部ナリ[79]」 工学寮・工部大学校でも、英書が中心だったことを別にすれば、基本的に相違があったとは思われない。現在東大機械系図書室にある工学寮・工部大学校の旧蔵書をみると、文中に最初に名のあった横浜のウェツトモールのシールを表紙うらに貼ったものを見つけることができる(シールは、FROM/F.R.Wetmore & Co./BOOKSELLER, &c./Yokohama, Japan. 縦1.5×横2.8センチ。および、FROM/F.R.WETMORE & Co.,/BOOKSELLERS/and/STATIONERS./Yokohama, Japan. 縦3.8×横4.2センチ)。 『工部省第一回年報』(自明治8年7月至同9年6月)の「工学寮」のところにある「外国購買品」の項には、「学校用書籍諸物品等外国ヨリ購買セシ者左ノ如シ」として、合計で英貨二一九五、〇二〇八の「外国購買品表」が出ている。しかし書き方は例えば、表からいくつか書き移してみると
というふうで、書籍のみの英貨を計算することはできない。また工学寮・工部大学校の各年度の会計は、「工部大学校の資料」のところであげた[一][二][四][五]の資料に出ているが、このどれにも書房のみの経費とか書籍購入費のみの合計金額といったものは載っていない。ただ[二]の『旧工部大学校史料』には、「学校用品ノ購入」として、工学寮で実際の教育が始まって間もない明治7(1874)年1月22日に、「学校用諸図籍器械類」を英国から購入するのに関し、工学助ほかが評議した都検ヘンリー・ダイヤーの計算書が載っていて、書籍関係として次の4件がある[80]。 一、拾八碑六ペンス 校中文庫用書籍之費 一、四拾貳磅八志 英語学生徒用書籍之費 一、参拾参磅拾貳志 幾何学生徒用書籍之費 一、貳拾四磅五志八片 究理学生徒用書籍之費 明治5(1872)年6月27日の「工学寮職制並事務章程」の事務章程には、「其事ヲ処スルニ当リ卿輔ノ判決ヲ乞テ然ル後施行スヘキ条」の一つとして、「工学ニ関スル諸図籍器械等外国ヨリ購買スル事」があげられている[81]。 先の「東京開成学校第三年報」(明治8年)の文には、文部省学監D・マレーの帰国に際して洋書の購入を委託したことが出ていたが、御雇外国人が洋書の購入に関係した例としては、他にも例えば、東京大学理学部の教師として来日したE・S・モースが、招聘されて日本に来る前に東京大学のために、アメリカで2,500冊の本(邦訳書の25,000冊は誤りという)を集めたと[82]、のちに出版した『日本その日その日』(1917年)に書いている。また、東京医学校の教師として来日し、引き続き東京大学医学部の教師になるE・ベルツは、日記の明治10年2月26日に横浜へ行ったことを記しているが、その用件は学校で必要な書物・器械などを注文と同時に支払えるようにするため手形を買ってくれるよう依頼されたためであると書いている[83]。工学寮・工部大学校の場合にも、そうした事例があったと考えてもいいのではないだろうか。 ところで工学寮・工部大学校書房の蔵書数であるが、明治8年以前には必要とされるほどには揃っていなかったようである。『工部省第一回年報』(自明治8年7月至同9年6月)の「工学寮」の「沿革の概略」には、明治8年のところに、「是年ニ及テ黌舎ノ建築概ネ落成シ書籍器具等畧備リ各課ノ教場梢々整頓セリ唯大学校ノ工事未タ竣ラサルノミ」とある(大学校というのは本館の建物)。 現在参照しうる資料でわかる蔵書冊数を表2に示す。明治10(1877)年は『教育新誌』27号と『教育雑誌』68号のもの。明治16・17年の3月は、『工部大学校第二年報[84]』に、明治17・18年の12月は「工部大学校年報」(明治18年[85])によっている。 冊数の合計では、洋書は和漢書の約2倍のわけだが、部数の合計だとだいたい8倍からそれ以上になる。参考用図書と教科用図書それぞれについて、冊数・部数、洋書・和漢書に分けたのが表3である。 書籍数には減少したものがあって、教科用図書の方が参考用図書より多く減っている。『工部大学校第二年報』によれば、 「減省スル所ノ書ハ他所へ送付セルモノ及ビ生徒へ貸与中紛失ニ係リ代価ヲ以テ償却セシムルモノ損傷シテ廃書トナリシモノ等[86]」 であるという。 また、工部大学校では明治11年3月に、「生徒課業用ノ書籍拂下規則ヲ制定[87]」している。 工部大学校時代の「拂下」によるものではないが、工部大学校旧蔵書を、英文学者の平田禿木と上田敏が古書店で購入したことがあるという[88]。 6 書籍目録さて、次に、工学寮・工部大学校書房の書籍目録について述べることにする。 『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録 第五巻』によれば、現在国立国会図書館では、工学寮・工部大学校の書籍目録として、1876、1878、1880の各年のもの、および1876年11月の Supplementary Catalogue の計4冊を所蔵している[89]。 ところで明治19(1886)年の『東京図書館洋書目録』と明治33(1900)年の『帝国図書館洋書目録文学及語学』をみると[90]、この4冊のほかにもう1冊、1879年の Supplementary Catalogue of the Library (『工部大学校書房書籍目録附録』)があったことになっている。しかし明治33年の『帝国図書館洋書目録』の時点ですでに請求記号が未記載になっている。 国立国会図書館のものはどれも製本されているので、大きさはもとより若干小さくなっていると思われる。明治19年の東京図書館と33年の帝国図書館の洋書目録では、どれも判は八折だが、未見の1879年の Supplementary Catalogue だけは十二折になっている。 国立国会図書館所蔵本によって書籍目録について述べていこう。表紙・標題紙の記載と頁数・大きさは次のようである(斜線は記述の区切りを示すために加えたもの)。 [一]Library of Imperial College of Engineering, Tokei/1876.(表紙) 38頁、縦23.3×横17.0センチ(あとから製本した時につけた表紙の大きさは、縦23.7×横17.4センチ) [二]Library of Imperial College of Engineering./Supplementary Catalogue. November, 1876.(表紙?) 7頁、縦23.6×横16.8センチ(あとから製本した時につけた表紙の大きさは、縦23.9×横17.0センチ) [三]CATALOGUE OF BOOKS CONTAINED IN THE LIBRARY OF THE IMPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING, (KOBU-DAI-GAKKO), TOKEI./Tokei: Printed at the College. 1878.(標題紙?) 4+82頁、縦23.3×横15.9センチ [四]工部大学校書房書籍目録/IMPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING, (KOBU-DAI-GAKKO), TOKEI./CATALOGUE OF BOOKS CONTAINED IN THE LIBRARY. 1880. (表紙) CATALOGUE OF BOOKS CONTAINED IN THE LIBRARY OF THE INPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING, (KOBU-DAI-GAKKO), TOKEI./Tokei: Printed at the College. 1880. (標題紙) 4+108頁、縦22.8×横15.7センチ [二]は、あとから製本した時につけられた外側の表紙に、切って貼付されたものによる。[三]は今は表紙のように見えるが、たぶん標題紙ではないかと思われる[91]。なお、[一]と[二]には「教育博物館印」が、[三]と[四]には「東京図書館蔵書之印」が押されている。 書籍目録のうち、時間的に最後で、掲載された書籍数が最も多いと思われる1880年の目録を例としてまず述べ、その後に他の年のものについても簡単にふれることにする。 1880年の目録のcontentsを示してみよう[表4]。ただし項目順に番号をつけ、頁数の記載は省略してある。 次に、『工部大学校第二年報』の「図書ノ事」にある、明治17年3月調の各部の書籍数の表[92]の「書籍科目」つまり分類項目名を次に示してみる(斜線が「書籍科目」の区切り)。 [洋書参考部書籍表]土木/機械/造船/電信工学(磁気電気書當科ニ入ル)/造家/化学(応用化学書ハ製造部ニ入ル)/鉱山、冶金/地質、金石/古生物、動物、植物/地理、気象/美術、製造/構造用物体強弱/測地/図学/物理/天文/重学/数学/記録(定時刊行書)/工部大学校卒業試論文/工芸字典/農業生理/心理、品行/歴史、伝記/詩歌、文章/語学書/雑書 [洋書日科部書籍表]土木学、機械学/地質学、金石学、鉱山学/化学、冶金学/理学/数学/図学/英学 [和漢書籍表]土木、機械/造家/地質、鉱山/化学、製造/農学、植物/物理、天文/数学/歴史、伝記/地理、紀行/文学、教育/政事/地図/字典/叢書/日科本 各表の「書籍科目」の順序は『工部大学校第二年報』のままである。そしてこの「書籍科目」は1880年の書籍目録の分類と対応している。項目名には若干対応しない点もあるが、各表内の分類項目の排列順序は同じで、両方は一致しているといってよさそうである。つまり、洋書参考部書籍表の「書籍科目」は表4のcontentsの1-27とほぼ一致し、洋書日科部書籍表の「書籍科目」は同じく28と、和漢書籍表の「書籍科目」は同じく32・33と、それぞれ一致している。これら各部の分類は工部大学校の第二期・第三期をほぼ通して使用されていたといえそうにも思われる。 さて、1880年の書籍目録の全体は、以上のことを念頭におくと、配列の順に次の六つの部分に分けられるといえるようである(用語は第二期のものにする)。 [一]調査用図書(洋書) [二]教授用図書(洋書) [三]読書室の雑誌等(一点を除きすべて洋雑誌) [四]貸与された図書(鉱山局およびMr.Komaより。洋書) [五]和漢書の調査用図書 [六]和漢書の教授用図書 表4のcontentsの番号でいえば、[一]が1—27、[二]が28、[三]が29、[四]が30・31、[五]が32、[六]が33である。 洋書は各項目ごとに、著者名のabc順にならんでいる。個々の図書の記載のしかたは、著者の姓・ダッシュ・書名となっており、一部が2巻以上のものや複本のあるものは書名のあとに括弧にいれて巻数と部数を記してある。書名は実際の図書と比較してみると、主要な部分だけ記してあとの語を省略したものが結構あるようである。 洋書の記載方法の例として、[一]の洋書の調査用図書のChemistry(表4の6番目)に記されているものを一つ示すと、 Miller — Elements of Chemistry. (3 vols. 2 cops.) というふうである。 Contentsのはじめに書かれている、重複して記載されている本につくアステリスクは、洋書の調査用図書の部分だけにあり、著者名の前についている。その本が最初に出てくるときにはアステリスクはなく、2度目以降に出てくるときにアステリスクがついている。たとえば、 Main and Brown — The Marine Steam Engine. はMechanical Engineeringのところではアステリスクはないが、Naval Architectureのところではついているというふうである。 雑誌で、製本されたものは、逐次刊行物のところ(表4の19番目のPeriodicals, Transaction, & c.)に記されている。原則として誌名のabc順に並んでおり、それぞれの雑誌等は、タイトル、所蔵年次、そして冊数を括弧にいれて、という順で書かれている。たとえば、 Nature; May, 1873 — Oct., 1879. (13 vols.)というふうである。大学の Calendar もここに記されている。例を日本の学校でいえば、東京開成学校の1876年の Calendar が2部、工学寮・工部大学校の Calendar も、 1873—1880. (6 vols.) となっている。またここには東京書籍館の目録なども入っている。 20番目のGranduation Essaysは、工部大学校の1879年と1880年の卒業論文が、学科とは無関係にそれぞれの年別にタイトルのabc順にならんでいる。すべて英文。タイトルはテーマの部分だけ記されている。書き方はたとえば、 Locomotive Engines. By Miyoshi Shinroku. というふうになっている。 工部大学校の卒業論文は、機械・造家・電信・冶金・鉱山の各科のものが、後身である東大工学部の各学科図書室に現存しており、卒業論文の現物から作成した題名リストを掲載した論文等もある[93]。 卒業論文のタイトルは実際の論文では、標題紙(学生の手書き)にはEssay on—のようになっているものが多いが、表紙(タイトルを印刷した工部大学校の用紙が貼付されている)はこの書籍目録と同じくテーマだけである。大きさは機械科の1879年のものについていえば、縦33.7×横21.8センチである。 以上は洋書の調査用図書であるが、表4の番号でいえば、1—18がおもに工学およびそれに直接関連するものであり、19—21は主題以外による項目、22—27は工学との関連のうすいものということになる。 次が[二]の洋書の教授用図書。教授用図書が学生のテキストで複本が多いことは前にふれた。複本の部数は調査用図書では2部か3部が多いが、教授用図書では大部分がもっと多い。数十部とか中には100部をこえるものもいくつかある。部数がもっとも多いのはMathematicsのところにある Wilson — Elementary Geometry. (340 cops.) である。 [三]の読書室の雑誌等は32点ある。洋雑誌でない1点は、日本最初の工業雑誌である『工業新報』で、あとはすべて英語のもの。記載はタイトルだけで、年次・巻号はない。なお、『工業新報』には、工部大学校に在学していたときの高峰譲吉・志田林三郎・高山直質などが欧米の雑誌から翻訳をしていた[94]。 [四]の貸与された洋書のうち、鉱山局からのものは、複本があるものが多い。数十部あるものもいくつかあり、この点からは教授用図書と似たような印象を受ける。複本はMr.Komaからのにもあるが、こちらは2部どまりである。Mr.Komaについては、いまは確証はないが、 [一]多くの洋書を持つことのできた人物で [二]工学寮・工部大学校に本を貸与できる位置にいて [三]しかもKomaという姓をもつ人物 ということから、おそらく狛林之助ではないかと思われる。 狛について『明治過去帳・物故人名辞典』と『海を越えた日本人名事典』によると[95]、生年は不明、敦賀藩の士族で、明治2(1869)年に官費留学生としてイギリスに派遣されている。帰国して明治7年に鉱山寮に入り、明治16年には佐渡鉱山局長心得になっている。しかし翌17年に非職、18年に休職となり、明治44年に静岡県で没している。また『工部省沿革報告』の「鉱山」の部分(「釜石鉱山」「佐渡鉱山」)には狛の異動などが記されている。書籍目録のMr.Koma貸与の本には、工学以外のものもあるが、倉沢剛『幕末教育史の研究 三』では、狛の留学は「英学」のためとなっている[96]。また同書によると狛がロンドンに留学したのは明治元年であり[97]、渡辺實『近代日本海外留学生史 上巻』によると明治4年9月の時点でまだイギリスに留学中である[98]。 [五]と[六]の和漢書の部分は、すべて日本文(漢文)とその英訳を併記してある。たとえば[五]の最初は、 和漢書籍目録 LIST OF JAPANESE AND CHINESE BOOKS. となっている。もっとも、字の向きは、この書籍目録の綴じ目に対して、漢字は縦書きに、アルファベットは横に、と相違している。記載の例として、 土木学機械学之部 CIVIL AND MECHANICAL ENGINEERING. の最初のものを示すと、 工学必携 長嶺譲編輯 一冊 Nagamine — Engineer's Hand-books. というふうである。[六]は、 科業用書目 CLASS BOOKS. となっているが、全部で9点しかなく、それも工学・工業に関係するのは『日本油田地質測量書』のみである。あとは英語に関するもの一点と水泳に関するもの一点で、残りは学課の「本朝学」などのためのものと思われる『国史略』『日本外史』『文章軌範』『十八史略』といった書名が並んでいる。部数が一番多いのは、 日本外史 頼襄著 十二冊八十五部 Rai — Biographical History of Japan. (12 vols. 85 cops.) である。 以上で1880年の書籍目録の説明を終え、他の年のものについて簡単に述べることにする。 1878年の書籍目録は、記載されている本の数は1880年より少ないようであるが(分類項目数もすこし少ない)、全体の構成や記載の仕方はほぼ同じである。1880年の説明の[六]に当たる部分は、 本朝学課書籍目録 JAPANESE CLASS LIBRARY. となっている。 1876年の書籍目録には、contentsはないが、個々の本の記載の仕方は同じである。記載するための、分類項目の数は1878年より少なくなっている。全体の構成を述べると、はじめにGeneral Library(この言葉はないが)の本が区分された項目ごとに記されている。そのあとClass Librariesがやはり項目ごとに記されているが、項目はEngineering, Chemistry, Natural Philosophy, Mathematicsの四つしかない。もっとも、Mathematicsの書名のあとに区切りの線を引いて辞書が一点だけ載せてあるので、正確には項目は五つである。Class librariesのあとに読書室の雑誌類、そのあとMr.Komaから貸与された本がある。鉱山局(1876年では鉱山寮だが)から貸与の本はない。そのあと、和漢書があるが、和漢書の中は項目に分けられてはいない。 1876年11月の Supplementaray Catalogue は、増加分の目録のようで、すべて洋書。そしてすべてGeneral Library(この言葉はない)のもののようである。contentsはないが、なかはCivil Engineering, Architectureというように項目に分けられている。個々の記載の仕方は同じである。 ところで、以上に述べてきた書籍目録の発行は、ことによると、博物局(博物場)の目録の発行と連動したものであったかもしれない。工部省年報の、明治8年には書籍器械がほぼ備わったという記述はすでに紹介したが、明治8年と9年の『学課並諸規則』の博物局の部分には、同じ文章で、 「但シ校中各課ニ要スル各般ノ摸形ヲ収集シテ畧ホ備レリ故ニ今年ヲ出スシテ其目録テ刊行スヘシ」 とある。そして実際に刊行され[99]、明治10—15年の『学課並諸規則』の博物場の「本邦製造物」のところには、 「場中陳列品ノ目録ハ既ニ刊行セリ就テ見ルヘシ」、 さらに明治16—18年の『学課並諸規則」の博物場の部分では、「場中ノ陳列品ハ別ニ区分目録ノ詳細ナルモノアリト雖トモ[100]」として、陳列品の概略を記している。こうした博物局(博物場)の目録発行のことが、書房の書籍目録発行と全く無関係であったとはいえないだろうと思われる。 7 蔵書印と蔵書票さて、工学寮・工部大学校の旧蔵書には、蔵書であることを示す印が押され、蔵書票が貼付されているので、次にそれについて述べることにする[101]。これらの印と蔵書票は、一部が、『改訂増補・内閣文庫蔵書印譜』と樋田直人『蔵書票の魅力』(丸善、平成4年)のなかに収録されている。 蔵書に押されている印にはすくなくとも次の六点がある(縦書きで、斜線のところで行が変わる)。 [大・中型、正方形] [一]「工学/寮印」縦3.3×横3.3センチ [二]「工学寮/図書印」縦6.4×横6.4センチ[挿図1] [三]「工部大学/図書之印」縦6.3×横6.3センチ[挿図2] [小型、長方形(縦長)] [四]「工学寮」縦3.0×横1.3センチ [五]「工学寮図書印」縦2.4×横0.8センチ [六]「工部大学校図書」縦2.4×横0.8センチ [一]—[三]の印は標題紙に押されている。これをここで大・中型としたのは、[四]—[六]と比較してで、便宜上このようにいうことにした。 以上のうち[一][二][六]の三点の印影が『改訂増補・内閣文庫蔵書印譜』に収録されている[102]。 蔵書票にはすくなくとも次の八種類がある。この八種類の区別は、図柄や印刷された文字・印刷された部分の大きさの相違によるものである。蔵書票の用紙全体の大きさは不揃いの場合が多いが、参考のために一例ずつ示すことにする。貼られている位置は、表紙うらの中央あたりで、蔵書票はどれもすこし横長の四角形をしている。 [一]LIBRARY/OF THE/IMPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING,/TOKEI, 枠の線などはない。用紙の大きさの一例、縦7.5×横9.9センチ。 [二]OFのあとにTHEがなく、TOKEIのあとがカンマでなくピリオドになっている以外は[一]と全く同じ。やはり枠の線はない。用紙の大きさの一例、縦6.4×横9.5センチ。 [三]THE LIBRARY./IMPERIAL COLLEGE/OF/ENGINEERING/TOKEI.[挿図3] 縄目模様的な枠線があり、枠線の外辺の大きさは、縦5.3×横8.4センチ。用紙の大きさの一例、縦6.6×横9.5センチ。 [四]工部大学校書房/LIBRARY/OF/IMPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING,/TOKEI. 蔓草模様の枠線があり、模様中央の線による四角形は、縦4.8×横6.2センチ。用紙の大きさの一例、縦6.8×横7.6センチ。 [五][四]と同じ図柄だが、サイズがすこし大きい。模様中央の線による四角形は、縦5.2×横7.5センチ。用紙の大きさの一例、縦6.8×横8.7センチ。 [六][四][五]と同じ図柄だが、TOKEIの部分がTOKIOになっている[挿図4]。それ以外は[四][五]と同じなので、注意しないと分からない。大きさは模様中央の線による四角形が、縦4.8×横6.2センチ。用紙の大きさの一例、縦6.6×横7.8センチ。 [七][六]と同じ図柄で、やはりTOKIOになっているが、[六]よりすこし大きい。模様中央の線による四角形が、縦5.2×横7.5センチ(あるいは横7.6センチ)。用紙の大きさの一例、縦7.2×横9.0センチ。 [八]THE LIBRARY,/COLLEGE/OF/CIVIL/ENGINEERING/YEDO.[挿図5] 模様の枠線があり、枠線の外辺の大きさは、縦5.3×横8.5センチ。用紙の大きさの一例、縦6.2×横9.3センチ。蔓草をデザインした線の模様が中央部の文字の背景に(文字と一部重なって)配置されている。 蔵書票は大まかにいえば、[一][二]、[三]、[四]—[七]、[八]、の四種類あり、[四]—[七]については、[四][五]がTOKEI、[六][七]がTOKIO、印刷部分の大きさで[四]と[六]、[五]と[七]がそれぞれ対応するいうことになる。 地名の表記は[一]—[五]がTOKEI(東京)、[六][七]がTOKIO(東京)、[八]がYEDO(江戸)、である。 貼られた時期は[四]—[七]はもちろん工部大学校の時期、[三][八]は貼られている本が少ないが工学寮、[一][二]は工学寮だが工部大学校になってからも貼られている。貼られている量は[一][二]と[四]—[七]が圧倒的に多い。 以上の蔵書票のうち[一][二]および[四]—[七]には、右下にCase、さらにその下の段にShelfと印刷されている。Case・Shelfの右には、それぞれ文字を記すための空欄と、文字を記す場所を示すためのアンダーラインがある。Caseの右の欄には、大文字のアルファベットが一字か二字、赤のスタンプインクで押されているものが多くあるが、空欄のものも多い。Shelfはどれもすべて空欄のままである。Caseにある文字としては、たとえばG, H, I, U, Y, Z, AC, AH, BO, ERといったものがある。 [三]と[八]にはCase・Shelfの印刷はないが、ちょうどその位置にあたる右下に、他の蔵書票と同じ赤のスタンプインクのアルファベットが押されている。 Caseにアルファベットのある本について、1880年の書籍目録にあたってみると、G, H, Iのある本は表4の2番目のMechanical Engineeringのところに、Uのある本は17番目のTheoretical and Applied Mechanicsのところに、Yのある本は18番目のMathematicsのところにそれぞれ見つかる。またERのある本は大型本でMechanical Engineeringのところに見つかる(いずれも複数の本についてそのようになっている)。東大機械系図書室にある雑誌The Engineering(大型)は、工学寮・工部大学校旧蔵の部分は第1巻(1856年)から揃ってあるが、Caseの文字は古い方から順次EB, EC, ED, EEとなっている。やはり大型の雑誌IronはEGになっている。 『改訂増補・内閣文庫蔵書印譜』は、右の蔵書票のうち[四][五][七]の三点を掲載し[103]、それらの蔵書票が「当時としては珍しい例」であるといっている[104]。 蔵書票とともに、調査用図書・参考用図書の何かの類別を示すと思われる、 GEN. Library./No I. GEN. Library./No II. GEN. Library./No III. GEN. Library./No V. と印刷された方形の用紙が、どれか一枚貼られているものが多く見られる。しかしないものもある。貼られた位置は、表紙うらの右上かどか、蔵書票の用紙の上辺に接した左右の中央あたりのどちらかのようである。また、東京大学教養学部図書館所蔵の旧第一高等学校蔵書のなかにある、工学寮・工部大学校旧蔵書の和綴本の『国史略』『日本外史』には、表紙うらか裏表紙うらに蔵書票とともに、 Class Library./No. Japanese Class/Library./No の用紙が貼られている。Noの右は空欄と下線があり、手書きの数字が書かれている。 以上の他に東大機械系図書室所蔵の工部大学校機械科の卒業論文の表紙うらには、 「此書籍ハ房外ニ携持スル/ヲ許サス/This book is not allowed to take/out of the Library.」 と印刷された紙が貼られているものがある。文字の向きは和英で異なり、この用紙は和文でみれば縦長、英文でみれば横長になる。文字の四周は、内側を直線、そのすぐ外を波線、さらにその外を蔓草模様で囲んでいる。蔓草模様の(和文でみた)上辺中央途中に「工部」、下辺中央途中に「大学」、右辺中央途中に「書」、左辺中央途中に「房」と印刷されている。 工部美術学校の旧蔵書についてもふれておくと、工部美術学校の旧蔵の洋書(伊・仏・英)には、次の印などによって、蔵書であることが示されている(印は縦書きで、斜線のところで行が変わる)。 [一]「工学寮美術/教場図書印」縦7.8×横4.7センチ [二]「工作局/美術校」縦3.3×横2.4センチ [三]朱筆で縦に「画教場」 また、表紙うらに次のような用紙が貼付されているものがある(日本語は縦書き。本そのものはどれも洋書である。枠の線が、縦10.5×横7.5センチ。用紙の大きさ、縦12.5×横9.5センチ)。 人名 モゼス氏著 書名 古代陶器抜翠 番号 第三十号 冊数 壱冊全 Numero 30. Nomber 1. 工学寮・工部大学校の印や蔵書票が一緒にみられることはないので、工部美術学校の蔵書は工学のほうとは管理や利用が別個だったように思われるということはすでに記した通りである。 8 その後の工部大学校校舎さて最後に工部大学校の建物がどうなったかについて述べておこう。 明治19(1886)年に工部大学校と東京大学工芸学部が合併して帝国大学工科大学になったあとも、東京・虎の門の工部大学校の校舎はそのまま工科大学の校舎として使用されていた。しかし東京・本郷には辰野金吾設計の校舎が新築され、明治21年に工科大学は虎の門から移転した。 工科大学が本郷に移ったあとも、宮内省の所管となった敷地に、もと工部大学校の校舎や建物はそのまま残っていた。そして学習院・東京女学館の校舎、帝室博物館の倉庫、宮内省図書寮、維新史料編纂事務局[105]というように、いろいろな機関に使用された[106]。工学会の大著『明治工業史』の建築篇が本館の建物について、「明治末年には殆ど不用に帰し、僅に物置として用ひられたる[107]」と記すのは、帝室博物館の倉庫として使用されたことのようである。しかしこれらの建物が、工学寮・工部大学校のあったところだということは、一般の印象にあったようである[108]。 ところで、帝国大学の書記官や日本郵船の横浜支店長をした人で、漢詩の創作もしていた永井久一郎が、東京書籍館(帝国図書館の前身)の館長補になる前年、明治7年に工学寮に勤務したことがあった[109]。彼の長男は小説家の永井荷風であるが、永井荷風は明治10年頃の小林清親の絵と比較して、随筆「日和下駄」のなかで東京市内を次のようにいっている。これは大正3年発表の部分である。 「今日東京市中に於て小林(清親)翁の東京名所絵と参照して僅に其の当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残つてゐる旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の燈明台、日本銀行前なる常盤橋其の他数箇所に過ぎまい[110]」。 また建築学者の大熊喜邦は、大正12(1923)年に雑誌『建築世界』に連載した「明治建築史料」の其三・四[111]に旧工部大学校の生徒館・作工場・左翼教場・校堂の設計図と仕様書を掲載している。そして、「今猶ほ明治初期の西洋建築の遺例として虎の門内に其の昔ながらの面影を伝へてゐる[112]」と書いている。ところがこの文章の載った『建築世界』が発行されておよそ半年後の9月に関東大震災が東京を襲った。そして大震災によって旧工部大学校の建物は被災してしまった。約10年間にわたって書房のあった本館の建物は震災からしばらくして、海軍工兵隊の手によって爆破された[113]。 現在は、旧工部大学校の建物はあとかたもなく、その場所には文部省や会計検査院の庁舎が建っている[114]。ただひとつ昔をしのべるものとして、工部大学校の建物の煉瓦・石材・銅材などを使用してつくられた記念塔[115]を、会計検査院通用口の脇に私達は見ることができる。 【付記】本稿は「工部大学校書房の研究」1—3として『図書館界』第40巻1・3・4号(1988年)に発表したもののうち、全体の約半分の量に一部改訂をしたものであることをおことわりします。 |
【注】[1]中山茂『帝国大学の誕生』、中央公論社、昭和53年、19頁。[本文へ戻る][2]ここで「図書館」としたのは、現在使われる一般的な名称としてである。[本文へ戻る] [3]明治10年代の東京大学に限られないが、現在にいたるまでの東京大学全体の図書館史に関する主なものとして、以下のものがある。まず東京大学の公式の歴史である次の三点のなかの図書館の部分。『東京帝国大学五十年史』全2冊、昭和7年。『東京帝国大学学術大観』全5冊、昭和17—18年。『東京大学百年史」全10冊、昭和59—62年。そのほかに次のものがある。高野彰「東京大学法理文学部図書館史」、『図書館界』第27巻5号、第28巻1・4号、1976年。高野彰「帝国大学図書館史」、『図書館界』第29巻3・4号、1977年。東京大学附属図書館編・発行『図書館再建五十年』、1978年。薄久代『色のない地球儀(資料・東大図書館物語)』、同時代社、1987年。 札幌農学校の図書館については、北海道大学編『北大百年史・部局史』株式会社ぎょうせい、1980年。[本文へ戻る] [4]すこし長くなるが、本稿で扱う工学寮・工部大学校の書房との対比という意味もあるので、他の学校の図書館について要点と文献名をいくつかずつ記しておくことにする。 司法省法学校については、本稿では、主に法学者の手塚豊氏と沼正也氏が同校について書いたものから拾って、なるべくもとの文献にあたったのだが、明治「十一年九月創メテ校内ニ書籍縦覧所ヲ設ク」(「東京法学校年報」沿革、『文部省第十二年報附録』(明治17年)所載、560頁)。手塚氏は同校のフランス書の所蔵数を「驚くべき分量」とされる(「司法省法学校小史(2)」『法学研究』第40巻7号、1967年7月、954頁)。司法省には明治4年に設けられた文庫があり、司法省法学校の前身、司法省明法寮学校に入学しようとしたものには、その「當時に在りては完備せる」「豊富なる」「(英)佛法(律)文庫」のことが意識されていたようである(池田宏編・発行『大森鐘一』、昭和5年、47・49頁)。明法寮の司籍課・書籍掛については、沼正也「明法寮についての再論」(沼正也著作集第2巻『財産法の原理と家族法の原理』所収、とくに744—745頁、三和書房、昭和38年・改訂版)。また、司法省に雇われたフランス人ブスケが、明治5年4月に法律学校について建議した文書の中には「法律学校ニハ盛大ナル書庫アリテ、凡ソ法律ニ管スル古今ノ書籍ヲ蔵メ置キ、博士、生徒等、皆之ヲ看ルコトヲ許ス」という部分を見出すことができる(引用部分は、手塚豊「司法省御雇外人ブスケの法学校に関する建議」『法学研究』第41巻4号、1968年4月、506頁)。 駒場農学校では、明治13年6月に編成された規則の第10章が図書室の規則になっている(『東京大学百年史・通史一』、748頁)。明治17年10月刊行の『駒場農学校一覧』では第20章が「書籍及器械・附閲覧人心得」で、「書籍及器械」が全12條、「閲覧人心得」が全13條あり(90—95頁)、書器掛の職員が1名いる(118頁)。また、東京山林学校は駒場農学校と合併して東京農林学校になるとき、732種の書籍が引きつがれている。この引きつがれた書目やその他にも帝国大学農科大学の前身校の書籍関係についての資料が収録されている文献として、安藤圓秀編『駒場農学校等史料』がある(東京大学出版会、1966年)。農科大学・農学部の図書室は、東京・駒場にずっと続いていたようだが、昭和10年に同学部が第一高等学校と敷地交換の形で、東京・本郷に移転した際に一緒に移った。しかし正規に開館しないまま、昭和20年に戦災で焼失したという(『東京大学農学部図書館概要1985・開館二十周年を迎えて』、同館、1986年、2—3頁。『東京大学百年史・部局史二』、1017—1019頁)。農学系の外国雑誌センター館である、現在の東京大学農学部図書館の開館は、概要の副題でわかるように昭和40年である。[本文へ戻る] [5]『帝国大学一覧・従明治二十年至明治二十一年』をこのように記した。本稿では『帝国大学一覧』については、すべてこの書き方をすることにする。[本文へ戻る] [6]「明治二十四/二十五年」だけは第2章は「沿革」である(引用した文章は同じ)。なお、最初の『帝国大学一覧』である「明治十九/二十年」では、「第2章・組織」の冒頭が、帝国大学令発布による帝国大学の設置を述べたのに続けて、「旧東京大学及工部大学校ノ事業ハ総テ之ヲ本学ニ属セシム」となっている。[本文へ戻る] [7]藤田豊「図書館史上の工部大学校」、『図書館学とその周辺』、天野敬太郎先生古稀記念会、1971年、83—92頁。藤田豊「英国風大学図書館とシラバスの採用」、『図書館学会年報』第17巻1号、1971年、10—11頁。[本文へ戻る] [8]日本図書館協会編『近代日本図書館の歩み・本篇』、同会、1993年、284—285頁。[本文へ戻る] [9]大内兵衛・土屋喬雄編『明治前期財政経済史料集成』第17巻所収、改造社、昭和6年。同集成の復刻版では、明治文献資料刊行会、昭和39年、および、原書房、1979年。本稿で「工部省沿革報告」について示す頁数は、昭和39年版の同集成第17巻の頁数である。[本文へ戻る] [10]複製版がある。青史社、昭和53年。なお『工学博士藤岡市助伝』の「第4篇・追懐」には、藤岡市助と工学寮・工部大学校で接した人たちの回想が載っている。瀬川秀雄編、工学博士藤岡市助君伝記編纂会、昭和8年。[本文へ戻る] [11]『明治初期教育関係基本資料、其之三・工部大学校第二年報』(近代日本学芸資料叢書第四輯)、湖北杜、1981年[本文へ戻る] [12]明治7—11、15—18年の各年のものが国立公文書館(内閣文庫)に、明治17年のものが東京大学総合図書館に、明治18年のものが国立国会図書館に、それぞれ所蔵されている。ほかに『工部省沿革報告』に明治7、18年のものが、『旧工部大学校史料』に明治7、10、18年のものが、『明治文化全集・補巻三・農工篇』(明治文化研究会編、日本評論社、昭和49年)と『東京大学百年史・資料一』(昭和59年)に明治10年のものが、それぞれ収録されている(ここに示した年は『学課並諸規則』に表示されている改正年である。本稿では以後すべて改正年で記すことにする)。[本文へ戻る] [13]1876—1880、1881—1885の各年度のものが東京大学総合図書館に、1873・76年度のものが国立国会図書館に、1881年度のものが国立公文書館(内閣文庫)に、1883年度のものが早稲田大学図書館に、それぞれ所蔵されている。ほかに『明治文化全集・補巻三・農工篇』に1877年度のものが複製版で収録されており、また1873年度のものを藤田豊氏が刊行(昭和45年)している(ここには、Calendarにたとえば1876—1877とあるのを1876年度として示してある。本稿ではCalendarについては、以後このあらわしかたをすることにする)。[本文へ戻る] [14]『工学叢誌』『工学会誌』には452巻全部の復刻版がある(80冊に合本)。日本工学会編、雄松堂、昭和58年。[本文へ戻る] [15]『工学会誌』第36巻、明治17年、505頁。[本文へ戻る] [16]工学寮・工部大学校の沿革概要は『工部省第一回年報』「工部大学校年報(明治18年)」『工部省沿革報告』に出ている。 また、工学寮・工部大学校について次の単行書は重要である。三好信浩『日本工業教育成立史の研究』、風間書房、昭和54年。北政巳『国際日本を拓いた人々』、同文舘、昭和59年。山崎俊雄『技術史』、東洋経済新報社、昭和36年。[本文へ戻る] [17]明治7年は第1条。以後はすべて第1章第1節。[本文へ戻る] [18]すべて第1章第1節。[本文へ戻る] [19]課程等については、たとえば、舘昭「日本における高等技術教育の形成」、『教育学研究』第43巻1号、昭和51年3月、13—23頁。村松貞次郎「工学事始め」、東京大学公開講座第26巻『明治・大正の学者たち』、東京大学出版会、1978年、67—101頁。[本文へ戻る] [20]『旧工部大学校史料附録』、69、71頁。[本文へ戻る] [21]同上、71頁。[本文へ戻る] [22]3点ともカラー図版が、吉田漱『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房、昭和39年)に収録されている。図版16、42、62(頁では39、65、89頁)。[本文へ戻る] [23]資料によっては博物場でなく、博物館となっているものもある。[本文へ戻る] [24]『旧工部大学校史料附録』、72頁。[本文へ戻る] [25]資料によって名称が、中堂・中房・中央講堂・講堂・広堂、というように相違している。[本文へ戻る] [26]明治時代のいわゆる政治小説の一つ「緑簑談」(須藤南翠・明治21年刊)に「明年第一期の開会ハ先年以来新聞紙の屡々報道なせるが如く、元の工部大学校なる中堂を以て假議場に充らるゝ方正説なるべし」とある(『明治文学全集』第5巻、筑摩書房、昭和41年、283頁)。なお、明治24年に国会議事堂が火災になり、衆議院は旧工部大学校の中堂を使用している(貴族院は鹿鳴館)。[本文へ戻る] [27]A・H・クロウ『クロウ日本内陸紀行』、岡田章雄・武田万里子訳、雄松堂、昭和59年、18頁。ほかにも、たとえばB・H・チェンバレン『チェンバレンの明治旅行案内』に「見事なレンガの建物」とある(楠家重敏訳、新人物往来社、昭和63年、172頁)。 建物ではないが、グラント将軍は明治天皇と会見したとき日本の教育機関についての感想を述べたなかで、工部大学校の御雇外国人が優秀であるという発言をしたらしい(土屋忠雄「工部大学校を繞る史的考察」に日本側記録が引用されている、『教育学研究』第18巻6号、昭和26年、67頁。ほかに、J・R・ヤング『グラント将軍日本訪問記』、宮永孝訳、雄松堂、昭和58年、108—109頁)。[本文へ戻る] [28]『第一高等学校六十年史』、昭和14年、92頁。『東京大学百年史・資料一』、97頁。[本文へ戻る] [29]篠田鉱造「明治文化史上の偉蹟工部大学校」、尾佐竹猛編『明治文化の新研究』、亜細亜書房、昭和19年、201—232頁。[本文へ戻る] [30]石橋絢彦「東京帝国大学創立当時の工理学士」「帝国大学創立当時の工、理学士と生存者」、『工学』第14巻4、6号、大正15年4、6月。[本文へ戻る] [31]複製版による。佐藤秀夫編『明治前期文部省刊行誌集成・第8巻』、株式会社歴史文献、昭和56年、158頁。 なお、この『教育雑誌』所載の書籍館一覧表の内容を、明治11年6月6日の東京日日新聞がくわしく報じている(第2面)。また、この東京日日新聞の記事は次の文献に転載されている。石田文四郎編『新聞雑誌に現れた明治時代文化記録集成』前篇(自明治元年至20年)、時代文化研究会、昭和9年、233頁。[本文へ戻る] [32]竹林熊彦「明治初年ノ図書館事業小観」の「八、明治初年ノ図書館一覧」は、『教育雑誌』第68号の書籍館一覧表と『文部省年報』の明治8—13、15年の書籍館一覧表を載せていて、通覧に便利である。『図書館研究』第6巻4号、1933年、420—425頁。[本文へ戻る] [33]『文部省第十三年報附録』(明治18年)、464頁。[本文へ戻る] [34]『旧工部大学校史料附録』、71—72頁。[本文へ戻る] [35]『東京大学百年史・資料一』、78—80頁。『旧工部大学校史料』、55頁。[本文へ戻る] [36]『旧工部大学校史料』、68頁。測量司は明治7年1月に内務省の所管に変わるまで工学寮に並設されていた。引用文のなかの「寮」とあるところの原文には、「司」も併記されているが、引用では省略した。[本文へ戻る] [37]「工部大学校年報(明治18年)」、『文部省第十三年報附録』(明治18年)、464頁。『工部省沿革報告』、346頁。[本文へ戻る] [38]『明治工業史・建築篇』、工学会、昭和2年(復刻版が、学術文献普及会、昭和43年)、137頁。[本文へ戻る] [39]塚本靖「明治初期に於ける我国の工業教育」、『建築雑誌』第42輯506号、昭和3年2月、86頁。[本文へ戻る] [40]『文部省第十三年報附録』(明治18年)、464頁。[本文へ戻る] [41]『工部省沿革報告』、346頁。[本文へ戻る] [42]『旧工部大学校史料』、128頁。『工部省沿革報告』、346—347頁。『東京大学百年史・資料一』、1020頁。開校式の挙行と天皇が校内を通覧する予定のことを報じた7月14日の読売新聞の記事(第2面)では、書房と講堂を分けずに「書房講堂」と記されている(転載されたものでは、『新聞集成明治編年史』第3巻・西睡擾乱期、同編年史編纂会編、財政経済学会、昭和15年(再版)、4—8頁。および、『明治ニュース事典』第2巻(明治11—15年)、同事典編纂委員会編、株式会社毎日コミュニケーションズ、1983年、228頁)。[本文へ戻る] [43]『旧工部大学校史料附録』、72頁。[本文へ戻る] [44]時間的にもっとも早いのは、ダイヤーが明治15年に帰国する際、勲三等に叙せられた時の功績記録のようである(塚本靖「明治初期に於ける我国の工業教育」に引用されているものによる。『建築雑誌』第42輯506号、昭和3年2月、86頁)。ほかにも、『工部省沿革報告』、348頁。『帝国大学一覧』の「第2章・沿革及組織」の工部大学校の部分(たとえば「明治二三/二四年」なら5頁)。『旧工部大学校史料』の「ヘンリー・ダイエルの帰国」の項(145頁)と「外人略伝」の160頁。[本文へ戻る] [45]ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料御雇外国人』、小学館、昭和50年、314頁。または、東京大学総合図書館所蔵『傭外国人教師・講師履歴書』(稿本)の「ヘンリー、ダイエル」の項。[本文へ戻る] [46]引用は1883年度版。1884年度版もほとんど同文。東京大学総合図書館所蔵の1885年度版は、「Library」をふくむ「Gneral Regulations」の一部がハサミと思われるものでまとめて切り取られていて見られないが、やはりほとんど同じではないかと思われる。[本文へ戻る] [47]永峯光名「辞典に現われた『図書館』(2)」、『図書館界』第18巻5号、1967年1月、とくに183—184頁。[本文へ戻る] [48]前記文献の(3)、『図書館界』第19巻2号、1967年7月、41頁。高野彰「東京大学法理文学部図書館史」、『図書館界』第27巻5号、1976年2月、164頁。同じく(2)、『図書館界』第28巻1号、1976年5月、6頁。[本文へ戻る] [49]松尾章一「明治政府の法学教育」、『法学志林』第64巻3・4合併号、1967年、115頁。または註[4]の手塚豊「司法省法学校小史(2)」、77頁。[本文へ戻る] [50]柳沢重固「温古知新」、『法曹会雑誌』第12巻1号、昭和9年、116頁。手塚豊「司法省法学校小史(3)」、『法学研究』第40巻11号、1967年11月、65頁。[本文へ戻る] [51]註[49]の「明治政府の法学教育」、110—111頁。[本文へ戻る] [52]「東京法学校年報」に掲載の「東京法学校校則」第1章総則第8條(『文部省第十二年報附録』(明治17年)所載、563頁。次のものに引用されている。註[4]の手塚豊「司法省法学校小史(2)」、97頁。『東京大学百年史・通史一』、726頁。『東京大学百年史・資料一、102頁)。[本文へ戻る] [53]『東京大学百年史・通史一』、765頁。[本文へ戻る] [54]『北大百年史・部局史』、1980年、1347頁。蝦名賢造『札幌農学校』、図書出版社、1980年、43頁。[本文へ戻る] [55]小田勝太郎編『東京諸学校学則一覧』巻之下、英蘭堂、明治16年、471頁。慶應義塾での教科書貸与については伊東弥之助『慶應義塾図書館史』に出ている(慶應義塾大学三田情報センター編、昭和47年)。[本文へ戻る] [56]註[55]の『東京諸学校学則一覧』巻之下、524頁。[本文へ戻る] [57]同上。しかし東京専門学校では明治19年に、教科用の原書は無料で学生に貸与する制度が設けられた(『半世紀の早稲田』、早稲田大学出版部、昭和7年、544頁。『早稲田大学八十年誌』、早稲田大学、昭和37年、191頁)。[本文へ戻る] [58]『学士会月報』第583号に掲載の「学士会創立五十周年記念座談会」での山口鋭之助の発言のなかのもの。昭和11年10月、33頁。[本文へ戻る] [59]明治18年の『学課並諸規則』第23章実地科第6節。[本文へ戻る] [60]『工部大学校第二年報』、93頁。[本文へ戻る] [61]著者はHenry Dyerになっている。国立国会図書館所蔵。このThe Education of Engineers.のなかの「Professional Education」と「Non-Professional Education」には邦訳がある。梅渓昇・山中泰「ヘンリー・ダイエル『技術者の教育』」1—8、『生産と技術』第28巻4号(1976年)—第30巻3号(1978年)。[本文へ戻る] [62]同上、4頁。邦訳なら『生産と技術』第29巻1号、1977年、2頁。[本文へ戻る] [63]同上、5—6頁。邦訳なら前と同じ号の4頁。[本文へ戻る] [64]明治18年の『学課並諸規則』第20章預科第11節。[本文へ戻る] [65]工部省年報の第3・4回に賞品名が出ている。ほとんど書籍で、そのすべてが洋書のよう。[本文へ戻る] [66]『東京大学百年史・通史一』、691頁。[本文へ戻る] [67]次の3冊は明治13年5月卒業(第2回)の安永義章(機械科)に、明治9年3月と11年3月の試験で与えられた本である。表紙裏にそのことを記した工学寮・工部大学校の英文の用紙が貼付されている。ほかにもこの種の本が総合図書館に所蔵されているかどうかは調査していない。 請求番号U200/137、登録番号B64128 John Perry, An Elementarty Treatise on Steam, London: Macmillan and Co. 1874 請求番号U200/138、登録番号B64131 William John Macquorn Rankine, A Manual of the Stream Engine and Other Prime Movers, 7th ed. London: Charles Griffin and Company. 1874 請求番号U200/139、登録番号B64130 William John Macquorn Rankine,A Manual of Machinery and Millwork, 2nd ed. London: Charles Griffin and Company. 1873 また東大土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室)所蔵の次の本は、明治16年の試験での賞品として中山秀三郎に与えられた本である(周郷啓一氏のご教示による)。 請求番号AA/a/30 登録番号T30289 Thomas Alexander, Elemenmtary Applied Mechanics, London: Macmillan and Co. 1880 総合図書館所蔵の3冊も土木工学科図書室(社会基盤工学専攻図書室)所蔵の1冊も、登録番号のつけ方によって、大正12年の関東大震災以後の受け入れ図書であることがわかる。[本文へ戻る] [68]明治11年9月13日、駒場農学校の前期試験での成績優等だった学生に、『ウエブストル英語大辞典』『英和字彙』『タングリソン薬名辞書』『ボルン農書』が賞品として授与されている。安藤圓秀『農学事始め」、東京大学出版会、1964年、246—247頁。[本文へ戻る] [69]北政巳『国際日本を拓いた人々』、同文舘、昭和59年、102頁の註10による。[本文へ戻る] [70]旧事諮問会編『旧事諮問録』下、進士慶幹校注、岩波書店(岩波文庫)、1986年、131頁。[本文へ戻る] [71]隈元謙次郎『近代日本美術の研究』、大蔵省印刷局、昭和39年、35、128頁。工部美術学校については同書と次のものに詳しい。隈元謙次郎『明治初期来朝伊太利亜美術家の研究』、三省堂、昭和15年(復刻版が八潮書店、昭和53年)。[本文へ戻る] [72]国立公文書館の、『公文録』明治10年の工部省の部分にあるものと、内閣文庫のものを参照。[本文へ戻る] [73]青木茂編『フォンタネージと工部美術学校』(『近代の美術」第46号)、至文堂、昭和53年、に掲載のものによる(96—99頁)。[本文へ戻る] [74]たとえば次に収録のもの。青木茂編『明治洋画史料・懐想篇』、中央公論美術出版、昭和60年。[本文へ戻る] [75]「工部省年報」の第3、4回に出ている。[本文へ戻る] [76]明治美術研究学会事務局編『工部美術学校旧蔵図書仮目録』によって知った(同学会発行、昭和61年、全65頁)。[本文へ戻る] [77]『工部省沿革報告』、349頁。工部省「美術」(註[73]の『フォンタネージと工部美術学校』、99頁)。[本文へ戻る] [78]『明治文学全集』第4巻、筑摩書房、昭和44年、186頁。[本文へ戻る] [79]『文部省第三年報』(明治8年)所載のものによる(541—542頁)。『東京帝国大学学術大観、総説・文学部』にも引用されている(153頁)。[本文へ戻る] [80]『旧工部大学校史料』、90頁。[本文へ戻る] [81]『東京大学百年史・資料一』、79頁。『旧工部大学校史料』、55頁。[本文へ戻る] [82]磯野直秀『モースその日その日』、有隣堂、1987年、153、332頁。[本文へ戻る] [83]『明治文学全集』第49巻、筑摩書房、昭和43年、15頁。[本文へ戻る] [84]『工部大学校第二年報』、178—179頁。[本文へ戻る] [85]『文部省第十三年報附録』(明治18年)、472—473頁。[本文へ戻る] [86]『工部大学校第二年報』、178頁。[本文へ戻る] [87]『工部省第三回年報』(自明治10年7月至同11年6月)。[本文へ戻る] [88]工部大学校で教科書として使用されたと思われるコリアーの英文学史が、一高(第一高等中学校?)で(おそらく重複のために)整理され、それを平田禿木と上田敏が(東京)帝大前の古書店で購入したという。禿木の所蔵になった本には工部大学校と一高(第一高等中学校?)の蔵書印、それに「第一高等中学校消印」が押されているという。以上のことは禿木が福原麟太郎(英文学者)に宛てた昭和8年の書簡に書かれている(小川和夫「平田禿木から福原麟太郎への手紙」7、『学鐙』第80巻8号、1983年8月、30—31頁)。[本文へ戻る] [89]『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録 第五巻』、昭和49年、124頁。[本文へ戻る] [90]『東京図書館洋書目録』、明治19年、39頁、および『帝国図書館洋書目録文学及語学』、明治33年、11頁。[本文へ戻る] [91]東京図書館と帝国図書館の洋書目録には、「工部大学校書房書籍目録」という和文のタイトルも出ている。表紙と標題紙の和英の記載の関係は1880年の目録と同じではないかと思われる。[本文へ戻る] [92]『工部大学校第二年報』179頁と180頁の間。[本文へ戻る] [93]卒業論文の題名リストとして次のものがある。 出水力「日本の機械工学の開拓者・井口在屋(1)」、『技術と文明』第1巻1号、1985年、65頁、(機械科)。 高橋雄造・前島正裕・編『工部大学校・帝国大学工科大学、電信学科・電気工学科、明治年間卒業論文及び実習報告リスト』、東京農工大学高橋研究室、1991年。 高橋雄造「エアトンとその周辺・工部大学校お雇い外国人教師についての視点」、『技術と文明」第7巻1号、1991年、15頁、(電信科)。 「東京大学工学部金属工学科所蔵学生実習報告及卒業論文目録・1897年以前」、『九州石炭礦業史資料目録』第11集、秀村選三ほか編、西日本文化協会発行、昭和62年、327頁以降、(冶金科・鉱山科)。 卒業論文ではないが、造家科の卒業生全員の卒業設計の題名と図版が、木葉会編『東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集・明治大正時代』、洪洋社、昭和3年、に掲載されている。ただし造家科の卒業設計の図は一人が一題名で複数枚が現存するが、掲載されているのは一人につき図一枚だけである。 また、東大機械工学科の、工部大学校から明治・大正にわたる卒業論文の内容についての簡単な変遷が、北郷薫「東京大学機械工学科における教育の変遷」(『日本機械学会誌』、第81巻710号、1978年1月、68頁)に述べられており、葉賀七三男「東大採鉱冶金学科学科実習報告書」(『技術と文明』第4巻2号、1988年、45—50頁)には工部大学校をふくむ明治時代の東大採鉱冶金学科の卒業論文・実習報告について述べられている。 なお、前掲の卒業論文の題名リスト中、機械科のものは第1・2回卒業のうち4名のものが空欄になっているので、補足のためここに記させていただくことにする(1880年の書籍目録にも出ている)。 高山直質 Iron Manufacture. 三好晋六郎 Locomotive Engines. 市川(宮崎)航次 Marine Engines. 佐立次郎 Marine Engines.[本文へ戻る] [94]鹽原又策編・発行『高峰博士』、大正15年、17—18頁。[本文へ戻る] [95]大植四郎編『明治過去帳・物故人名辞典』、東京美術、昭和46年、1211頁。富田仁編『海を越えた日本人名事典』、日外アソシエーツ、1985年、264頁。[本文へ戻る] [96]倉沢剛『幕末教育史の研究 3』、吉川弘文館、昭和61年、696頁。[本文へ戻る] [97]同上、679頁。[本文へ戻る] [98]渡辺實『近代日本海外留学生史 上巻』、講談社、昭和52年、254頁。[本文へ戻る] [99]目録の実物は未見だが、東京大学総合図書館のカード目録に「工部大学校博物處/日本物産及器械類目録」のカードがある。[本文へ戻る] [100]これは明治16年のもの。字句の微細な相違にすぎないが、17年と18年は「詳細ノ区分目録アリト雖トモ」である。[本文へ戻る] [101]以下に述べる、蔵書に押されている印と蔵書票は、おもに東大機械系図書室にある工学寮・工部大学校の旧蔵書の洋書によっている。東大機械系図書室にある明治30年以前受け入れの各時期の単行本の冊数(製本雑誌は含まない)については、滝沢正順「明治時代の蔵書のことなど」、『図書館の窓』、第29巻10号、1990年10月、101—102頁。[本文へ戻る] [102]『改訂増補内閣文庫蔵書印譜』、国立公文書館、昭和56年、141、144頁。[本文へ戻る] [103]同上、145頁。[本文へ戻る] [104]同上、144頁。[本文へ戻る] [105]「工部大学校阯」記念塔碑文(あとの註[115]を参照)。宮尾しげを監修『東京名所図会・麹町区之部』、睦書房、昭和44年、115—116頁。[本文へ戻る] [106]ただしこれらの機関がすべて本館と濠に面した建物(博物場)を使用したわけではない。たとえば東京女学館が校舎としたのは工部大学校の生徒館である(東京女学館百年史編集室編『東京女学館史料』、第1集—第5集、昭和54—58年)。[本文へ戻る] [107]『明治工業史・建築篇』、工学会、昭和2年(復刻版が、学術文献普及会、昭和43年)、142頁。[本文へ戻る] [108]例えば版画家の織田一麿が、著書『武蔵野の記録』のなかに収録した素描に、「虎の門旧工部大学跡」(明治40年)と「旧工部大学跡」(大正8年)がある(巻頭図版の第4図と第20図、説明文は383頁)。武蔵野郷土史刊行会、昭和57年(昭和19年の洗林堂版の復刻)。未見だが山下兼秀の油彩画「工部大跡」というのもあるようである(鹿児島市立美術館蔵)。また小説家の志賀直哉の回想に「僕が七つの時、入学した虎の門の学習院が煉瓦づくりで、工部大学のあとだと後に知った」云々とある(「稲村雑談・家のこと」、『志賀直哉全集』第8巻、岩波書店、昭和49年、47頁)。[本文へ戻る] [109]永井威三郎『風樹の年輪』、俳句研究社、昭和43年、80—81頁。後藤純郎「東京書籍館の創立」、『現代の図書館』第13巻2号、1975年、75—76頁。『日本郵船株式会社50年史』昭和10年、772頁。[本文へ戻る] [110]『荷風全集』第13巻、岩波書店、昭和38年、324頁。[本文へ戻る] [111]『建築世界』第17巻第3・4号、大正12年3・4月。[本文へ戻る] [112]同前、3号(3月)、51頁。[本文へ戻る] [113]是澤恭三「工部大学の跡」、『明治村通信』第92号、昭和53年2月、833—834頁。『東京国立博物館百年史』、同館編、第一法規出版、昭和48年、282—283頁。[本文へ戻る] [114]『麹町区史』、東京市麹町区役所、昭和10年、1106—1107頁。『会計検査院百年史』、昭和55年、344頁。[本文へ戻る] [115]「工部大学校阯」記念塔の最初の建設場所は現在の場所とはすこし異なる(日本工学会創立百周年記念事業実行委員会編『我が国工学百年の歩みと展望』、日本工学会、昭和54年、282頁)。註[105]にあげた碑文の全文は次のものに載っている。菊池重郎「工部大学校百年(中)」、『明治村通信』第91号、昭和53年1月、826頁。上田弘之『日本工業の黎明』、国際電信電話株式会社編・発行、昭和56年、258—259頁。[本文へ戻る] |
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