西野嘉章 東京大学総合研究博物館 |
明治3(1870)年10月工部省の山尾庸三の建言を承け鉄道、鉱山、電信、燈台、営繕の諸寮が設けられ諸官庁の体制が固まると、今度はそれらを率いる人材の養成が急務となった。そこで山尾は工部省御用掛の伊藤博文と計り、明治4年4月に工部大学建設の建言書を太政官に提出。この建議は異議無く太政官で認められ、8月には工学寮と測量司が新設された。工学寮は明治9年11月創設の工部美術学校とともに明治10年1月11日の制度改革で工部大学校へ衣替えし、大鳥圭介がその校長に任ぜられた。工学寮時代からすでに6期の入学者があり、工部美術学校から来た女子学生を含め、学生数は約300名を数えた。虎ノ門の校舎[58]が完成したのは3月8日(『讀賈新聞』)。開校式は明治11年7月15日に明治天皇の御臨席を仰いで行われた。午前8時虎ノ門校舎には皇族、大臣、参議、勅任官、外国人教師、生徒が整列し、天皇の着御を待っていた。外国人教師陣を率いたのは土木・機械学の教頭ヘンリー・ダイヤー[59]であり、電信・理学のエアトン、金石地質・鉱山学のミルン、造家学のコンドル、化学のダイバース[60]などの御雇教師に混じって、工部美術学校の画学科教師フォンタネージ、予科教師カペレッティ、彫刻学科教師ラグーザも出席していた。「式場玉座の前面には紅白の御幕を高く掲げ大学校の正面には大小の国旗を数十本建列ね御紋を高く掲げ又小国旗と青黄赤白色々に染分けたる種々の彩旗をいくらともなく掲げ添へられたるが風のまにまに打靡くは芳野竜田の花紅葉を一目に打見る心地せられたり」(『郵便報知新聞』7月16日)という盛大な御迎えのなか、明治天皇は新築なった中央講堂[58−2]の玉座に御着席になり、内務卿参議伊藤博文が大学校規則、新校図面、学校の鑰(やく)(鍵のこと)を捧呈したのを受けて勅語を賜った、「曩(さき)に工部大學校を経營せしめ今工事竣(をは)るを奏す。朕親(みづか)ら臨で開業の典を擧ぐ。朕惟(おも)ふに、百工を勸むるは經世の要にして時務の急なり。自今此校に從學する者黽勉(びんべん)して以て利用厚生の源を開かんことを望む」。ついで天皇より大学校の鑰を下賜された伊藤は答辞を奏上し、さらに大学校長の大鳥圭介、都検のヘンリー・ダイヤーの答辞がそれに続いた。 ダイヤーの纏めた『工学校定則』によると、工学校は小学(school)と大学(college)から成り、予科に当たる前者では基礎学科と工業技術初歩を、後者では土木学、造家学、機械学、電信学、造家実地、化学、溶鋳学、鉱山学の専門教育を行うとされている。この定則の草案にあたっては、スイスのチューリッヒ大学の組織を参考にしたと言われているが、欧米ですら工学が専門教育として確立して間のない時期に工業諸学全般を教える男女共学専門教育機関が国内に誕生したことの意義は少なくない。伊藤の答辞が「百工ヲ勧ムルハ経世ノ務メナリ」と勅語に応えていることからも解る通り、明治政府は西洋の工業技術の習得を時代の緊急課題に掲げていた。虎ノ門校舎に「生徒博物館」が設けられ、「絵図を写す電信の器械、甲鐵艦の雛形、大鳥君の細工をさせた長崎ドックの雛形や、種々の石類其ほか西洋と日本の品を比較したのが並べてあり、又工芸に係はつたものも総て並べてあり、(中略)毎月二三度づゝは誰にでも見せられる」(『讀賣新聞』3月8日付)ようになっていた。明治12(1879)年11月に卒業した第1期卒業生23名のなかの南清(土木学)、三好晋六郎(造船学)、志田林三郎(電信学)、近藤貴蔵(鉱山学)、高峰譲吉(化学)、栗本廉(地質学)、高山直質(機械学)、荒川新一郎(紡績学)、辰野金吾(造家学)、石橋絢彦(燈台学)、小花冬吉(冶金学)らは、卒業後すぐに英国への留学を命じられている。 現在の工学系研究科・工学部には僅かながら工部大学校ゆかりのものが残されている。開校の式典の要となった鑰はもはや見出しがたいが、「勅語」の写しとされるものは工学部長室に代々伝えられてきた[57]。また、今回の調査で「勅語」とともに発見された室内装飾の部材[56]は、豪華な装飾と菊の御紋章のあることから、虎ノ門校舎の式場に仮設された天皇の玉座の天蓋だった可能性もある。また、フランス人建築家ボアンヴィルの設計になる虎ノ門校舎は三階建ての建物であったが、その第一階の外壁を飾っていたと思われる菊紋章のエンブレムもその存在を確認することができた[55]。その他、学内にはフランス製の屋根瓦など建物の残骸がいくつか残されているが、こうした遺物がどのような経路を経て虎ノ門から現在の本郷キャンパスに伝えられたのかは審らかでない。 |
【参考文献】大蔵省編『工部省沿革報告』、大蔵省、明治22年。旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』(附録共2冊)、虎ノ門会、昭和6年。 明治神宮編著『明治天皇詔勅謹解』、講談社、昭和48(1973)年、552—555頁。 瀬尾政夫記『故事片々』、私家版、昭和52年、22—28頁。 |
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