日本近代建築教育の曙


渡辺俊夫 チェルシー美術大学



1 工部大学校造家学科設立


 近代日本建築教育の歴史において、工部大学校造家学科から現在の東京大学工学部建築学科へと続く伝統は、その功罪の評価は兎も角も、非常に重要なポジションを占めてきたということは疑いない。この論文ではその発端における、「御雇」と言われた外国人教師ボアンヴィル(Boinville)とコンドル(Conder)の役割を、未発表資料の紹介を中心として検討していきたい[1]

『東京大学百年史』によれば、明治3(1870)年閏10月20日に工部省が設立された後、翌年8月14日に工学寮が設置され、明治5(1872)年6月に工学校が設立される。翌年7月30日に略則が変更され、その時専門科が七科に定められた中に「造家」と言う学科が含まれていた。そして同年8月12日から15日まで入学者の出願を募ったところ、83名の応募者があり、8月22日に入学試験を行い、甲科生20名(官費生)及び、乙科生20名(通学生)の入学が許可された。曾禰達蔵はこのときの甲科生合格者の1人である。しかし及第者が予定数に満たなかったため、10月1日から3日まで再試験が行われ甲科生+2名が新たに合格した。その中には曾禰とともに造家学科の第1回卒業生となった辰野金吾がいた。しかし明治10(1877)年には工学寮が廃止され、工学校は同年1月11日に工部大学校と改称され、工作局に属することになった。修業年限は6年で明治12(1879)年11月8日に、第1回の卒業生が出た。造家学科卒業生は辰野金吾、片山東熊(以上第一等及第)、曾禰達蔵、佐立七次郎(以上第二等及第)の4名であった[2]。造家学科第1期生には、もう1人宮伝次郎がいたが、卒業の前年に死去した。

 これら造家学科第1期生は明治6年11月に入学し、最初の2年は予科として予備教育に当てられ、後の4年を本科として専門教育を受けるシステムであった。本科も専門科2年、そして実地科2年と分かれていた。曾禰達蔵によれば、入学当時に専門学科を決めていた学生は少なく、多くは3年目になって初めてその学科を選定したという[3]。この頃は予科も本科も教師は英国人で、学課は一切英語で教授されていたという。ただし造家学科は専任の教師がまだ任命されていなかった。このところの事情を曾禰は次のように語っている。

「吾吾建築科(当時は造家学科と称した)の学生は屡々教師の招聘を学校当局者に請求したが、当局者は適当の専任教師なき為め大に困惑し、種々の方法を講じて、建築科の学生を慰撫し甚不十分ながら建築専門学科教授の時間には建築実地家の外人をして教師の代をなさしめた」[曾禰1920、330頁]。

つまりこれらの外人教師達は、苦肉の策として、当時すでに別の理由で雇われていた「御雇」外国人の中から選ばれたという。

 明治3(1870)年3月出版の『御雇外国人一覧』によれば工学寮には2人の英国人「シェームス、マークス」(James Marks)及び「ウヰルリヤム、アンデルソン」(William Anderson)が記載されている。ただし「職務」の項は空欄となっている。これに対して土木寮には「ウヲートルス」が挙げられているがこれには職務の欄には、きちんと「建築」と入っている[4]。これは前者2名は建築家として雇われたのではないということであろうか。『資料御雇外国人』によれば、アンダーソンは明治5年1月28日から雇われており、職種は大工科造家棟梁となっておりarchitect/engineerというよりはbuilder/carpenterといわれるべき人のようである[5]。マークスに関してはあれだけ詳しい『資料御雇外国人』には記載が無い。

 もう1人初期の建築教師にイタリア人であり、遊就館を建てたことで知られているジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelleti)がいる。『資料御雇外国人』によれば、明治9(1876)年8月29日に来朝となっている。しかし清水慶一によれば、彼が造家学生を教えたという記録は見いだせないという[6]


2 ボアンヴィル


 造家学科最初期における最も知られた教師はボアンヴィルである。この人のことは長らく詳細がはっきりしなかったが、小野木重勝及び宍戸實の研究によってこれはチャールズ・アルフレッド・シャステル・デ・ボアンヴィル(Charles Alfred Chastel de Boinville)であることが判った[7]。宍戸は明治7(1874)5月30日付のJapan Weekly Mailの結婚欄に次のような報道があるのを発見した。

CHASTEL DE BOINVILLE-Cown. On the 23rd instant, at the French Consulate, and afterwards at HBM's Legation, Yokohama, in the presence of Sir Harry S. Parks, by the Revd. William W. Parry of H.M.S. Iron Duke, CHARLES ALFRED, eldest son of Revd. C.A. CHASTEL DE BOINVILLE of Kingston on Thames, to AGNES, Youngest daughter of W. COWAN Esq., Banker Ayr.[宍戸1995、22—23頁]

 宍戸は更にボアンヴィルが特に夫人と同系のスコットランドの人々との交際が深いことを立証している。

 ところがこのボアンヴィルは実は後にはイギリスの王立建築家協会の準会員にまでなっているのである[8]。果たして王立建築家協会図書館にはボアンヴィルの準会員になるためのノミネーション・ぺーパーが保存されていた。これによれば彼は1881年から82年にかけて、ロンドンの2 Westminster Chambers, Victoria Street, S.W.及びロンドン郊外のIvedon Cottage, Springfield Road, Kingston-upon-Thamesの2つの住所を挙げている。いかなる専門教育を受けたかという欄には簡単にその概要を記している。1862年にフランスでA・ギュヨーについて建築を学び始め、1866年から68年にかけてシェルブール市建築官であったジュフロワの許で修業している。1868年から70年7月にかけてパリで2つの建築事務所に所属し、1871年から72年にかけてはグラスゴーで、ここでもやはり2つの建築事務所に所属していた。そして最後に1872年10月7日にBoard of Public Works of Japanのアーキテクトに任命され、81年までその職にあったと誇らしげに記している。推薦者はキャンベル・ダグラス(Campbell Douglas)、ウイリアム・H・ホワイト(William H. White)及びジェームズ・ピエルス・セント・オーバン(James Piers St Aubyn)である。この書類は1881年10月4日に提出され、同年8月10日に許可され、翌年1月9日には準会員に選ばれている。なおこれと全く同じ日付でもう1人ウイリアム・シャステル・デ・ボアンヴィル(William Chastel de Boinville)という人が準会員になっている。この人はチャールズ・アルフレッドと同じキングストンの住所なので、兄弟であろう。

 王立建築家協会図書館での調査によって、更にボアンヴィルの死亡記事を見つけることができた。これは『王立建築家協会雑誌』(Journal of the Royal Institute of British Architects)の第4巻(1897年、359—360頁)にでている。執筆者は上記推薦者のグラスゴーの建築家キャンベル・ダグラスであった。既に触れられていない情報を中心として検討してみよう。

 祖先はフランスのロレーヌ地方の貴族で領地の名ボアンヴィルをとって名字とした。彼の曾祖父ジャン・バティスト・デ・ボアンヴィル(Jean Baptiste de Boinville)はラファイエット(Lafayette)の近臣となり、フランス革命勃発の折り、王と王妃がヴェルサイユからパリに向かった時、馬車の片方にはラファイエットが護衛につき、もう片方にはデ・ボアンヴィルがついていたという。ジャン・バティストは革命のため領地を失い、1812年にはロシア遠征で命を落としている。チャールズ・アルフレッドは父が牧師をしていたリズィヨー(Lisieux)で1850年3月に生まれた。木来はシャルルと発音すべきであろうが、日本やイギリスではチャールズと呼ばれていたとしてもおかしくない。日常ではアルフレッドと呼ばれていたようである[9]。何年か経ってから旧領に近いロレーヌのバル・デュックに、そして更にシェルブールヘと移って行く。パリで、後に王立建築家協会の事務局長(Secretary)となったウイリアム・H・ホワイトの建築事務所に入る。このホワイトはボアンヴィルのノミネーション・ぺーパーには推薦者として及び事務局長として2回サインしている。

 フランスとプロイセンの戦争が勃発するとフランス側の将校として参戦する。愛国心に燃えたボワンヴィルはかなりの艱難辛苦にも耐え抜いたという。敗戦とともにグラスゴーへ移り、キャンベル・ダグラスの建築事務所に入る。ダグラスはボアンヴィルの父を知っている知人のつてで、我が家に訪ねてきたと言っている。ここには約1年半いた。

 キャンベルは当時工部省「御雇」測量師であったコリン・アレクサンダ・マクヴィーン(Colin Alexander MacVean)の友人であり、彼の要望で日本へ送る備品、建築材料などを調達していた。マクヴィーンは更に、頭の回転が早く腕のたつ、建築図面をひくことに長じた者を送ってくれるようにと要請してきた。これは日本側の史料(工部省伺、明治5年3月12日)とも照合する[10]。そこでダグラスはボアンヴィルを日本へ送るのである。ここには工部省におけるグラスゴー・マフィアとさえ言い得るような、スコットランドと日本の緊密なネットワークを改めて確認することができる。ボアンヴィルはこのネットワークの一員であった。ただボアンヴィルをイギリス人とするのは正しくないであろう。フランス人であり、日本で結婚した時もまずフランス領事館に行っている。母方は、しかし、3世代にわたってイギリス人であったという。

 ダグラスによれば彼は1872年12月に日本に着き、マクヴィーンの元でしばらく働いていたが、1874年に測量関係の仕事が工部省から内務省地理寮に移され、またPublic Works Departmentの司が必要となった時に、ボアンヴィルが充分な建築教育を受けていたということによってこの職に任命されたという。日本側の史料では、測量司は明治5(1872)年11月16日より3カ年、明治8(1875)年12月15日満期である。この始まりの1カ月のズレは日本の記録がまだ太陰暦を使っていたからである。東京には明治5年11月17日に入っている。そして明治8年12月12日から営繕局にうつっている[11]。ダグラスの言うのとは1年のズレがある。ボアンヴィルが司であったとダグラスにあるのは日本側の文献でははっきりしない。しかし、この間の事情は、なぜ工部大学校本館のような本格的な建築をものにすることのできる建築家が突然日本に現れたかという疑問の答えを出してくれている。彼は最初は建築家としてではなく、測量司の仕事のために雇われたのだった。

 ダグラスは、彼はこの職に8年から9年の間ついていたという。しかし、澤護の研究でボアンヴィル一家は1881年1月21日イギリスヘ向かう「プライアム」号(1572トン)ニ乗って日本を離れたということが判った[12]。ボアンヴィル解雇の理由をダグラスは、単に「御雇」外国人は必要がなくなるに従って徐々に解雇されていったとしか言っていない。大筋では確かにそうなのであろうが、建設中だった皇居謁見所に地震の被害があったことはボアンヴィルにとってかなりの痛手であったはずである。ダグラスはマクヴィーンの言として、工部大学校関係の建築及び新しい皇居の建築をボアンヴィルの日本における最も重要な仕事としており、すべての仕事において彼は政府に最大限の満足を与えていたという。マクヴィーンは、皇居プロジェクトがうまくいかなかったことを知っているはずである。しかしこれはだいぶ後になってから書かれた死亡記事であるから、知っていてもそのようなネガティヴなことは言うはずもないだろう。

 解雇の理由としては、後から任命されたコンドルが来たためとも考えられるが、これについては、まだはっきりしていないことが多い。約4年の間、共に工部省の「御雇」建築家だったわけで、月給だけからみれば、コンドルは明治10(1877)年には333円33銭12厘で明治13年10月になって、やっと350円になるのであったが、ボアンヴィルは明治10年には既に350円で、明治9年9月より皇居建築中は更に100円の増給を受けたりしている。また紙幣寮建築では125円の月給を受けている[13]。本来はこういった任務は給与に含まれているもので、こういった個々のプロジェクトに対する増給はコンドルの場合見られないようである[14]。こうして見るとボアンヴィルの方が、政府の建築家としてはコンドルよりも優遇されていたようにも見える。しかし、史料はまだまだ不十分であり、最終的な結論を出す段階にはまだ至っていない。


3 教育者としてのボアンヴィル


 これに対して教育者としての評価は、完全にコンドルの方に軍配が上がっているようだ。既に見てきたようにボアンヴィルは教師として日本に呼ばれて来たわけではない。曾禰の言うように、「建築実地家の外人をして教師の代をなさしめた」のである。曾禰は更に言葉を続ける。

「其の一人は当時工部省の傭技師であった仏蘭西の建築士デボアンビルと云ふ人であった、此の人は全く技師として工務省に傭はれた人で、大分設計した建物もある、……漸くして得た此の建築教師は建築学の講義をしなかった、英語も亦達者ではなかった様であった、同氏の建築学教授は全く一時の間に合せであって、図面を写さしたり、クラシックオーダーを書籍より取って拡大したる図面としたり、又は実地見学として当時建築中の千住製絨所を視察したり、印刷局の建設現場を参観したり、其局部を写生したりして居った、又氏は時々説明を与へ、又問題を作りて学生に答案を出さしめた」[曾禰1920、330頁]。

 こうしてみるとボアンヴィルは、アカデミックな大学教育というよりは当時西欧の建築事務所等で行われていた徒弟制度的教育を施そうとしていたように思われる。こういう場合は、かなり若い頃から入り、事務所の実地に即した教育が行われる。雑用もさせられるし、そうかと思えば建築現場の仕事も手伝う。建築の過程を直に体験できるものの、教育は断片的にならざるを得ない。ボアンヴィル自身もそうした教育を受けてきたはずである。ボアンヴィルのこういった教育法が必ずしも彼が教師として無能だったからと言えないのは、もう一人別な臨時教師が全く同じ教え方をしていることで判る。

「デボアンビル氏の前であったか後であった乎今判然と記憶せぬが、工部省は其傭技師ダイアックと云う人をも教授代りに学校へよこした、氏は建築の構造には明るかったが、美術家ではなく、年齢も余程高く実地から進んだ人かとおもはれた。……此の人も亦講義をなさず、図面を写させ、或は建築の実測図を作らせた位であった」[曾禰1920、330—331頁]。

 これはイギリス人ジョン・ダイアック(John Diack)で明治3(1870)年にまず鉄道寮に雇われ営繕局でも働いた技師である。こうした教育方法は系統的に秩序だった教え方をしないために、16歳の徒弟ならば兎も角、20歳をすぎた学生達にとっては物足りなかった。曾禰は言う。

「斯くの如く吾吾は或る可なり永き期間専門の建築学に就て少しも秩序的な教授を受けることが出来ず、心中甚だ不満に堪えず、専任教師の着任を熱望して止まなかったのである」[曾禰1920、331頁]。

 実際には曾禰は教育方法だけではなく、教師の人格についても不満を表明している。上記の引用と同じ箇所で、「工部大学校の教授の英人中には不遜傲慢な人もあった」と言い、コンドルを誉める時に、「前二者に比して遣かに品位の高い新進気鋭の紳士」と言っている。「英人」と言っているので、ボアンヴィルには当てはまらないとも言えるかもしれないが、事実「不遜傲慢」な教師であった可能性は高い。宍戸は当時日本で生活していたクララ・ホイットニーの日記『クララの明治日記』[15]にボアンヴィル一家のことが散見されることを指摘している。小野木も引用しているが、ホイットニーは1878(明治11)年12月7日の日記には次のようにボアンヴィル家の様子を描写している[16]

「私はド・ボワンヴィル夫人の家に泊めていただいている。……ド・ボワンヴィル家はとても楽しくご主人の冗談や奇行に私は大笑いする。彼は外見も態度もまるで少年のようで、スコットランドの唯一の名産は元気な少年たちであるなどと言われる。彼はフランスをほめ称え、それ以外の国はことごとくけなされる。特に嫌悪を覚えられるのが日本とスコットランドである。これらの国に対する悪口は相当にひどいものだ。思慮深くてやさしい奥様とは大違いだが、それでも私はご主人も嫌いではない」[ホイットニー1676、51頁]。

 日本とスコットランドはどちらもボアンヴィルの仕事の場となった、彼にとって重要な場所であったに違いないのだが、彼はそのどちらに対してもカルチャー・ショックを起こしていた可能性がある。思慮深くもなく、やさしくもなく、奇行に満ち、少年のようで、日本に嫌悪を覚え、そのひどい悪口を言うとなると、どうも散々な人物描写になってしまうのだが、これでは学生に人気がなかったというのもしかたがない。これに対して先の死亡記事では、彼の性格のポジティヴな面が強調されている。マクヴィーンは「he never heard any one speak evil of him; and ... he was always genial, kindly, and a gentleman.」と言い、ダグラスは次のように言う。

His personality was characteristic, uniting the nobility of appearance, the courtesy, refinement, charm, and gracious liveliness of demeanour inherited from his French ancestry, with the generous self-forgetfulness, high probity, and conscientious adherence to duty derived from the maternal side[Douglas, 1897, pp.359,360]

 ダグラスによれば、彼は日本を去った後、短期間パートナーを得、建築事務所を開くがうまくいかず、英国政府関係の建築の仕事をするようになる(H.M.Office of Works in Whitehall Place)。ここで彼はブリュッセル、パリ、リスボン等の大使館へ派遣され、そこで重要な仕事をしたという。これが成功したためか、彼はインド庁主任建築官(Surveyor to the India Office)に任命される。ロンドンにあるインド庁の建物の上部の建て増しを担当したが、この際に彼が見せた科学的、構造的知識及びビジネス能力をダグラスは高くかっている。そして1897年4月25日に亡くなったと結んでいる。


4 教育者としてのコンドル


「日本近代建築の父」とも呼ばれているジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に関しては今年5月東京ステーションギャラリーで展覧会が開かれ、そのカタログはコンドルの業績について最新の詳しい情報を提供している[17]。コンドルの建築家としての経歴はそれに譲るとして、ここでは教育者としてのコンドルに関していくつか問題点を検討したい[18]

 彼は1876年10月18日ロンドンにおいて日本に来る契約を結ぶ。これは1877年1月28日から5年間「日本帝国内閣工部省に雇はれ仝時に工部大学校教頭を兼ね且内匠寮に勤仕す」というものである[19]。教授満期の後、明治15(1882)年から17(1884)年まで教え、明治19(1886)年から21(1888)年まで非常勤講師として教えた[20]。このコンドルの教授就任は日本の建築教育にとって画期的なものであった。彼は組織的な教育方法を導入し、人格的にもこれまで不満を表明してきた学生たちを十二分に満足させるものだった。よく知られている引用ではあるが、もう一度曾禰達蔵に登場してもらおう。

「ところが専門学期に入った翌年即明治11年1月コンドル先生が英国から遙々来任された、その時の吾吾建築科学生の喜びは非常なものであった。コンドル先生はロンドンの中央に生れ育たれたので、言語が寔(まこと)に明瞭で解釈し易く、而かも前二者に比し遙かに品位の高い新進気鋭の紳士であったのはなによりも喜びに堪えなかった。工部大学校の教授の英人中には不遜傲慢な人もあったが、コンドル先生は温順にして懇切であったので実に嬉しかった。先生は建築の歴史も建築の構造も製図も何もかも独りで担当された。間もなく半年後には三人の二期生が進級し、次いで翌年には三期生が進級するに至っても尚依然一人で教授せられてあった。夫れで終日学校に居って熱心に教授の任務を完ふされたが尚其の外に写生を教へられた、而して毎週土曜日には校外写生を課せられても先生自ら指導せられた、時には二重橋、上野公園、芝公園、亀井戸等へ出掛けて建物又は建物の局部をスケッチして其れに対する論文を書かせられた。先生の精力は実に旺盛であって先生来校以前の吾吾の不平は之が為め全然消滅した」[曾禰1920、331頁]。

 この引用はコンドルによって一新された造家学科の雰囲気をよく伝えている。大正9(1920)年『建築雑誌」403号の「コンドル追悼号」には曾禰の他にも「諸家の追憶」が寄せられているが、横河民輔がその中で学生時代に経験したコンドルの人となりに触れている。

「コンドル博士は英国の紳士に通用な傲腹な点のない、英国紳士の有つ美点のみを備へられた円満な、少しもプラウドのない気質の人であって、充分日本を理解した人であったので其の性行上に特別な変わった、目立ったことも奇抜な行為もない人であった」[『建築雑誌』403号、337頁]。

 なお、ここで辰野金吾が寄稿していないのは、彼が既にコンドルに先だって他界しているからである。


5 コンドルの学生に対するコメント


 実際の教育内容については、小野木や清水が既に検討しており、ここでは詳しくは触れない[21]。ただ前任者たちと根本的に違うのは、実地の訓練を与えるだけではなく、建築の歴史と理論に重点を置いていることであろう。特に建築を美術と捉えていることは重要である。今年の『コンドル』展カタログには興味深い資料がでていた。コンドルの建築学科試験問題である[22]。 この時点で学生たちは、よくこれだけのものをこなせたと思う。ここにも見えるのだが、資料としては知られていたものの、いままであまり顧みられていなかったものに、学生の成績、評価に関するコンドルの書き込みのコメントがある。建築様式の試験問題の下左側に鉛筆で点数が入っている。最低点はY.Miharaの30点、次の47点は山崎定信、よく解読できない名の学生が55点、宗兵衛が64点、M.Kamozawa(?)が74点、岡本太郎が75点、そして横河民輔がなんと80点である。

 第1期生4人の卒業論文にはすべてにコンドルのコメントが最後のところに入っている。これはいままで出版されていなかったので、ここで検討してみよう。まず曾禰達蔵が一番誉められている。コンドルが何をもっとも高く評価したかが判って興味深い。美と様式の問題を重要視している。ただ事実を並べるだけではなく、学生が結論を出そうとすることを奨励している。

Essay evidently prepared with the greatest care and consideration. All practical points and also artistic considerations leading to the suggestion of a new style for Japan are well considered and some of the conclusions arrived at very creditable. The writer has also gone carefully in to the subject of the early origin of Architecture in Japan. The order + arrangement of the essay is good; the composition ambiguous in parts.

 次は辰野金吾である。英語は片山ほど出来ないし、理論は今一歩、しかしプラクティカルな面はとても良いとしている。曾爾とアレンジメントが似ていると言っているが、これはどういうことであろうか。曾爾のほうには、辰野と似ているとは言っていない。単に読んだ順番からそうなったか、あるいはコンドルがこの長所は元々は曾爾のもので、辰野がそれに倣ったという意味を含ませているというのは考え過ぎか。

Arrangement of essay very good; very similar to that of Mr Sone. Some points such as the consideration of earthquakes are gone into mathematically with much care + skill. The writer considers the point of Style or ornamentation for the future but arrives at no definite results or suggestions. The practical portion is very full and complete + many of the suggestions on these points are excellent. Composition moderately good.

 まず片山東熊はきちんと課題に答えていないと言われてしまっている。これに関しては藤森照信が片山はバックに山県有朋がついており、コンドルに頼る必要がなかったためではないかと指摘している[23]

Essay written in excellent English and in a very good style of arrangement. The writer has however neglected many important points noticed by other essayists and has arrived at no very clear suggestions for improvement or change in the future. General points of construction aspect + sanitary matters are considered — but the essay is more upon building generally than upon the particular subject under notice.

 一番惨めなのは佐立七次郎である。しかし、何を書かなければならなかったかをコンドルが一つ一つ挙げているため、ここでもコンドルが何を重要視し、何を学生から期待していたかが判って面白い。

This essay though showing a good amount of information contains much matter not relating directly to the subject e.g. a history of the European Styles of architecture + also a short Japanese history, also lengthy remarks upon the training of an architect. On this account the writer fails to deal so fully as others upon the important points such as aspect, construction; climate, earthquakes + practical points which much influence the future architecture of the country. The essay is not so good in arrangement nor in composition as some of the others.

 こうして見ると教師としてのコンドルの特徴が浮かんでくる。真面目に一つ一つの論文に対処しており、必ず長所と欠点の両方を述べ、良い所はどこが良いのか、そして悪い所はどこが悪いのかをはっきりと示している。内容だけではなく、英語力、論文の書き方についてまで、長くはないがバランスのとれたコメントをしている。

 もう一ついままで未発表のものに、卒業作品の図面の上に直接書かれたコンドルのコメントがある。これの図面の一部は今年のコンドル展に出品され、カタログにも図版が載っているが、コンドルのコメントは採録されておらず、図版でもあるのは判るが、判読は小さすぎて無理であるので、一部をここで紹介したい。

[第1期生]
辰野金吾:Design rather heavy looking and dumpy but not too low for the Country if proportion had been a little lighter Drawing good Plan pretty good.
片山東熊:Design + Drawing Excellent Plan good but some rooms rather too small.
曾禰達蔵:Design rather poor dome too low + dumpy Drawing medium Plan bad.
佐立七次郎:Design rather poor Drawing rather poor Plan good but some rooms too dark.

[第3期生]
坂本復経:Good composition and proportion but scarecely suggestion of a Club House in general style and arrangements.
久留正道:Ornament too elaborated and bizzare but decoration well and carefully drawn, construction good.
小原益知:Good design for the style selected. More suggestion of a large mansion than a club Drawing very good but not quite sufficiently bold.

 ここでは片山が誉められており、無惨なのは曾禰である。曾禰とはうまがあっていたはずであり、逆に片山とはそうではなかったらしいのだが、コンドルはあくまで公平に良いものは良い、悪いものは悪いと言っている。


[コンドル関係新資料 一]


 ここでコンドルに関係する資料でいままでその存在の知られていなかったもの3点を紹介したい。

 まず第一はこれも工部大学校で教えていた「御雇」外国人教師ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)が制作したコンドルの妻くめの胸像である[挿図1]。これは現在デンマークのコペンハーゲンにある国立博物館極東部にあるのを見つけることができた[24]。これは塑像であり、漆塗りの台が付いている。これはジークフリート・ワーグナー(Siegfried Wagner)という彫刻家を通して、コンドルの娘ヘレン・グルートが所有していたものが寄贈されたものである。これに酷似するブロンズ胸像が東京芸術大学芸術資料館に保存されているが、そこではモデルの名は明らかにされていない[25]。この2点の作品の関係については更に研究を要する。「御雇」教師どうしの間の、しかもイギリス圏を離れた交流を示す資料としても興味深い。



[コンドル関係新資料 二]


 ロンドンの王立建築家協会での調査で、この度コンドル初期の手紙類を確認することができた。コンドルのものは2通あり、第一のは1876年10月13日付、第二は1878年1月28日付である。第二の手紙は東京から出している。いずれも王立建築家協会宛で、ソーン賞受賞によって得たヨーロッパ旅行のためと限られている奨学金を、工部大学校教授就任になったため、イタリアを経て日本へ行く旅費に当てることの許可を求めている。更にこれをサポートするトマス・ロジャー・スミス(Thomas Roger Smith)及びウイリアム・バージェス(William Burges)の推薦状も見つかった。2人ともコンドルを教えた人たちである。


[コンドル関係新資料 三]


 第三の新資料はコンドルの祖父の伝記である。著者はユースタス・R・コンダー(Eustace R. Conder)、タイトルはJosiah Conder: A Memoirで、1857年にロンドンのジョン・スノウ社から出版されている。ロンドンの大英図書館で読むことができた。コンドル、彼の父、祖父、皆ジョサイアと呼ばれた。この調査の過程で試しに人名辞典としては最も権威のあるDictionary of National Biographyをひもといてみたところ、なんとジョサイア一世のエントリーはあった。迂闊にもいままで私を含めて誰もDNBをチェックしなかったのである。因みに三世のほうは残念ながら出ていない。つまりイギリスでは一世のほうが知名度が高かったのである。

 これによれば、彼は1789年に生まれ1855年に亡くなっている。今まで遺族の情報ではこの没年が判らなかったので、インフォメーションのギャップをこれで一つ埋めることができた。職業は本屋及び著者となっている。ロンドンの本屋の息子として生まれ、1802年から父の店を手伝った。1806年頃から雑誌に詩を発表するようになる。1811年から19年まで自ら本屋を経営し、1814年から37年まで『エクレクティック・レヴィユー』(Eclectic Review)を、そして1832年から55年まで『愛国者』(Patriot)という雑誌を編集した。これらはプロテスタントのノンコンフォーミスト系の雑誌であった。また1825年から29年にかけて「モダン・トラヴェラー」(Modern Traveller)というシリーズを30冊出版した。他にも詩集、エッセイ、宗教関係の出版物を出したという。

 伝記のほうは長いものでここで詳しく分析する余裕はないが、要点のみとりあげてみよう。家系に関してはジョサイア一世から六代さかのぼれるという。コンドル家は北イングランドに由来し、ヨークシャー地方とランカシャー地方に見られる名である。後者にある小さな川の名前からとられたのかもしれないとこの本の著者は推測している。ジェームス一世からチャールズ一世に変わる頃、リーズ市の近辺から一櫻千金を求めて南下してきた。この兄弟のうちリチャードはコンドル一世の曾祖父の父であった。その息子もリチャードといい、またその息子はジョンという。ジョンの息子がジョサイア一世の父トマスである。このトマスは地図版画師としての修業を積んだという。特に蝶や虫の絵を描くのが得意だった。しかしそのうち本屋を経営するようになる。そしてその店をジョサイア一世が継ぐのである。彼はかなりな文化人である。賛美歌の詩を書いたり、インドの歴史について書いたり、幅が広い。彼の家は、非常に敬慶ではあるが、文化的な雰囲気に包まれた中流家庭であったといえる。家庭における文化的環境はジョサイア三世の代まで続いて再び花開くことになる。



【注】

[1]この論文を書くにあたって藤森照信氏、及び鈴木博之氏にご教示いただいた。両氏に感謝したい。[本文へ戻る]

[2]ここにあげたデータは、東京大学百年史編集委員会編『束京大学百年史(工学部)』(部局史三抜刷)、東京大学、1987年、108—109頁による。[本文へ戻る]

[3]曾禰達蔵「コンドル先生表彰余滴」、『建築雑誌』第403号、1920年、330頁。第1期生の経験について最も詳しい。[本文へ戻る]

[4]この小型折本は中外堂から出版され、明治文化研究会編『外国篇』(『明治文化全集」第7巻)第3版(第1版1928年)、日本評論社、1968年、347—362頁に取録されている。[本文へ戻る]

[5]ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料御雇外国人』、小学館、1975年、214頁。なおこの人物は医師としてやとわれた同名の「御雇」英国人とは別人である。[本文へ戻る]

[6]清水慶一「建築学概説」ジョサイア・コンドル述、『建築史学』第4号、1985年、110頁。[本文へ戻る]

[7]小野木重勝『様式の礎』(『日本の建築[明治大正昭和]第2巻』)、三省堂、1879年、101—102頁。宍戸貫「日本聖公会の建築研究、1 東京・聖アンデレ教会」、『嘉悦女子短期大学研究論集』第28巻第1号、1985年。本来はシャステル、シャステル・ド・ボアンヴィルあるいはド・ボアンヴィルと呼ぶべきだがここでは慣例に従ってボアンヴィルとする。[本文へ戻る]

[8]ボアンヴィルと王立建築家協会とのコネクションについては、藤森照信氏及び泉田英雄氏にご教示いただいた。両氏に感謝したい。[本文へ戻る]

[9]クララ・ホイットニー(一又民子訳)『クララの明治日記』2巻、講談社、1976年、98頁。[本文へ戻る]

[10]ユネスコ、前掲書、423頁。[本文へ戻る]

[11]別の史料では13日から営繕寮にはいったとなっている。ユネスコ、前掲書、337頁。[本文へ戻る]

[12]澤護『お雇いフランス人の研究』、敬愛大学経済文化研究所、1992年、287頁。澤は夫人と1人の子供しか確認できないが、ボアンヴィルともう1人の子供も共に出国したと考えたいとしているのは妥当であろう。[本文へ戻る]

[13]ユネスコ、前掲書、280頁、337頁。[本文へ戻る]

[14]『鹿鴫館の建築家ジョサイア・コンドル』展カタログ、東京ステーションギャラリー、1997年、29頁。[本文へ戻る]

[15]宍戸、前掲書、23頁。[本文へ戻る]

[16]小野木、前掲書、102頁。[本文へ戻る]

[17]Conderの表記は本来は「コンダー」とすべきであるが、ここでは、いままでの建築史の慣例に従って「コンドル」とする。当時日常では「コンデルさん」と呼ばれていた。[本文へ戻る]

[18]いままでの文献では小野木、前掲書、101—106頁、及び清水、前掲書がコンドルの建築教育に詳しい。[本文へ戻る]

[19]ユネスコ、前掲書、280頁、及び「ジョシア、コンドル氏仕官略歴」、『建築雑誌』第164号、1900年、264頁。[本文へ戻る]

[20]東京大学百年史、前掲書、130頁、及び小野木、前掲書、105頁。[本文へ戻る]

[21]小野木、前掲書、101—106頁。[本文へ戻る]

[22]『コンドル』展、前掲書、171頁。[本文へ戻る]

[23]『鹿鳴館の夢。建築家コンドルと絵師暁斎』(「INAX BOOKLET」第10巻3号)、INAX、1991年、69頁。[本文へ戻る]

[24]調査にあたってデンマーク国立博物館ジョーン・ホーンビー(Joan Hornby)博士にお世話になった。お礼申し上げたい。[本文へ戻る]

[25]調査にあたって東京芸術大学の佐藤道信氏及び薩摩雅登氏にお世話になった。両氏にお礼申し上げたい。 [本文へ戻る]


【参考文献】

Conder, E.R. Josiah Copnder: A memoir. John Snow, 1857.
Douglas, C. The late Charles Alfred Chastel de Boinville. Journal of the Royal Institute of British Architects, 1897. 4, pp.359—360.
宍戸貫「日本聖公会の建築研究、1 東京・聖アンデレ教会」、『嘉悦女子短期大学研究論集』第28巻第1号、1985年、13—28頁。
曾禰達蔵「コンドル先生表彰余滴」、『建築雑誌』第403号、1920年、330—333頁。
ホイットニー、クララ、一又民子訳『クララの明治日記』2巻、講談社、1976年。



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