図1.「古物会」引札(国立国会図書館) |
明治17年(1884)、東京市本郷区内(現、文京区弥生)における弥生土器発見から数えて、平成16年(2004)はちょうど120 年目に当たる。これを記念して、文京ふるさと歴史館では、「弥生土器発見120周年記念 文京むかしむかし」展を開催する。本展では、第一部で近世後期から近代における考古学史を、第二部で弥生町遺跡の発見・発掘史を、第三部で南関東地域の弥生時代の遺跡を展示する。以下では、東京大学所蔵資料を中心に構成した、第一部の展示概要を紹介する。
日本の考古学史は、E.S.モースの大森貝塚発見から語られることが多い。しかし、モース以前にも近世後期から古物愛好という形態で、好事家たちの集まり、「好古」の会が盛んに行われていたことに注目したい。国学者屋代弘賢や戯作者曲亭馬琴らが参加した「耽奇会」、あるいは木村蒹葭堂や司馬江漢らをゲストとして迎えた「以文会」などは、その会の代表的なものである。こうした会の場で採り上げられる題材は、遺物や遺跡に限定したわけではなく、古いものなら何でも —例えば慶長年間(1596‐1615)の桝、大津絵など—各自持ち寄り、批評し合うことが繰り返し行われ、そこには、美術・民俗学・歴史学・文学・科学、様々な分野が包含されていた。
あるいは、『曲玉問答』『雲根志』を著し、これらの著作において石器・石斧等考古遺物に綿密な分析を加えていることから、考古学の鼻祖といわれる木内石亭(1724‐1808)の場合でも「会」は重要な要素であった。「弄石社」を結成し、社友が出品する石の品評会「奇石会」を定期的に開催していた。石のコレクターでもある彼は、自らが住む東海道沿いの近江山田(現、滋賀県草津市)を旅する人々に、コレクションを惜しむことなく公開し、石の話に興じていた。このような収集・公開の活動は、いわば博物館の前身であり、学会の前身なのである。
図2.蒐古舎(埼玉県大里郡冑山根岸家) |
近世後期において「会」という形態で保たれたネットワークは、明治維新を迎えても、ほとんど変わることなく行われていた。明治12年の「古物会」の引札(チラシ)には、コレクターとして著名な柏木探古(貨一郎)や、『考古説略』の著者、H.シーボルトの名が認められる。この引札は、近世後期から開始された書画会の引札と形式上では何ら変わる点はない。
明治10年代後半、「東京人類学会」「好古社」がほぼ同時期に創立され、遅れて29年に「集古会」が結成された。これらの会は、機関誌を発行し、遺物・遺跡を研究する現在の考古学に近い論考も多く発表されるようになる。しかし、一方で、江戸文人の蔵書印譜、江戸の商標など近世後期の「会」と変わらない、種々雑駁な話題も遺跡報告と同列に扱われ、同じように「考古学」と称した点は、一般には知られていない事実である。
埼玉の豪農で、「集古会」初代会長である、根岸武香(1839‐1902)は、湯島(文京区)に構えた別荘を本拠に「集古会」業務を執り行った。根岸は、会を催すだけでは飽きたらず、自宅(大里郡冑山)に「蒐古舎」という簡易展示室をしつらえ、見学に来た人々に公開していた。その展示方法は、細長い部屋に、土器片を板に針金や紐で括りつけ、埴輪を柱に固定するというものであった。
図3.「太古」の額(南谷寺) |
私は、この展示方法を見て、南谷寺(通称目赤不動、文京区本駒込一丁目)の「太古」の額を想起した。これは、動坂遺跡(文京区)から出土した縄文土器に、「東京人類学会」の創立者の一人、坪井正五郎(1863‐1913)が鑑定を加え、本駒込(文京区)に住んでいた、池之端の薬種店主・守田治兵衛(宝丹)が文字を記したものである。いわゆる「宝丹流」という独特の書体で記されたこの扁額は、明治26年に目赤不動堂に奉納後、不特定多数の人々の目にさらされ、公開という博物館展示に近い役割を果たしたと考えられる。
明治18年、坪井正五郎と、彼の同窓であり後にコロボックル論争を繰り広げることになる、植物分類学者・白井光太郎(1863‐1932)は、埼玉の根岸武香を訪ね、その足で吉見百穴の見学を果たす。このように遺跡踏査を日常としていた、若き日の坪井・白井とともに、弥生町における
図4.坪井正五郎肖像 (長原孝太郎作、総合研究博物館人類先史部門) |
図5.坪井正五郎から森潤三郎宛葉書 (文京区立鴎外記念本郷図書館) |
土器発見をなしたのが、5歳年少の有坂蔵(1868‐1941)であった。彼ら3名の人物像を探ることで、明治期の裾野の広い考古学の特徴が浮かび上がってくる。 坪井の関心は多岐にわたり、その一端は、森外の弟・潤三郎宛の葉書にも現れている。「青蛙会」なるもののイメージキャラクターとして、エジプトのヒエログリフに見立てて蛙を配置した図を描いている。このほか絵暦に見立てた年賀状や、駄洒落風の絵葉書など、遊び心の中に彼の絵と言葉に対する嗜好が見出され、人類学・考古学以外の異分野への関心を示すものとして興味深い。
白井は、坪井とともに東京近郊の遺跡を巡っていたが、駒場農学校に職を得てからは、遺跡巡見も行かなくなり、教務以外では近世本草学史の発掘に意欲を注いだ。本草学という学問もまた、収集と公開が不可欠であり、国立国会図書館に納められている白井のコレクションの充実は、複数の分野に関心を抱く「好古家」としての特徴の現れであり、その研究成果は著書『日本博物学年表』に結実した。
有坂は、工学部に進んだため、弥生土器発見者の中では一段低く見られる傾向 にある。しかし、考古学趣味の坪井・白井を弥生町遺跡に案内したのは、ほかならぬこの有坂であった。彼は、『兵器考』という古今の兵器の歴史書を著述し、ここにも古物を集めて公開するという、近世以来の伝統が認められる。
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今回の展示は、東京大学総合研究博物館と文京ふるさと歴史館との共催であり、このような試みは初めてのことである。本展のテーマの一つは、これまで述べてきたような考古学揺籃期における、学者たちの足跡をたどることにある。「学際的研究」「学際領域」が唱えられて久しいが、近世後期からこのような異分野交流が当然のように行われ、近代に入ってもなお存続し続けたことに、「考
古学」の歴史を掘り起こす意義がある。同時に、文京区という一つの地域における、東京大学の歴史的位置を再認識できる良い機会になろうかと思われる。東京帝国大学の学生や教授たちが、文京の地を研究フィールドにしていた事実を、
120年後の今、新たに再「発見」していただきたい。
参考文献:宮瀧交二「大里町冑山・根岸家の『蒐古舎』について—埼玉県博物館発達史の研究・1—」(埼玉県立博物館『紀要』29号 2004年3月)
文京ふるさと歴史館学習企画展
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(文京ふるさと歴史館・文化財調査員)
Ouroboros 第26号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成17年1月30日
編集人:高槻成紀・佐々木猛智/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館