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考古学者中谷治宇二郎の記録

西秋 良宏


「陸奥国西津軽亀岡」の土偶
「陸前桃生郡宅戸嶋」の縄文土器
「なかやじうじろう」。雪の結晶の研究者、人工雪の作成に世界で初めて成功したことで知られる中谷宇吉郎の実弟である。宇吉郎ほどの知名度はないが、治宇二郎も考古学者の間では没後60年以上をへてなお語り継がれる数少ないスターの一人である。それは、昭和初期、日本考古学の草創期に矢継ぎ早に発表した論考の多さもさることながら、私費で留学したフランス、パリでの苦学のエピソード、そこで得た病がもととなった帰国後の大分由布院での闘病生活、そして享年34才で迎えた早すぎる死。残した仕事とは不釣り合いに短い人生にも感じ入るものが多いからに他ならない。

このたび長女、法安桂子さんから治宇二郎が残したノート、書簡、図面類が本館に寄託された。なかでも秀逸なのは縄文土器・土偶、骨角器などをスケッチし、出自を記した万を超える標本カードである。昭和初期に知られていた縄文標本を集成する一大カタログといってよい。それは人類学教室が当時、保有していた標本の私的目録をふくむものとなっている。

治宇二郎は石川県、現在の加賀市に1902年に生まれた。高校時代は文学青年でならし同人誌に発表した小説に目をとめた芥川龍之介が絶賛したことを兄、宇吉郎が後年のエッセイに書きとどめている。卒業後の治宇二郎は東洋大学の哲学科に入学するが、ほどなく中退。鳥居龍蔵のすすめもあって東京帝国大学理学部の選科に入学し、坪井正五郎亡き跡をついだ松村瞭ひきいる人類学教室に身をおくこととなった。1924年のことである。そこは当時、先史学を研究しうる日本唯一の大学組織であった。縄文時代の研究をテーマに選んだ治宇二郎はただちに広範な資料収集を開始し、東北地方でのフィールドワークを重ねる。

 1920年代というのは、日本考古学がようやく科学のよそおいを取り始めた頃にあたる。実は、1877年に大森貝塚の発掘によってエドワード・モースがまいた近代考古学の種は、日本には根付いていなかった。坪井正五郎ら学界の指導者が江戸時代以来の古物収集と先住民論争に没頭し、モースが範をみせた進化論にもとづく自然科学的・博物学的視座がすこやかには育たなかったのである。他の理学部諸学の「近代化」が進行していった中、日本考古学のそれは50年遅れたと後世の辛口考古史家は評する。

 先史学・考古学の方法論の未成熟さにいち早く気づいた利発な若者、治宇二郎は、さまざまな「科学的」分析法を開拓する。土器分析への数量的手法の導入、形式・型式・様式という今日の日本考古学がなお用いる分類学用語体系の整備は特筆される業績である。土器要素の地理的分布の検討をもって「文化の中心地を知る方法」の開発も当時としては斬新な試みであった。東日本の縄文時代にみられる注口土器の諸形態・文様の分布を調べ、その出現頻度によっていくつかの文化圏を設定、さらにはそれらの「文化」の伝播経路を想定したのである。定量的側面を重視した点にオリジナリティがある。その成果は選科修了論文「注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布」(1927年)として結実する。

 ところが、この論文は、同じころ縄文土器編年を固めつつあった近代日本考古学の祖、山内清男の手厳しい批判を受ける。層位の無視についてである。文化遺物の新旧、時間的順序を知るには野外調査にもとづく層位的証拠の点検が先決なのであって、地理的分布のみからそれをさぐるのでは「僥倖を頼まねばならぬであろう」とさえ酷評されてしまった。
批判に応える間もなく前進を続ける治宇二郎は、1929年7月、兄の留学先パリに旅発つ。一説には山内の批判が留学の動機になったともいう。先史学の先進地フランスで方法論を研鑽し、独自の方法論を発展させたいとの熱い希望を友人宛の手紙で重ねて語っている。パリでの滞在は1932年5月まで。だが、肋膜炎を再発した1931年4月以降は各地で療養の毎日を過ごしている。元気だった1年半ほどの間の治宇二郎の活動はすさまじい。コレージュ・ド・フランス聴講生としてマルセル・モースらの講義に出席する他、日本考古学に関する講演やあいつぐ欧語論文の執筆をこなし、さらにはブルターニュ地方の巨石墓の測量調査、レゼジー地方洞窟遺跡での旧石器収集、民族学博物館所蔵のペルー先史土器実測等、あいかわらずのエネルギーでもって膨大な資料をかき集めた。記録に用いたのは得意のカード法である。加えて日本考古学概説をパリで出版すべく、原稿の執筆にも余念がなかった。

新規収蔵品展
「縄文とパリ—考古学者中谷治宇二郎の記録」
開催期間:2001年1月15日(月)〜3月30日(金)
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで) 土日祝日休館

中谷治宇二郎が選科生時代に作成した膨大な縄文土器・土偶カタログ、
パリ留学時に残したフランス先史遺跡の踏査記録を採集標本とともに公開します。
健康を害した治宇二郎は親交を結んでいた数学者岡潔とともに帰国。療養生活もむなしく、1936年3月22日、心臓病を併発して短い生涯を閉じた。意図した仕事の多くは未完のままである。著書は存命中に4冊、没後にも彼の学問を知る人々によって8冊もの遺稿集が発刊ないし再刊されている。まだまだ未発表のデータがある。今回、寄託された研究資料の多彩さとそれぞれに記された克明な記録とスケッチをみるにつけ、治宇二郎自身に成果を語らせたかったとの思いを強くいだく。それがなされていれば日本考古学の近代化も理論化も国際化も、もう少し歩みを早めていたのではなかろうか。10年にもみたなかった研究生活で山のように残した記録の数々には、日本考古学の変革を期した若者の情熱と、若かった考古学そのもののある日の成長の姿が映し出されている。それを学史資料として解析する場に総合研究博物館が選ばれたことをうれしく思う。法安さんにあらためて御礼申しあげる。

 2000年は兄、宇吉郎の生誕百周年にあたる。数々のイベントがおこなわれ、宇吉郎の業績をたたえる記念切手が発売される中、治宇二郎の遺著、『日本先史学序史』(岩波書店、1935年発刊)も再刊された。江戸時代はもちろん、奈良時代にまでさかのぼって日本人の古物への関心の歴史、ひいては博物学の発達をまとめた労作である。由布院で不治の病に伏せる中、彼が各地の知己を頼って収集した貴重な古文献の写しも今回の寄託資料にはふくまれている。


仏国ブルターニュ地方で測量した巨石墓群の絵葉書

 

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(本館助教授/先史考古学) 

 

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Ouroboros 第13号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成13年2月5日
編集人:高槻成紀/発行人:川口昭彦/発行所:東京大学総合研究博物館