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東京大学コレクションXI 平成13年7月14日(土)〜9月28日(金)

「和田鉱物標本」展の開催

田賀井 篤平


和田維四郎肖像
東京大学に近代的な学問体系をもたらしたのは、明治初期に招来されたお雇い外国人教師たちでした。彼ら外国人教師の指導の下に多くの若き日本人の俊秀達がエリート教育を受け、以後の教育研究を自らの手で遂行していきました。今回の展示は、その俊秀の一人である和田維四郎の多彩な業績のうち鉱物学の業績を中心として光を当てるものです。

和田維四郎は安政3年(1856)3月17日に小浜(現在の福井県)に生まれ、明治3年に小浜藩の貢進生として上京しています。明治6年に設立された開成学校のドイツ部においてドイツの鉱山技師シェンクの指導の元に維四郎は近代的な鉱物学を学びました。明治7年退学とともに、シェンクの推薦で、明治8年19歳で開成学校助教となりました。それ以降、彼は東京大学助教授・教授、地質調査所長、鉱山局長、官営製鉄所長官と要職を歴任しました。

 維四郎は、驚くほど多才で、驚くほどのコレクターでした。彼は64年間の人生の中で、東京大学助教授・教授として日本の鉱物学の基礎を築き、優秀な後継者を育てました。同時に農商務省地質課長として地質調査所を創設し、その所長となって日本の鉱山開発やその後の地質事業の基盤を確立しました。更に、農商務省鉱山局長として最初の近代的鉱業法制を整備し、官営八幡製鉄所長官として東洋一の製鉄所を建設し稼働させました。そして晩年、古書収集に没頭し書誌学者として大家をなしました。しかも、これらの仕事を同時並行でこなしています。類い希な才能に恵まれ、超人的な努力があったことが容易に想像されます。

 和田維四郎が開成学校助教から東京大学助教授・教授、地質調査所長、鉱山局長、官営製鉄所長官と職を転ずることがあっても、終生変えなかったのが鉱物収集でした。和田鉱物標本は、維四郎の収集した日本最大の鉱物標本コレクションです。維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアル株式会社の所有になってはいますが、明治初期に開成学校助教から東京大学助教授・教授時代に勧業博覧会などのあらゆる機会を捉えて日本全国から集まった標本を東京大学に収めて研究に用いたものが基礎になっています。その点で、和田鉱物標本は東大コレクションと言えると思います。その主だったコレクションについての記載は和田維四郎著「日本鉱物誌(初版)」、同著「本邦鉱物標本」に残されています。両書には約1100の総覧標本と約370の大型標本が記載されていますが、この他に維四郎が記載し整理した標本や未整理の標本を併せると4000点を越えます。

輝安鉱:愛媛県市ノ川鉱山産出の輝安鉱(Sb2S3)の巨晶。世界中の博物館に飾られている輝安鉱は明治16、17年ころ、日本から流出した。 水晶:山梨県乙女鉱山産出の水晶。方位の異なった2つの水晶が接合して双晶をなしている。日本産の水晶で発見されたところから日本式双晶と命名されている。

金石学:和田維四郎著の鉱物学の最初の教科書。
    明治9年博物館発行
 また、今回の展示では、和田鉱物標本の他に、彼の後継者達、例えば菊池安、神保小虎、福地信世が自らの手で収集した鉱物標本や、若林弥一郎が還暦を機に東京大学に寄贈した鉱物標本(通称若林コレクション)などと共に、それぞれの研究者の名を冠した鉱物などを展示します。
また、本館のいままでの展示図録とは性格を異にする展示図録を企画しました。今回の図録の意図するところは、失われた過去の記録の復元です。明治初期の鉱物誌の覆刻と捉えていただいて良いと思います。いずれの書も遙か昔に絶版となり、おそらくは殆どの人が目にしたことのない資料であろうと思います。

 鉱物学が科学として日本に導入されたのは、明治6年に東京に開成学校が開かれ、ドイツ人鉱山技師カール・シェンク(Karl Schenk)が鉱物学を講義したことに始まります。しかし当時の設備は極めて不完全で、和田の後継者として東京大学教授になった神保小虎によれば、外国から購入した約150点の鉱物標本と教科書としてドイツのヨハンネス・ロイニース著「博物学」(Leunis' Naturgeschichte, 1870) が一冊しか備え付けられていなかったといわれます。日本産鉱物にいたっては、一つとしてなく、鉱物研究の設備は皆無で、結晶の外形は、学生が書籍を参照しながら板紙を用いて作成し、初めて見ることができた有り様であったといわれています。

 明治6年オーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に日本の物品を出品することになりました。この時、政府は各府県に命じて各地に鉱物を集め、これをウィーンに送りました。同時に、出品した鉱物標本の一部を内務省博物局に収蔵しました。これが日本で鉱物を収集した最初です。そこで、どのような標本がウィーンに送られ、また博物局に収蔵されたかを知る唯一つの手掛りが博物館列品目録に残されていました。また、明治7・8年に文部省は日本産鉱物調査の目的で、各府県から鉱物を徴収し、金石取調所を設け、ドイツ人ナウマンと和田維四郎に担当させました。この時集めた鉱物標本の鑑定の結果は明治8・9年に亘って各府県金石試験記として文部省から刊行されています。さらに、明治10年に第1回内国博覧会が東京で開催されました。各府県は競って管内の物産を出品しましたが、その中には鉱物も数多く含まれていました。博覧会の出品物の多くは博物局に寄贈されたか購入されましたが、その記録は博物館列品目録に残されていました。東京大学の助教であり博覧会の審査委員でもあった維四郎は、出品された標本の大部分を東京大学に収めて研究を行い、その成果を本邦金石略誌として世に問うています。

東京大学コレクションXI
「和田鉱物標本展」

開催期間:2001年7月14日(土)
        〜9月28日(金)
  (土・日・祝日開館、月休館)
開館時間:10:00〜17:00
     (入館は16:30まで)

主催:東京大学総合研究博物館
協力:(株)三菱マテリアル、
   (株)旭硝子、
   (株)理学電機、
   (株)三菱化学
 鉱物試料は、意図的に滅失を計らなければ、あるいは注意深くさえあれば不滅です。鉱物標本を土中から学問の場に登場させるために、先ず行うことは鉱物の記載です。この図録で蘇るものは、明治初期の先達、和田維四郎、が土中の石塊を学問の域まで高めたプロセスの足跡です。

 図録には、総合研究博物館が収蔵する原田文庫から「明治8・9年各府県金石試験記」、「本邦金石略誌(明治11年)」、「博物館列品目録(明治13年)」を収録・掲載しました。

 和田維四郎のような人物が、その真価を発揮した東京大学の学問環境はどうであったでしょうか。その答えは、東京大学総合研究博物館が中心に平成9年に立案実行した「東京大学創立百二十周年記念・東京大学展」にあります。記念展の記録である「学問の過去・現在・未来 学問のアルケオロジー」は標本と学問の濃密な関係を余すところ無く伝えています。明治期という学問の黎明期においては、研究・教育と標本は一体でありました。学問は標本を評価し、標本が学問を導きます。新たな標本は、学問を全く新しい世界に引きずり込み、学問は標本に新たな価値を付与します。今回の展示では、明治期の学問と標本のダイナミズムを眼前に展開させ、モノこそ研究の基盤であることを示したいと考えています。和田鉱物標本を中心に、明治期に東京大学に収蔵された鉱物標本を一堂に集め、標本ひとつひとつが学問の中で息づき、これらの学術標本が博物資源として新しい学問の始まりを予感し期待させるものであることを感じ取っていただきたいと思います。

 

 

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(本館教授/バイオ鉱物学)

 

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Ouroboros 第14号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成13年7月13日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館