先述したように、佐々木・飯島の英文報告標本(土器108点、石器9点、骨角器類11点)のうち、土器86点と石器1点以外は行方不明となっていたが、今回の平箱調査により、以下の標本が新たに特定された。多くは、「遺跡不明」の平箱に混入していた、あるいは「陸平」の平箱に入っていたが、欠損によりわかりにくくなっていたものである。石器はすべて、移動式平箱棚PE-1の列の石器を集めた平箱の中にあった。
土器(9点)
Pl.Ⅱ-6 | (BQ04-13) |
Pl.Ⅱ-8 | (BQ04-15) |
Pl.Ⅱ-11 | (BQ04-18) |
Pl.Ⅲ-1 | (BQ04-19) |
Pl.Ⅴ-10 | (BQ04-43) |
Pl.Ⅵ-10 | (BQ04-54) |
Pl.Ⅶ-6 | (BQ04-63) |
Pl.Ⅷ-10 | (BQ04-84) |
Pl.Ⅸ-13 | (BQ04-97) |
石器(5点)
Pl.Ⅹ-9 |
Pl.Ⅹ-10 |
Pl.Ⅹ-12 |
Pl.Ⅹ-13 |
Pl.Ⅹ-14 |
骨角器(1点)
Pl.XI-1 |
残りの行方不明標本は土器13点、石器4点、骨角器類10点となった。土器については以下13点のBQ04番号を欠番とした。
Pl.Ⅱ-7 | (BQ04-14) |
Pl.Ⅲ-11, 12 | (BQ04-25) |
Pl.Ⅳ-3 | (BQ04-28) |
Pl.Ⅳ-5 | (BQ04-30) |
Pl.Ⅶ-2 | (BQ04-59) |
Pl.Ⅶ-7 | (BQ04-64) |
Pl.Ⅶ-12 | (BQ04-69) |
Pl.Ⅷ-9 | (BQ04-83) |
Pl.Ⅸ-4 | (BQ04-89) |
Pl.Ⅸ-7 | (BQ04-92) |
Pl.Ⅸ-14 | (BQ04-98) |
Pl.Ⅸ-17 | (BQ04-101) |
Pl.Ⅹ-4 | (BQ04-107) |
佐々木手紙と『学芸志林』に掲載されている図は、一部英文報告の図と重複しているが、それ以外の図も多数あることが判明した。ただし、両者とも英文報告に比べ図の精度が落ちる(スケッチ的である)ため、実物との同定作業が困難なものもあった。
『学芸志林』掲載標本は土器・石器含めて30点あり、そのうち英文報告にも掲載されているものは7点である。残り23点については標本との照合の記録はなく、今回の調査により、現存する土器5点との対応が新たに確認された。BQ04-115~119がこれに該当する。
佐々木手紙の図については、文献 〔22〕 で公表されているもの以外に、セイラム・ピーボディー博物館からコピーを取り寄せて確認した。その結果、英文報告や『学芸志林』と重複するものを除いても、土器・石器合わせて55点が掲載されていることが判明した 〔26〕 。現存する標本との照合を試みたところ、土器20点が新たに確認された。うち1点は英文報告Pl.Ⅳ-7(BQ04-32)と接合し、その他にBQ04-120~136,140,248がこれに該当する。
今回の調査で接合が多数確認された。接合によって、報告の図と形が変わってしまったものがあるが、すべて接合した状態で1つのBQ04番号を付けることにした。
報告図に比べ一部欠損していたもののうち、以下の6点は欠損部が平箱から発見され、セメダインで接合した。
BQ04-11 |
BQ04-15 |
BQ04-16 |
BQ04-26 |
BQ04-72 |
BQ04-74 |
未だに一部または大部分が欠損しているものは以下の13点である。
BQ04-4 |
BQ04-10 |
BQ04-13 |
BQ04-15 |
BQ04-16 |
BQ04-26 |
BQ04-31 |
BQ04-74 |
BQ04-19 |
BQ04-97 |
BQ04-121 |
BQ04-130 |
BQ04-135 (欠損部を今回石膏で補修) |
今回の調査前の時点で、すでに接合によって報告の図と形が変わっていたものは以下の3点であり、ニカワのようなもので接合されていた。
BQ04-32 |
BQ04-34 |
BQ04-75 |
今回の調査で平箱から新たに接合する破片が見つかり、報告の図と形が変わったものは以下の9点であり、セメダインで接合した。
BQ04-17 |
BQ04-32 |
BQ04-33 |
BQ04-52 |
BQ04-71 |
BQ04-80 |
BQ04-96 |
BQ04-122 |
BQ04-140 |
また、接合しないが同一個体と認められる破片が見つかったものは以下の6点である。同じ場所に収蔵したが、接合しない破片については今回撮影・報告していない。
BQ04-33 |
BQ04-66 |
BQ04-71 |
BQ04-72 |
BQ04-81 |
BQ04-116 |
陸平貝塚の佐々木・飯島標本には、朱書きで「96OK」などの注記を持つものがある。この番号は博物場の展示目録 〔5〕 の番号( 表4左列の番号 )と極めて整合性が高いことが確認されたため、博物場の注記と認定した。
表4 に博物場目録と現存する標本の対応関係をまとめた。ほとんどの標本は英文報告などに図が掲載されているが、斜体字で書いた土器5点は図がなく、博物場の注記によって佐々木・飯島標本であることが判明した(BQ04-137, 138, 139, 141, 142)。
なお、標本によっては朱書きが薄れて判読不可能なものもある。朱書きは水で洗浄すると容易に溶けだしてしまうため、今後も注意が必要である。
上述のように、「佐々木・飯島未報告標本?」の平箱標本とBQ当初番号標本には他遺跡の標本の混入が認められた。混入と判断した根拠は、他遺跡の報告書に図が掲載されている、もしくはその土器と接合・同一関係にある、あるいは、他遺跡の注記があり、陸平とする根拠がない、などである。今回報告する土器以外のものも含めて、以下の遺跡の標本が混入している。
大森貝塚(BQ04-166, 203他)、椎塚貝塚(BQ04-155)、阿玉台貝塚(BQ04-232)、龍貝貝塚、
水戸附近貝塚、千葉貝塚、福田貝塚、曽谷貝塚、上坂尾貝塚(押元貝塚)、加曽利貝塚。
混入と判断した標本は、大森貝塚のものを除いて一つの平箱(PE-7-18-5)にまとめた。ここには先述した円筒上層式土器(BQ04-249)も含まれている。
今回の調査により、陸平標本には様々な種類の注記・標本番号が付けられていることが確認された。ここでは、大きく3つの時期に分けてそれらの変遷を追ってみるが、推測の域を出ていない部分もある。
現段階で分かっている最も古い注記は、先述した博物場の注記であり、土器の外面に朱書きで小さく書かれている点が特徴的である。その他に確実に同時期といえる注記はいまのところ見つかっていない。ただし、「外面に、朱書きで、小さく」という共通点をもつ注記としては、「△」「×」「さいの目注記」「記号③」(下図参照)といった記号注記が挙げられる。これらは博物場注記に近い時期の可能性がある。
「さいの目注記」には以下に示したように1~4があり、英文報告Pl.Ⅵの土器群に「さいの目4」、Pl.Ⅶの土器群に「さいの目3」、Pl.Ⅷの土器群に「さいの目2」、Pl.Ⅸの土器群に「さいの目1」が注記されているという規則性がある。さらに、Pl.Ⅲの土器群に「×」、Pl.Ⅳの土器群に「△」、Pl.Ⅴの土器群には「記号③」が注記されているものが多い。このような記号注記の意味は不明だが、報告する際に分類を記したものかもしれない。
なお、「記号①」はBQ04-17に、「記号②」はBQ04-32に、それぞれ2ヵ所注記されている。いずれも複数の破片が接合しているもので、別々の破片に注記されていることから、同一個体であることを示したとも考えられる。
博物場の閉鎖後、すでに他遺跡標本の混入が始まっていた可能性が高く、注記のみで出土遺跡を判断するのは困難となる。以下、この時期に該当すると考えられる主な注記を列挙する。
和紙に墨書きで「陸平」などと記し、土器に直接貼り付けるか、把手に結びつけている。数点のみ見られる。陸平標本ではないが、「第九期」など時期を書いた和紙を把手に結びつけた例もある。文献 〔10〕 のように、把手の変遷を扱った論文があるため、そのような研究の際に付けられたと考えられる。
切手状のシールに墨書きで「常陸国信太郡陸平」などと注記されている。数点のみ見られる。陸平の所在地は現在稲敷郡であり、信太郡は明治29(1896)年に廃止されている。よって、それ以前の注記である可能性が高い。
多数見られる。筆跡も複数認められるため、注記された時期に幅があるかもしれない。大野雲外収集標本の双口土器(BQ04-1)には、1911年の写真で「陸平」と墨書されているのが見える 〔11〕 。BQ04-196では一度「大森」と注記したものを線で消して、「陸平」に書き直しているため、大森と陸平の注記が同時に行われた可能性もある。また、先述したように、モース報告の大森貝塚土器に「陸平」と墨書されたものもあり、両遺跡標本の混乱がうかがえる。
朱書きの「OK」は博物場注記にも見られるが、この注記は博物場番号を伴わず、土器の内面に比較的大きく注記される点が異なる。英文報告標本を中心に多数見られるが、注記された時期を判断するのは難しい。墨書きの「OK」も数点見られるが、モース報告の大森貝塚土器にも「OK」と墨書されたものがある。
土器内面に比較的大きく書かれる。「〇」の意味は不明だが(あるいは「OK」の「O」か?)、陸平の平箱標本に多数見られる。墨書き「陸平」と重なって注記されているものがあり、「〇」の方が新しいようだが、もう少し詳細に観察する必要がある。
平箱標本を中心にしばしば見られるが、意味や注記された時期など不明。
朱書きで「Pl.1.1」など英文報告の図番号が注記されたもの。注記されているのは英文報告の土器の一部(66点)だけであり、今回の調査で新たに発見された英文報告標本にはまったく注記されていない。よって、報告当初の注記とは考えにくい。
大正末期~昭和初期にかけて作成されたとされるカードに対応した、1~8480番までの標本番号。陸平標本では土偶に3桁、完形に近い土器・石器・骨角器・貝製品の一部に4桁の番号が付けられ、黒で注記されている。
戦後~現在に至るまで何度か体系的な標本番号の整備が試みられた。以下のような注記・標本番号がこの時期に該当すると考えられる。
1965年~69年に作成された遺物カードによる番号と、大判カード作成時にその延長として付与された標本番号。Aの後に4桁以下の数字が入る。陸平標本では英文報告土器の半数以上に付けられているほか、それ以外の完形土器にも付けられている。また、英文報告で同じPlateに掲載されている土器破片標本には、同一のA番号を付けている場合が多い。A番号は土器に注記されていないが、完形土器にはA番号と人類学教室原番号が記されたラベルが入っている場合がある。これは1970年代に標本を撮影した際に使用したものである(赤澤威、2006年私信)。
1968年以後に作成された大判カードにある、5桁の番号。それまでに人類学教室原番号(4桁までの番号)を持っていなかった遺物に付与されたものであるが、A番号を重複してもっている標本もある。陸平標本では英文報告の土器3点、石器3点が5桁番号をもち、黒で注記されている。
BQ-1は骨角器に、BQ-2~112は土器に付けられている。マジック書きで、たいてい「IB-××」(××は番号)と注記したものを横線で消して、「BQ-××」に書きなおしている。今回のBQ04番号とは無関係である。
初鹿野博之 (東京大学大学院人文社会系研究科・考古学研究室)
山崎真治(東京大学大学院人文社会系研究科・考古学研究室)