中山遺跡は、真崎勇助により1887(明治20)年に東京人類学会に紹介されている(真崎1887)。その後、東京人類学会会員で当時馬川小学校教員であった佐藤初太郎によって発掘が行われた。調査時期については、以下に紹介する佐藤(1900)及び栗田(1951)より、正確には明治33(1900)年4月であることが分かった。また、中山遺跡の大型尖頭器(八幡1948)の寄贈者である渡辺由蔵と佐藤初太郎の発掘調査との関連が不明であったが、これに関する記述もこれらの文献に確認することができた。
栗田(1951)の「中山石器時代遺跡發掘記事」によると、「歴史考古に関する実地の資料として明治33年4月14日午後1時より、職員生徒20余名及び五城目町渡邊由蔵を伴って発掘を行い、遺物が大量に出土したため作業を延長した。16日午後3時に出張のため、渡邊氏のほか村上嘉七・横山安整・佐々木熊次郎・中村徳松の補助を得て、佐藤出張中は掘削のみを行い、出張後精査を行った。しかし、見学者が多くなり、よくない噂を立てるなど作業が妨害されたため、19日に作業を中断した」という。この記述から渡邊・村上・横山・佐々木・中村、そして調査者である佐藤初太郎全員が佐藤の中山遺跡発掘調査に関わっていたことが明らかである。
その後は、五城目町教育委員会による3度に渡る発掘調査(昭和57・58年、平成2年)が行われ、丘陵部から谷部にかけて広い範囲に分布する縄文時代後期後葉~晩期中葉の遺跡であることが判明した。さらに谷部の低湿地からは、漆塗弓や漆漉し布などの植物質遺物が発掘され「中山遺跡出土漆工及び漆工関係出土品」として秋田県指定有形文化財に指定されている。また、2012年より、弘前大学人文学部附属亀ヶ岡文化研究センターと五城目町の協定締結に基づく中山遺跡の発掘調査を実施している。
佐藤初太郎調査の出土資料については、五城目町関係の書籍には掲載されておらず、佐藤初太郎関連資料を所蔵する秋田県立公文書館や秋田県立博物館でも見出すことはできなかった。また、大館市中央図書館蔵の真崎勇助旧蔵資料(真崎文庫)には中山遺跡出土資料があるものの、佐藤調査時の出土資料は見出せなかった。唯一、町内の舘岡家所蔵の遮光器土偶については、分銅・小野(1955)に佐藤調査時に出土したものとの記載がある。この土偶頭部は「舘岡コレクション」として五城目町に寄託されている。
高橋(1984)に『石器 中山』と題する佐藤初太郎の報告があることが記載されている。所蔵元に問い合わせたところ、原本は行方不明となっていた。しかしその後、町教育委員会の調査時に作成された『中山遺跡調査綴』のなかにコピー複写本が残されていることが分かった。
『石器 中山』はコピーから分かる範囲でその概要を述べると、32頁の和装本で、表紙に『石器 中山』の原題箋が付され、内題に「羽後國南秋田郡馬川村高崎字中山石器時代遺跡發掘記事(明治三十三年四月)」「佐藤初太郎しるす」とある。「適産調」用の用紙を使用し、はじめから5頁に地勢・地質について記載され、あと27頁は出土品が描かれている。「適産調」とは各地区の土壌の種類、田畑面積、人口、戸数、生産物、収入、農作業、生活習慣などに至るまで細かく調べる農村調査である。
地勢・地質の文章について検討したところ、栗田(1951)に掲載されている内容の一部と一致した。栗田(1951)の出典は不明であるが、『石器 中山』はこの栗田(1951)の出典元からの抜粋であると考えられる。「適産調」の用紙が用いられ、記事の「地勢・地質」部分のみ抜粋されている点をふまえると、本書は佐藤初太郎が記した正式な報告を石川理紀之助が模写したか、あるいは佐藤が石川にこの書を謹呈した可能性が高い。石川理紀之助は、出羽国秋田郡小泉村(秋田市金足小泉)出身の農村指導者で、その功績から「老農」あるいは「農聖」と敬称されている人物である。ちょうど佐藤の発掘と同じ時期にあたる、明治29 年~35年に農村調査「適産調」を行っている。栗田(1951)の文章を見る限り、佐藤調査に関しては、おそらく報告書原本が存在していたことが伺えるが、現在その行方は不明である。
『石器 中山』には55点の資料(土器31点、石器9点、土製品9点、石製品6点)が描かれている。比較的粗い筆遣いではあるものの、外形や寸法、文様構成、破損状況など個体を識別するには十分な精密さをもっている。