各標本の来歴について

大森・陸平標本の来歴ついては、すでに第67集および第79集(初鹿野ほか2006および2009)に記述しているため、ここでは大森・陸平以外の標本の来歴について、時系列順に文献の記述を交えて紹介する。なお、文献の引用に際しては一部の漢字を旧字体から新字体に改めている。

 小樽 

モースは大森貝塚発掘の翌年、1878(明治11)年7月~8月に、矢田部良吉(理学部教授)、高嶺秀夫(助教)、種田織三(助手)、佐々木忠二郎(生徒)らとともに、標本収集を目的として北海道・東北を訪れる(資料I)。

旅行の記録はモースの “Japan day by day”(E. S. Morse1917)や、矢田部の「北海道旅行日誌」(国立科学博物館所蔵)に残されており、前者は石川欣一による訳文(石川訳1970・1971)があり、後者は鵜沼わかによって全文が紹介されている(鵜沼1991)。

モース一行は1878年7月26日に海路で小樽に上陸する。直後に入った茶店で土器を見つけたモースは貝塚があることを知り、早速その日の午後に発掘をしている(資料II)。発掘した遺跡については小樽市手宮公園貝塚とする説がある(石附1977)。出土した土器について、矢田部は「アイヌのものに似ている」として、モースと議論になったと記している(資料III)。当時、大森などの土器をアイヌによるものとする説にモースは否定的で、ジョン・ミルンらと激しく対立していた。

今回の調査で確認された標本は土器86点で、主に縄文時代中期~続縄文時代のものである。このうちZL14-1(図版40)とZL14-2(図版41)の土器2点は、矢田部日誌にもスケッチがある(鵜沼1991)。

なお、小樽の茶店にあった土器を集めたのは札幌農学校教授のWilliam Penn Brooksであった。モースは小樽の後に訪れた札幌でブルックスを訪れ、所蔵土器をスケッチしている。その一部は “Japan day by day” のFig. 371に掲載されており、原画はPEMに所蔵されている。モースは「咽喉から手が出る位、それが欲しかった」と記述しているが、これらの土器の所在は人類先史部門では確認されておらず、譲り受けることはできなかったのかもしれない。

【資料Ⅰ】

「動物学教授エドワード、エス、モールス氏申報」『東京大学法理文学部第六年報』(1878)

「余レ職ヲ本部ニ執ルヤ其初ニ於テ既ニ生物学上ノ列品場ヲ創立スルノ極メテ切要ナルコトヲ思考シタリ(中略)本部列品ノ数ヲ増加シテ能ク外品ノ交換ニ充ツベキ為メ今之ヲ得ルノ地ヲ考フルニ北海道ニ若クモノナカルヘシ就テハ本年夏期休業中ヲ以テ専門生徒松浦(※注)及佐々木並ニ助手種田ノ三氏ヲ付属トシ余ノ該地行ヲ許サレンコトヲ希望ス」

※注:同行させるつもりだった生徒の松浦佐用彦は7月5日に急逝している。

【資料Ⅱ】

E. S. Morse 1917 “Japan day by day”(石川欣一訳1970『日本その日その日』)

「我々は町唯一の茶店へ、路を聞き聞き行ったが、最初に私の目についたのは、籠に入った僅な陶器の破片で、それを私は即座に、典型的な貝墟陶器であると認めた。質ねて見ると、これは内陸の札幌から来た外国人の先生が、村の近くの貝墟で発見したもので、生徒達に、彼等が手に入れようと希望している所の、他の標本と共に持って帰ることを申渡して、ここに置いて行ったのだとのことであった。私は直ちに鍛冶屋に命じて採掘器具をつくらせ、午後、堆積地点へ行ってみると、中々範囲が広く、我々は多数の破片と若干の石器とを発見した。」

「ブルックス教授は心地よく私を迎え(中略)一つの部屋には、小樽の貝塚で集めた、器具や破片の興味深い蒐集があった。私は咽喉から手が出る位、それがほしかった。装飾のある特徴は、大森の陶器を思わせたが、形は全く違っていた(図371)。」

【資料Ⅲ】

矢田部良吉「北海道旅行日誌」(鵜沼わか1991『モースの見た北海道』)

「七月二六日 金 (中略) 二時頃食後浜辺ヲ経テ古土器ノ出ツル処へ至リ器ノ破片若干ヲ得タリ 皆大森ヨリ出ル所ノモノニ均シク恐クハアイノウノ造リシモノナリ右ニ付キ少シクモース氏ト論セリ (中略) モース氏既ニ二箇ノ古壺ヲ得タリ形図ノ如シク飾ナシ津軽辺ヨリ出ル品ニ類似セリ」

 函館 

矢田部日誌によると、モース、矢田部、高嶺は1878年8月12日にマリイスの案内で函館山の西方を訪れた際に貝塚の発掘を行っており、その前日および8月14日にも発掘をしたと書かれている(資料IV)。いずれも詳しい地点は不明である。

モースを案内した「マリイス」という人物については、“American Naturalist” 第14巻のモース論文(E. S. Morse1880、近藤・佐原編訳1983)に登場するCharles Mariesという人物の可能性が高い(鵜沼1991)。モースはMariesについて、イギリスから木の種子の収集のために派遣されてきた人物で、蝦夷で会ったと記している。

今回の調査で確認された函館の標本は縄文土器33点、骨角器1点である。

【資料Ⅳ】

矢田部良吉「北海道旅行日誌」(鵜沼わか1991『モースの見た北海道』)

「八月十二日 月 曇ル朝試験室ニアリ午後晴 函館山ノ西方ヘマリイス氏ト共上ル 又同氏案内にて古土器ノ出ル處ニ至ルモース氏高嶺掘テ土器ノ片ヲ多ク得タリ昨日他ノ一所ニテモース高嶺余と共に土器ノ片鹿角等ヲ掘リ出セリ 是皆介殻丘ナリ」

「八月十四日 水 晴ル午後五稜郭ニ至ル 此日モース氏其外土器ヲ掘リニ出ツ」

 小石川植物園内貝塚 

東京都文京区白山の小石川植物園内およびその周辺に所在する縄文時代の貝塚で、『朝野新聞』(資料V)および松村任三の日記(資料VII)から、モースが1878(明治11)年12月に発掘したことが分かる。日記の記述から、発掘には矢田部良吉とその助手だった松村が参加したと考えられるが、松村は1915(大正4)年に行った講演では、植物園内貝塚の調査には参加していなかったと発言している(資料VI)。

今回の調査で確認された標本は、縄文時代中期~後期の土器14点および石器1点である。

【資料Ⅴ】

『朝野新聞』明治十一年十二月六日(1878)

「東京大学御雇教師モールス先生が大森村にて太古の陶器を発見されしことは曾て紙上に掲載せしが近ごろ小石川植物園中にて同じ古陶器の残欠せしものを幾個も掘り出したるに付モールス先生も両度まで該園へ往き其地を掘られしに右の陶器の出ること夥しく唯だ完全の物は一つも見当たらぬ由」

【資料Ⅵ】

松村任三 1915「史蹟、名勝、天然紀念物より観たる小石川植物園」『史蹟名勝天然紀念物』1-6

「此園内に貝塚がありまして、亜米利加から御雇いになった、モールスという動物学者が、明治十一年頃に、是に気が付いて、此植物園内で、貝塚を掘ったことがあります。其時には、私は参加いたしませんでしたが、大森の貝塚を掘ったのも、モールスであったのですが、其時は加わって居りました。此処で掘った時には、私は存じませなんだ。」

【資料Ⅶ】

松村任三 1926「江ノ島滞在中のモールス博士」『人類学雑誌』41-2

「同十一年十二月小石川植物園貝塚発掘のこと。
 十二月三日 午後小石川植物園に到り、モールス矢田部両先生と共に、土器掘に従事、午後五時頃帰宅。」

 西ヶ原貝塚 

東京都北区西ヶ原に所在する縄文時代の貝塚である。大森貝塚や小石川植物園内貝塚と同じ頃に発見され、現在まで多くの研究者によって調査されているが、その研究史については『北区史 資料編 考古1』(1993年)に詳しくまとめられている。

モースの発掘については『朝野新聞』1879(明治12)年4月12日版において、東京大学文学部教授・外山正一の投書に記されている(資料VIII)。この投書は、4月6日の同新聞において、「外国人が西ヶ原の古物を発掘して持ち出しているのは日本人の不注意である」という投書が紹介されたことに対し、外山が「モースが発掘したものは大森などとともに大学の『古物庫』に陳列し、許可を得れば縦覧できる」と反論したものである。この投書から、モースの発掘が同年3月21日であったことが分かる。

今回の調査で確認された標本は、縄文時代後期の土器39点と石器4点である。

【資料Ⅷ】

『朝野新聞』明治十二年四月十二日(1879)東京大学文学部教授 外山正一の投書

「貴社新聞第千六百六十九号雑録欄内ニ於テ日本人不注意ト題セル一文ヲ草シ頃日外国人某ガ西ヶ原ニ於テ古物ヲ堀リ出シタル事ニ付西ヶ原ノ或ル御方ヨリノ投書ヲ掲ゲラレタルガ其ノ投書コソ我等ガ為メニハ實ニ迷惑千萬ナルモノト云ワザル可カラズ何トナレバ我輩モ去月二十一日ニ同所ニ於テ貝殻壺砕等堀リ出シタルコトアレド(中略)当日我輩モース氏ト共ニ生徒数名ヲ伴ヒ兼テ生徒某ガ貝殻壺砕等発見セリト云フニ因リ其ノ地ヲ一見セシニ数株ノ樹木アルノミニシテ昔時ヨリ人ノ開発セシ處トモ見請ケザレバ妨ゲ無キコトナリト思ヒ堀リ穿チタルニ持主来リ之レヲ咎メタルニ因リ我々頼ミテ之レガ承諾ヲ請ケタルモノニシテ其ノ時堀出シタル物品ハ是迄モース氏ガ大森并小石川植物園ニ於テ堀リ出シタル物ト同様ナル物ニテ古代ノ壺砕并彼ノ投書家ノ芥視スル所ノ貝殻石塊等ニシテ其ノ品々ハ以前大森其ノ他ニ堀出シ得タル物ト共ニ大学三学部ノ古物庫ニ陳列シ有リ若シ同所ノ許可ヲ得タルモノハ縦覧スルヲ得ベキナリ」

 山形県 

モースは大森貝塚の報文中において「山形県でも東京の他の貝塚でも、大森貝塚の土器とひじょうによく似た形の土器片がみいだされる」(近藤・佐原編訳1983)と述べている。この「山形県」の土器がどのような資料かこれまで言及されてこなかったが、『東京人類学会報告』第六号(資料IX)の記述から、庄内地方の好古家・羽柴雄輔との交換資料であることがわかる。

羽柴は飽海郡松山町(現在の山形県酒田市)出身で、小学校教師を務める傍ら郷土の歴史や遺跡などを調査し、1884(明治17)年に奥羽人類学会を設立した人物である。

1878(明治11)年に朝野新聞で小石川植物園内貝塚発掘の記事(資料V)を見た羽柴は、新聞社を通じて大森・小石川の標本と地元の標本を交換したと記している。『東京人類学会雑誌』第五十七号・五十八号(東京人類学会1890・1891)には、羽柴が奥羽人類学会の集まりにおいて、小石川植物園の土器、大森貝塚の土器片・獣骨および報告書を供覧したことが報告されている。

一方、交換した山形県の標本について、今回の調査で確認できたのは縄文土器の注口部1点(UK14-1、図版58)のみで、「ミノワ」という注記が認められる。羽柴が発見した庄内地方の遺跡一覧のなかに「羽後飽海郡 成興野村 箕輪山」(羽柴1886)とあり、現在の酒田市(旧松山町)箕輪遺跡で採集した土器と考えられる。なお、博物場の目録には山形県の土器19点と記載されているため、この他にも標本があったと考えられる。

【資料Ⅸ】

羽柴雄輔 1886「両羽四郡ニ於テ古物捜索ノ経歴略記」『東京人類学会報告』第六号

「同十一年に至り偶然新聞誌上にて小石川植物園内より貝塚土器の砕片夥しく出たることを記載せるを見て頓に当地方のものと異同を比較せんことを企て交換の媒介を朝野新聞社に依頼せしに同社員澤田直温君の好意によりて大森介墟及び小石川植物園の両所より出たる土器砕片獣骨等を寄せらるるによりて其異同を比較することを得たり」

 鹿児島 

モースは1879(明治12)年5月~6月に関西~九州へ標本収集を主目的とした旅行に出る(資料X)。5月22日に鹿児島に到着、翌日には鹿児島湾東側の元垂水を訪れ、そこで立ち寄った紳士の家で「卵形の壺」を貰ったと記している(資料XI)。今回の調査でこの壺の特徴に一致する標本(UK14-2、図版59)が確認され、博物場の注記があること、PEM所蔵図と一致することからモースの収集品であることが明らかになった。この特徴的な壺は古墳時代の成川式土器にあたる。

【資料Ⅹ】

『東京大学法理文学部第七年報』(1879)

「五月七日往復六週間ヲ期シテ動物学生理学教授モールスニ理学部教場助手種田織三ヲ随行セシメ列品室ノ陳列並ニ海外各国博物館ト交換ニ要スル古代ノ土器貝殻類ヲ発見採集セシメン為メ山城、大和、摂津、近江、若狭、肥前、肥後、大隅、薩摩等ヲ巡歴セシム」

【資料XI】

E. S. Morse 1917 “Japan day by day”(石川欣一訳 1970『日本その日その日』)

「上陸地への帰途、我々は古い陶器を見るために、ある紳士の家へ立寄った。(中略)私は大学博物館のためとて、変った形をした卵形の壺を貰った。これは高さ十四インチで、最大直径の部分に粘土の紐がついている。いう迄もないが赤い粘土で、厚くて重く、より北方で見出される如何なる陶器とも違ったものである。」

 大野貝塚 

モースは1879年5月26日に肥後の大野村に到着する。この村に貝塚が存在するということは地質学者のライマンから聞いており、26日~27日にかけて発掘している(資料XII)。「大野村の貝塚」については大森貝塚の報文(E. S. Morse1879)にも登場するが、近藤義郎と佐原真による訳文の初版(近藤・佐原編訳1983)では、「熊本県下益城郡松橋町大野の太尾貝塚をさす」とされ、それを踏襲している文献も多くみられる。しかし、佐原は後に「熊本県八代郡竜北町大野硴原の大野貝塚」に訂正しており(佐原1988‐P.259)、大森貝塚の訳文もその後訂正されている。これについては、モースが大野貝塚からの帰りにスケッチした老樹と神社(E. S. Morse 1917‐Fig. 587)が、現在も竜北町野津の法道寺薬師堂(図2)に残っていることから、モースが訪れたのは、竜北町(現在の氷川町)の大野貝塚と考えられる(江上1978)。

モースは発掘で土器・貝殻・人骨などを収集しており、今回の調査で確認されたのは縄文土器31点、石器2点である。縄文土器は中期末~後期初頭(阿高式~南福寺式)のもので、底部には鯨骨の痕跡がみられるものがある(ID14-16、図版31)。また、ID14-8(図版29)の浅鉢はモースが「矢の模様」と表現した土器である。

【資料XII】

E. S. Morse 1917 “Japan day by day”(石川欣一訳1971『日本その日その日』)

「大野村へ着くと、ここには私のさがしていた貝塚がいくつかあった。道はそれ等の間を通っている。ここから海岸までは、すくなくとも五マイルある。この堆積はフロリダの貝塚の深さに等しく、即ちすくなくとも三十フィートはあるかも知れない。貝殻の凝固した塊はArca granosa〔アカガイの種〕から成っているが、他の貝の「種」もいろいろ発見された。」

「我々はかぎられた時間で出来るだけ完全に貝塚の調査をした。我々は沢山の骨を手に入れたが、その中には大森の貝墟に於ると同じく、食人の証痕を示す人骨の破片もあった。一本の人間の脛骨は並外れに平たく、指数五〇・二という、記録された物の最低の一つである。また異常な形の陶器も発見された。一つの浅い鉢には、矢の模様がついていた(図584)。」

 大野村の横穴 

大野村滞在中のモースは、村人から陶器が出土する洞窟の話を聞いて、即座にそれが横穴墓であることを見抜き、そこから出土する陶器の形を予想して描く。村人の案内で現地に向かったところ、横穴は天井に穴が開いた状態で、モースは人力車夫の手にぶら下がってその穴から内部に進入する。その後、車夫を中に入らせて予想した通りの陶器4個を発見し、村人を驚かせたと記している(資料XIII)。

この出来事はモースにとって痛快だったようで、PEMには横穴の中にぶら下がって入るモース本人を描いたスケッチ(図版76下)と、“The Adventure of a Pottery Collector” と題する文章が残っている。横穴墓のスケッチは “Japan day by day” のFig. 586にも残されており、内部から羨道方向を描いたもので、左右に屍床を持ち、羨道がカーブする形態であったと推定される。

旧竜北町内には複数の横穴群の存在が知られており(図2)、モースが訪れた横穴墓がどれであったか明らかでない。モースの大野村調査について研究した江上敏勝は、大野貝塚から「半マイル」という距離(あくまでモースの印象であるが)と、旧鹿児島街道から坂道を登った場所を想定して、当時知られていた横穴群の中から「竹の下横穴群」を有力な候補地としている(江上1978)。

なお、今回の調査で確認された標本は、土師器の壺1点、須恵器の提瓶1点、須恵器の壺1点である(AID1~3、図版50~52)。

【資料XIII】

E. S. Morse 1917 “Japan day by day”(石川欣一訳1971『日本その日その日』)

「我々が食事をしている最中、数名の村民が驚いたり、崇めたりする為にのぞき込んだ。その中で一人、丘の片側に洞窟があり、そこには陶器が僅か入っているということを話した。北方の洞窟で見出される陶器の特異な形式を知り、且つ洞窟は埋葬場で、そして器物が米や酒やその他の供物の為に洞窟内に置かれてあることを知っている私は、筆と紙とをかりて、洞窟内の器物の輪郭を画いて見た。知事はその絵を男達に見せ、この通りかとたずねた。すると彼等は奇妙に当惑しながら、実は自分達はその陶器を見たことが無く、彼等の父もまた見ていないが、彼等の祖父が、かつて丘のその側に細い路がつくられた時、土工たちが洞窟の屋根をつきやぶり、そして器物を見たことがあるという話しを語り伝えたのだといった。

昼食後、我々は彼等に案内させてその場所へ行った。どしゃ降りの中を、殆ど半マイルの間、急な坂の泥をバシャバシャやって登ると、彼等は立止まり、道路の崖の側を指さした。のぞき込むと十フィートばかり下に穴があいていて、そこから泥水が流れ出ている。これが洞窟の入口なのである。(中略)

水は上流からも堰き止め、洞窟からも流し去った。私はついに人力車夫二人に入らせることが出来た。彼等は耨を使用して注意深く砂を掻き去り、一時間一生懸命掘ったあげく、陶器を四個発見した。その一つは完全で、一つは僅かに破損し、他の二つは器の大きな破片である。知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。村民達は、外国の悪魔として私を眺め、私が陶器を持ち去る時、大いに不満を示した。知事は、これ等が大学の博物館に置かれるのであることを説明した。図586は、入口に向って見た洞窟の有様である。中央の拱門は洞窟への入口で、外側にある入口は小さく、そこから洞窟へ向って拡がるのであるが、通廊と同様に曲線をなしている。両側にある拱門は、どこにも通じていない。」

 冑山 (かぶとやま)

モースは1879(明治12)年8月と1882年10月の2度にわたって、埼玉県大里郡冑山村(現在の熊谷市)の区長・根岸武香を訪問している。根岸は好古家としても知られており、1877年11月に隣の黒岩村(現在の比企郡吉見町)の黒岩横穴墓群を発掘調査したことが、『東京日日新聞』に記されている(坪井1887)。モースはこの黒岩横穴墓群と、その近くに存在が知られていた吉見百穴横穴墓群を訪問・調査している。詳細な記録は残されていないが、関連する文書などが金井塚良一によって報告されている(金井塚1975)。

今回の調査では「冑山」の土師器6点(KV14-1~6、図版53、54)が確認された。モースが黒岩・吉見百穴横穴墓群で発掘したものか、あるいは根岸から寄贈されたものと考えられる。

 その他の遺跡 

その他に報告標本の出土地名として、「美濃・金生山」「近江・滋賀寺」「大和・三輪」「大和」「伊賀」「美濃」「日本」があり、いずれも土師器や須恵器(当時は「朝鮮土器」)である。

「美濃・金生山」の須恵器(AMK14-1~4、図版53)は大垣市金生山古墳群から出土したものと推定される(大垣市教委2003)。入手経緯は明らかでない。

「近江・滋賀寺」の須恵器破片(AOS14-1、図版58)には「蜷川」印のあるラベルが貼ってあり、当時の陶器研究の第一人者、蜷川式胤の寄贈標本と考えられる。蜷川と親交を深めていたモースは、記録に残るだけで830点以上の陶器を寄贈されている(蜷川親正1988)。多くはボストン美術館に所蔵されており、同じ「蜷川」印のラベルが見られる(蜷川親正1979)。

「滋賀寺」については、蜷川の代表的著作『観古図説 陶器之部二』(蜷川式胤1877)において、蜷川自ら発掘したと記しており(資料XIV)、その記述から、現在の大津市滋賀里町の崇福寺跡周辺と考えられる。博物場の目録(表4-3)には “1000 years before 12th year of Meiji” という記述があり、蜷川による年代比定とみられる。同様に年代の書かれている「大和・三輪」(AYM14-1、図版58)や「大和」(UK14-6、図版61)も蜷川寄贈標本と推定される。

それ以外の標本については、具体的な遺跡名、入手した経緯ともに確認できていない。モースは根岸武香や蜷川式胤のほか、神田孝平、柏木貨一郎、松浦武四郎といった多くの好古家と交流しており、PEMには彼らの所蔵品をモースがスケッチしたものも残されている。こうした人々からの寄贈や交換によって手に入れた標本の可能性がある。

【資料XIV】

蜷川式胤 1877『観古図説 陶器之部二』

「○滋賀ノ山寺ハ本名梵釋寺ト云近江国滋賀郡滋賀村ノ上ノ方ニ旧跡有リ○此寺ハ続日本紀ニ延暦五年ノ建立ト見ユレハ今ヲ去ルコト一千九十二年前也○此寺間モ無ク焼失シテ廃寺トナル○此旧跡ヲ尋テ古ヘノ瓦ノ破砕セシモノヲ求メ得テ徴古ノ一端ニ備エンコトヲ欲シテ去ル八月廿九日此廃趾ニ至リテ草木ノ繁茂セル間ヲ雇夫ニ堀セシカ案ノ如ク缺瓦或ハ陶器ノ破砕セシモノヲ数多堀リ得タリ」

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