2 オホーツク氷民文化

骨が語る食生活

米田 穣




  「あなたが普段食べているものを言ってみたまえ。あなたがどんな人物であるか、当ててあげよう。」これは『味覚の生理学』の著者として有名な十九世紀フランスの美食家ブリヤ・サヴァランの言葉である。彼は文化としての「食」の奥深さを強調してこの有名な言葉を残したが、これは数千年前の先史時代人の生活を研究する場合にもあてはまる。どのようなものをどのくらい食べていたのかは、すなわち、どのような生活を送っていたかを反映する。とくに、狩猟や採集を主たる生業にしていた先史時代の人々にとって、食料を調達するための生業活動は日々の生活でも中心的な関心事であったに違いない。本稿では、遺跡から発掘された人骨の化学成分からどのように過去の食生活を復元するかを簡単に説明し、海洋に適応した人々と言われているオホーツク文化の担い手がどのような生活を送っていたかについて、食を中心とした視点から追ってみたい。

  先史時代の人々がどのような獲物を狙って、いかなる活動を行っていたのかを復元するために、研究者は色々な材料をつかって議論する。例えば、狩猟に用いられた落し穴の分布や狩猟・採集に用いられた石器などの道具の組み合わせを調べることで、考古学者は先史時代の生業活動を議論する。また、先史時代の遺跡から数多く出土する動物の骨や貝殻などを調べる「動物考古学」と呼ばれる研究分野では、どのような動物が狩猟の対象となっていたのかを研究する。さらに、骨の表面についている傷などから、動物の解体方法や肉・毛皮の利用法まで明らかにすることができる。しかし、植物については遺跡から遺物が出土することは比較的まれであり、どのような植物がどのくらい利用されていたかを正確に知ることは非常に困難である。これは、植物が腐食しやすく遺物になりにくいという原因もあるが、そもそも遺物として出土する動植物の遺存体は、実際には口に入らなかった食べ残しが大部分であるという点に注意する必要がある。例えば、イモ類のようにほとんど捨てるところがない食物は、遺物を研究しているだけでは、その重要性を見出すことができないのである。それに対して、人骨の化学成分を対象とした研究では、実際に先史時代人が口にして、消化された食物の内容を、骨に残された化学的な指標として抽出することが可能であり、遺跡が発掘されるまでに起こる様々な「偏り」を気にせずに、ある程度の定量的な議論が可能である。例えば、図1に示したように、骨のタンパク質に含まれている同位体という指標を基準に見てみると、北海道に住んでいた縄文時代人は本州の東北地方に住んでいた人々とは全く異なる食生活を送っていたことが明らかである。

図1 北海道と東北地方の縄文時代人におけるタンパク源の比較

  図1ではコラーゲンという骨のタンパク質に含まれている炭素と窒素の同位体比という指標から、その個体が摂取したタンパク質の炭素と窒素の同位体比を推定している。推定された食物の同位体比が、さまざまな同位体比の組み合わせを持っている食物のうち、どのグループに似ているかを調べて、タンパク質がどのような食物群から由来しているか知ることができるのである。東北地方の縄文時代人は、同じ時代の北海道の人々とはそのタンパク源が大きく異なるが、さらに居住した環境によって二つのグループに分かれることが分かる。沿岸部に立地する貝塚遺跡から出土した人々の同位体の値は、海生の貝類に近い値を示しているのに対し、内陸の洞窟遺跡から発掘された人々は陸上のC3植物と呼ばれる植物群や陸に住む動物に近い値を示している。このことから、縄文時代の東北地方では、海岸地方と内陸山地の間で人々や物の往来がそれほど頻繁ではなかった様子がうかがい知れる。一方で、北海道に住んでいた縄文時代人は、海にすむ魚や哺乳類から非常に多くのタンパク質を得ていることが分かる。

  ここで、少しだけ化学の基礎知識をおさらいしておきたい。まず、ここで指標に用いている「同位体」とは、化学的に同じ性質を持っているが質量の異なる元素のことである。例えば、炭素の九九%は質量数12という重さの元素(12C)である。しかし、自然界には一%程の割合で質量数13の炭素(13C)が、そして一兆個に一個の割合で質量数14の14Cが存在している。13Cと12Cという二種類の炭素は重さが違うが、どちらも炭素として同じ性質を持っている。また、14Cは五七三〇年で半分になる速度で14Nに変化する性質を持っており、変化するときに放射線を出すことから放射性炭素という呼び名でも知られている。この性質を利用して、14Cの割合がどのくらい減少しているかを調べることでその有機物が何年前のものかを調べる「放射性炭素年代測定」は考古学をはじめとして、多くの研究分野で応用されている。我々の体組織をはじめとして、炭素をふくむ全ての物質には必ずある割合で13Cや14Cが含まれるのである。様々な動物や植物でその割合を調べてみると、生理的な条件や生息する環境によってその割合に違いがあることがわかってきた。例えば、植物では大きく二つのグループに分かれており、その原因は二酸化炭素から炭素を固定する光合成の反応回路の違いである。比較的13Cの含有量が少ない植物は、C3植物と呼ばれ、この植物には我々の身のまわりにある樹木やコメやムギなどの穀類が含まれる。一方、比較的13Cを多く含む植物のグループはC4植物と呼ばれる。この植物は乾燥した日のあたる場所に適応しており、C3植物とは異なる代謝系で光合成を行っている。この代謝の違いが13Cの濃度の違いとして現れるのである。ちなみにC4植物にはトウモロコシやアワ、ヒエ、キビなどが含まれる。海にすむ魚貝類は炭素と窒素の両方で、重たい同位体が比較的多いのが特徴である。さらに詳しく見てみると、魚や動物の種類によって同位体比に違いがある。これは、食物連鎖を通じて炭素や窒素が移動するのにともなって、重たい同位体が濃縮するためである。地上の生態系でも同様の濃縮が見られるが、海洋では食物連鎖が長いので、その効果がより明確である。雑食性の動物である我々ホモ・サピエンスは、このように同位体比が異なる様々な食物を摂取して、それらを原料として体をつくっている。食物に重たい同位体がたくさん含まれていれば、我々の体にも重たい同位体比が多くなるのである。

  それでは、オホーツク文化を担っていた人々はどのような食生活をおくっていたかを、炭素・窒素安定同位体比で見てみよう。図2に礼文島の浜中二遺跡と斜里郡のウトロ遺跡神社山地点から出土したオホーツク文化人の成人に関する分析結果を示した。一見して明らかなように、オホーツク文化人はタンパク質の大部分を海獣から得ていたことがわかる。図1に示した北海道の縄文時代人よりもはるかに海産物に強く依存していたようである。さらに、北海道本島のウトロ遺跡と礼文島の浜中二遺跡の出土人骨ではあまり大きな差が無く、各集団のなかでも個体ごとの違いは小さい。オホーツク文化の人々では、男女で食生活に顕著な違いはなかったようである。もしも海獣が重要な食料資源であったならば、狩猟が生業の中心を担う活動であったと考えられる。現在の狩猟採集民の研究では、狩りに出るのは男性である場合が圧倒的に多い。獲物が少ないときは男たちだけで獲物を食べてしまうことも少なくないようで、本州の縄文時代人では男女の食性に差が認められることがある。しかし、オホーツク文化では、男性も女性もともに海獣の肉を主なタンパク源としており、北の海の豊かな動物資源を利用した生活を想像させる。

図2 オホーツク文化人のタンパク源

  オホーツク文化の特異性は他の時代の食性と比較するといっそう明らかになる。図3に北海道から出土した人骨資料の分析結果を、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、オホーツク文化期、アイヌ文化期と分けて示した。まず、北海道に住んだ人々は、約五千年前の縄文時代前期のころから非常によく海産物を利用していると言える。これは本州以南の人々とは大きく異なる特徴である。縄文時代から続縄文時代にかけては海産物を中心としながら、陸上の食物についても影響が認められ、遺跡の立地などによってその割合は変化しているようである。一方、オホーツク文化の人々は食物連鎖の最上位にいる海獣を唯一最大のタンパク源としていたようである。これは、彼らが発達させた道具や遺跡から出土する動物骨にもよく現れている。しかし、同時期に存在した擦文文化については、オホーツクとは異なる農耕も含む生業があったのではないかと議論されているが、今回分析した厚岸町下田ノ沢遺跡の一個体については、オホーツク文化人とよく似た食性をもっていたようである。残念ながら、保存状態の良い擦文文化人の骨はあまり出土しておらず、擦文文化人の食性については今後の研究課題としたい。オホーツク文化と擦文文化の影響を受け発達したといわれるアイヌ文化の人々は、明らかに海獣への依存が減少しており、鮭などの魚類や陸上の動植物を組み合わせた食生活を送っていたものと思われる。しかし、アイヌ文化期の栽培植物として名前があがるアワ、ヒエ、キビなどの4植物から得たタンパク質は限られたものであることが明らかになった。

  本稿では、骨の化学成分とくに炭素や窒素に含まれる同位体からオホーツク人の食生活を検討してみた。彼らは、強く海獣を中心とする食生活を送っていたことが明らかになり、海獣狩猟に依存する度合いは縄文時代や続縄文時代といった狩猟採集時代の人々よりも強かったようである。しかし、男性も女性も同じような食物をとっていた様子も明らかになり、道東地方という厳しいが豊かな自然にうまく適応した生活を送っていた様子を読み取ることができた。骨格標本をみると無表情で多くを語らないようにみえるが、さまざまな分析を行うことで生きていたころの暮らし振りを饒舌に語ってくれるのである。

図3 北海道における食生活の時代変遷




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