ヒマラヤの環境と植物

特に高山帯の植生

菊池 多賀夫
岐阜大学流域環境研究センター




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植生帯の垂直分布

 ヒマラヤ地域の植生帯は、低地から高地に向かって概ね次のように移り替わる。

[平原から高度約一〇〇〇メートルまで] 乾期に葉が落ちる雨緑林、落葉広葉樹林帯。Shorea robustaが、最も一般的な優占種。
[一〇〇〇−三〇〇〇メートル] 照葉樹林帯。そのうちでも低地はシイ属やヒメツバキなどの照葉樹林、高地はコナラ属が多い照葉樹林。コナラ属といってもいうまでもなく常緑性である。Quercus semecarpifoliaが優占種になることが多い。
[三〇〇〇−三八〇〇メートル] モミ属の針葉樹林。
[三八〇〇−四〇〇〇メートル] シャクナゲ低木林。高さは人の背丈を超える程度。
[四〇〇〇−五〇〇〇メートル] シャクナゲの矮低木群落や草原、荒原。

 五〇〇〇メートルという高度は年じゅう雪氷に覆われる地帯の下限、いわゆる雪線である。これより高いところでも地肌・岩肌が顔を出すところはあり、現に植物の存在も知られているが植生というほどの連続性はもはやない。

 夏のヒマラヤは、インド洋から吹きつける湿潤なモンスーンの影響を強くうけて多雨になるが、この影響は西に向かって弱くなり、西部では乾燥気候になる。それに伴って雨緑林や照葉樹林は消滅して疎林やヒマラヤスギ林に変わる。またモンスーンに対してヒマラヤは巨大な障壁になって立ちふさがり、そのためにヒマラヤの北側は乾燥していて、植生は砂漠かそれに近いものになる。はじめに挙げた植生帯の垂直分布は湿潤な中部から東部ヒマラヤのもので、西側に向かって、また背後の北側に向かって気候が変わり、植生も変化する。



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高山帯の植物群落

 高山のような寒冷地では地面がしばしば凍結して、凍結と融解をくりかえす過程でおきる地表の攪乱が植物の暮しを破壊する。そのために、密生した安定な植被は形成されにくく、寒冷地特有の荒原となる。ヒマラヤの高山帯にもそのような荒原が発達するが、それが一様に広がるのは高山帯でも上部にかぎられ、下部にはほぼ連続した植生がひろがる。ヒマラヤの高山帯も実は意外に緑豊かな世界である。

 ネパール中部と東部のヒマラヤ高山帯にみられる植物群落はおよそ次のようなものである。

i Potentilla 広葉草原。キジムシロ属の広葉草本植物二種、 Potentilla contiguaP. peduncularis が優占し、ほかにも多くの広葉草本植物が美しい花を咲かせる草原。連続的な植被をもち群落の高さは一〇−三〇センチほど。

ii Bistorta 落葉矮低木群落。落葉低木の Bistorta vaccinifolia とキンロバイがつくる落葉低木群落で、 Rhodiola himalensis (イワベンケイ属)や Athyrium cuspidatum (メシダ属)などはこの群落特有。そのほかの組成要素は Potentilla 草原に近い。植被はほぼ連続。群落の高さは三〇−五〇センチほどである。

iii Primula 広葉草原。 P. obliqua をはじめとする数種の大形のサクラソウ属が優占する草原で、そのほかの組成では上記二つの群落に近い。群落の高さは三〇−五〇センチ。植被率はやや低く、六〇ないし七〇パーセント程度にとどまる。

iv Rhododendron 常緑矮低木群落。小形のシャクナゲ R. anthopogon が優占する常緑矮低木群落。その下に Kobresia nepalensis (ヒゲハリスゲ属)が密に生育する。群落の高さは一〇−四〇センチほど。ほぼ連続した植被をもつ。

v Kobresia スゲ草原。前記 K. nepalensis が優占する草原で、そのほか多くの広葉草本植物が生育していて花が豊富である。群落高は低く五−二〇センチであるが、植被はほぼ連続している。

vi 高山荒原。丈の低い植物がまばらに生える荒原。いくつものタイプが記載されているが、調査の現状では相互の関係ははっきりしない。群落高一五センチ以下。高さ一センチにも満たない微小な種がまばらに生える特異な群落もある。植被率は一般に二〇パーセント以下であるが、微小なヒゲハリスゲ属 Kobresia pygmaea がマットを形成して地表を覆うことがある。



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高山帯の植生パターン

 ヒマラヤの高山帯の植生を観察して、誰でもまず気がつくことは、南向き斜面と北向き斜面の植生の違いである。挿図1はネパール中部からやや東に寄ったあたりのヒマラヤ高山帯で、立地の斜面方位と高度に対する植物群落の配置を解析した結果を示したものである。地点数が十分ではないのでかなり模式的なものになっているが、南北斜面の違いは Potentilla 広葉草原と Rhododendron 常緑矮低木群落との対立としてあらわれている。高山荒原が低高度では西向き斜面に限って現れているが、すでに述べたように高度四七〇〇メートルあたりを越えるとほぼ全面的に高山荒原の世界となっている。 Kobresia スゲ草原と Bistorta 落葉低木群落はどの方位にもみられ、方位にしばられていない。前者は露出した基盤岩の上に、あるいはそれを覆うごく薄い岩屑の上に成立し、後者は礫間の充填物質を失った巨礫の堆積地に成立するものである。そのような土地的特殊性が制約になっている一方、斜面方位には規制されていないということである。


[挿図1]斜面方位と標高に対する植物群落の分布範囲
1−Potentilla広葉草原でaは落葉矮低木を含むタイプ、bはそれを欠くタイプ。2−Rhododendron常緑矮低木群落。3−Bistorta落葉矮低木群落。4−Kobresiaスゲ草原。5−高山荒原でc、d、eはその下位単位。

 挿図2はネパール東部の高山帯植生について同じような解析を行った結果である。ただし対象地域は高度約四〇〇〇−四三〇〇メートルの範囲にあるのでここでは高度差は問題にせず、斜面方位と傾斜角度に対する植物群落の配置を解析している。この場合でも南向き斜面の Potentilla 広葉草原と北向き斜面の Rhododendron 常緑矮低木群落との対立は明瞭である。一方 Primula 広葉草原が緩斜面を占め、これは斜面方位と直接のかかわりはない。 Kobresia スゲ草原は挿図1でもみられるように各方位に出現するが、北向き斜面ではゆるやかな斜面に限られる傾向がみられる。


[挿図2]斜面方位と傾斜に対する植物群落の分布範囲
1− Potentilla 広葉草原。2− Rhododendron 常緑矮低木群落でa、bはその下位単位。3− Kobresia スゲ草原。4− Primula 広葉草原。

 整理すると次のようになる。

i 高度による植生の差。ほぼ全面的に荒原となる高山帯上部のゾーンと、高山荒原は特殊な一部(後述)に成立し、それを含めて多くの植物群落が立地をわけあって配置されている下部のゾーンとに分かれる[挿図1]。その境界はおよそ高度約四七〇〇メートルである。高度の影響は気圧の変化、それにともなう二酸化炭素濃度の変化などによるものもあろうが、温度の差を通して作用するものがもっとも顕著であろう。

ii 東西の斜面方位による植生の差。高山帯下部はほぼ連続な植被をもつが、ここにも局地的に高山荒原がみられ、これにはあきらかに地表の凍結・融解がかかわる。そのような現象が現れる場所には一定の条件があるが、西向きの斜面の上部、とくに鞍部となる稜線の西側斜面はその一つである[挿図1]。ヒマラヤの主風はかならずしも明かにされていないが、高山帯下部の西向き斜面にあらわれるこのような高山荒原に対しては、ジェット気流も含めた強い西風の影響が想定される。

iii 南北の斜面方位による植生の差。東西方向に走る尾根を境に南斜面に Potentilla 広葉草原、北斜面に Rhododendron 常緑矮低木群落が明瞭に分かれて配置されている例が随所にみられる[挿図1、2]。この二つの群落の土壌はともに高山帯のものとしては発達しており、群落の差が土壌の差によるものとは考えにくい。崖錐という共通の地形的条件下でもまったく同じ植生の差は確認されているので、地質、地形の差によるものでもない。おそらく斜面方位による日射の差そのものに起因するもので、日射がひなた斜面の地温・気温の上昇を生み、さらにそれが局所的な土地の乾燥を生み出すことに関連するものであろう。十分な降雨があればそのような差は顕在化しないはずである。南北の斜面で植生が顕著に違うこのような特徴は、乾燥地、半乾燥地のものとみられる。

vi 傾斜角度による植生の差。 Primula 広葉草原はしばしば地表水がある湿性の立地に成立する。当然のことながら立地の傾斜の条件は緩やかな方に限られる。反面 Potentilla 広葉草原は比較的急な斜面に限られ、 Kobresia スゲ草原もやや急な斜面にみられる。後者の配置については、北向き斜面に限っては緩傾斜地にのみみられ、急斜地には欠けているというように、方位との複合が見られる[挿図2]。

v 基質の特異性による植生の差。 Kobresia スゲ草原は基盤が露出した立地、あるいはその表面にごくうすく細粒の物質を載せた立地に成立する。 Bistorta 落葉低木群落は、巨礫の堆積地、例えば崖錐の一部で、ガリー侵食によって礫間の充填物質が失われたような場所にみられる。どちらも基質としての特殊性に依存して成立していて、反面、斜面方位のような条件には規制されていない[挿図1]。

vi 人為による植生の差。挿図1の Potentilla 広葉草原には二つのタイプの群落が記載されているが、一方には落葉性の矮低木が含まれる。この二つは挿図1で重複しており、立地の違いは特にない。この違いを生み出したものは立地条件ではなく、人為である疑いがある。ヒマラヤではごく一般的にヤク(ヒマラヤからチベット地域特有のウシ)の放牧が行われていて、広いヒマラヤはすみずみまで利用されているといって過言ではない。 Potentilla 広葉草原は、そのような放牧の際の採食によって、あるいは草地管理のための火入れによって、落葉矮低木群落から導かれたものではないかとの疑いがある。もしそれが事実とすれば、放牧の利用が与える影響が Potentilla 広葉草原のみに限られるとは考えにくく、 Kobresia スゲ草原、 Rhododendron 常緑矮低木群落などにも同様の人為圧による影響を考えなければならない。そのような影響を明らかにすることはヒマラヤの適正な土地利用、植生管理、自然保護などのために重要であるが、研究は進んでいない。



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ヒマラヤの高山帯植生の特徴と乾燥気候

 中部ヒマラヤの南側山腹斜面にあたる中部、東部ネパールでは、標準的に一五〇〇ミリ程度の年降水量があり、二〇〇〇ミリから局地的には四〇〇〇ミリに達するところもある。ところがこの雨は六月から九月の四カ月間に集中し、ほかの季節、とくに冬季はかなり極端に乾燥する。したがって雪は少ないはずで、積雪の直接の影響をうかがわせる植生、たとえば吹きだまりの植生と見られるようなものは見あたらない。前にのべたように日射の影響は顕著である反面、積雪の影響は微弱だというヒマラヤの高山帯植生の特徴は、日本の高山植生の特徴とは反対のものといってよい。日本の高山帯では雪田植物群落が顕著である反面、ひなた斜面と日影斜面との植生の違いはほとんどなく、この性格はユーラシア大陸の北部から東部にかけての高山植生に一般的なものとみてよい。ヒマラヤの高山植生の性格はそれとは明らかに異質で、積雪に替わって日射の影響が顕著である。日射の影響は土地の乾燥を介して植生の成立に顕在化するものとみられ、その機構は、乾燥しがちな気候を背景にして機能するものであろう。




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