The University Museum, The University of Tokyo : Material Report No.115
大野盛雄教授旧蔵資料について
原 隆一
1. 資料の背景
大野盛雄教授は1925年(大正14年)の生まれで、1950年に東京帝国大学理学部地理学科、1953年には経済学部経済学科の2つの学部を卒業し、1953年4月から東京大学東洋文化研究所の助手となる。1965年に東京大学東洋文化研究所専任講師となり、その後、1986年3月に退官するまで同研究所の教授として海外調査研究や後進の育成に努められた。1986年に東京大学を退官し、大東文化大学に移られた後も海外調査研究に専念し、それは、2001年4月に亡くなる直前まで続けられた。 大野教授の研究は、あくまでも現地調査にこだわった地域研究に特徴がある。対象地域が日本、南米、西アジアという大きく3つの地域にわたり、晩年、本人が語っていた「三角形比較文化論」という名称で捉えることができる。50年以上にわたる調査研究の現場で残された記録資料の大部分は、フィールドノート、日誌、原稿メモ、それに手書き地図などの紙資料、写真、動画などの画像資料、録音テープなどの音響資料からなる一次資料である。資料は大きく時代別に、調査歴にそって分類するのがわかりやすい。以下、時系列に調査とその時に収集された資料の概要を述べる。[1] 1950年代前半は、日本の農漁村の社会経済構造の調査研究が主たるものである。東洋文化研究所助手時代で、飯塚浩二教授のもとで日本漁村調査に集中する。とりわけ、全国4カ所の漁村の集中調査で収集した調査票、フィールドノート、図面、写真などの一次資料は貴重であり、その後に展開する国際比較調査研究の原点となるものである。
[2] 1950年代後半、初めての海外調査であるブラジル、パラグアイの現地調査に赴く。1956年、東洋文化研究所の泉靖一教授を団長とする日系移民のブラジルのサンパウロ近郊開拓村2カ所、それに、ブラジル奥地のアマゾン流域の日系仲買人と移民村の2カ所調査、また、1957年には、パラグアイ日系移民の村2カ所の調査をおこなっている。
[3] 1960年代に入ると、西アジア地域の研究がはじまる。1960年前半には、イラン農村5カ村の定点調査を実施する。その後も追跡調査を続けながら、1960年代後半になると、専門分野である人文地理学の理論的枠組を批判的に検討した論考資料が多く残る。
[4] 1970年代に入ると、科研費による「西アジア農村の人文地理学的調査」(1970年度から1974年度)を組織、その隊長として、西アジア地域の農村での長期間にわたる定点調査を開始する。第1回は、1970年のアフガニスタン2カ所の農村(カバービアン村と、ピアルヘイル村)、第2回は、1972年のイラン南部ファールス地方の農村(ポレノウ村)、そして第3回は、1974年、同じイラン南部のヘイラーバード村調査である。この時に収集した一次資料や記録類は、後の長期継続調査のための基礎となる貴重なデータであるとともに、大野教授自身も、これまでの農村の社会経済構造のみに力点を置いた調査視点から、そこに生きる生身の人間そのものを、つまり、農民像を追究しようとする新しい試みにシフトする転換期にあたる。
[5] 1980年代に入ると、1970年代後半から再びイランの農村調査にとり組んでいたところへ1979年2月のイラン・イスラーム革命に遭遇する。1978年からテヘランにある学術振興会西アジア研究センターに赴任中の出来事であった。これを契機に大きな社会変動のど真ん中にいて、国家レベルの、また、地方町や農村など全国末端レベルでの社会や人間が革命の影響で大きく揺れ動く様をリアルタイムで克明な記録を残している。他方、テヘラン現地で研究会を組織し、また、帰国後には東京でイラン革命研究会(IKK)を立ちあげて、「革命研究」に没頭する。その時期の日誌やノートのほか、現地で収集した膨大な記録テープなどの資料類が残されている。
[6] 1990年代前半には、科研費による「米の道」プロジェクトがスタートする。それは、これまでの長期にわたる定点調査から、「乾燥地の米」をキーワードにした広域横断型調査への研究スタイルの転換であった。乾燥地域における米をめぐる生産、流通、消費(米料理文化)の総合調査研究である。第一次調査(1988年度1年間)は、「米の道―西アジア(非モンスーン)米作社会の研究」題目で、西アジア(イラン、トルコ、シリア)の米作地帯を調査対象とした。第二次調査(1991年度から1993年度までの3年間)は、「米の道―西アジア・地中海地域における米作社会の研究」テーマで、西アジア(イラン、トルコ、エジプト)、中央アジア(キルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタン)、地中海(イタリア、スペイン、ポルトガル、チュニジア)、西アフリカ(シェラレオネ、ガーナ、コートジボアール)広範囲の米作地帯を対象としたものであった。
[7] 1990年代後半、大野教授は最後の仕事としてトルコ調査に集中する。まず、1992年には1年間、トルコ語習得のためイズミル大学に語学留学する。「現地調査には現地語をしっかり習得する必要がある」が口癖であった。そのことを最晩年になって自らが実践した。その後、中近東文化センター・アナトリア考古学研究所のメンバーに加わることで、トルコに拠点を移して地方の小都市カマン調査に晩年の情熱を捧げた。かつて、イラン高原の寒村を舞台にした『ヘイラーバードナーメ』(『イラン農民25年のドラマ』のペルシア語版)を、今度は、舞台をアナトリア高原の地方町に移して、そこにうごめく人間像を描こうとしたと思われる『カマンナーメ』の未完のワープロ原稿が残されている。
トルコの地方町研究の傍ら、1996年には夫人を伴い1ヶ月にわたるユーラシアバス旅行を、また、1999年から2000年にかけて同じく夫人を伴い、死の直前までの3ヶ月間、世界一周の船旅を試みている。身体の病に犯されながら、最後の力を振り絞り、大地に足をつけて歩いたフィールドワーカー、大野盛雄教授の最晩年の大仕事であった。
なお、詳細な業績内容については、原隆一・南里浩子編『大野盛雄フィールドワークの軌跡 Ⅰ―50年の研究成果と背景―』(大東文化大学東洋研究所、2017年3月、総197頁)を参照されたい。
2. コレクションの記載
データベースの記載方針につき以下、凡例を述べる。(1)登録番号(Registration no.): 本資料群は全てOM03で始まる。2003年に総合研究博物館で、整理を始めた大野盛雄教授旧蔵資料であることを示す。以下、便宜的に原稿、フィールドノートや地図などの資料を「書類」とし1番より、ポジフィルムやネガ、映像記録などを「写真類」とし1001番より、通し番号を付した。
(2)作成年(Year): 判明したものにつき記した。
(3)件名(Description): 整理者が内容を判断して命名した。
(4)備考(Notes):整理者の所見を記した。大野教授自身による記載および整理者が付したタイトルを鉤括弧内に、刊行物に関連する資料はそのタイトルを二重鉤括弧内に記した。また、写真図版に掲載したものは図版番号を太字で記した。
(5)写真図版(Plates):書類およびフィールドワークの際に撮影された写真を掲げた。フィールドワークの写真は教授自身の撮影になる。また、Plate 7は野久保雅嗣氏の撮影によるものである。