中谷治宇二郎の縄文研究

安孫子昭二


1. 中谷治宇二郎(1902–1936)は、1920(大正9)年・18歳で小松中学を卒業したが、才気煥発にすぎて先が読めてしまうらしく、職も学業も目まぐるしく変転している。22年・20歳のときインド哲学を学ぶために東洋大学に入学するが、翌年2月には中途退学してしまう。チフスに罹って静養しているうちに考古学へと関心が移っていったようで、24年・22歳のとき、今度は東京帝国大学理学部人類学科選科に入学して考古学を志す。東洋大学在学中から兄宇吉郎が学ぶ理学部物理学教室に足繁く通っており、宇吉郎の師寺田寅彦とも話す機会があり、また人類学教室の主任で考古学・民族学の泰斗鳥居龍蔵博士との出会いもあり転向したようである(法安2020)。

さらに加えるならば、22年9月に濱田青陵著『通論考古學』が刊行されていることに着目したい。考古学が人文と自然の両科学に深く関わると説かれているので、この書が中谷の琴線にふれたものと思われる。中谷の著作にこの書が影響したらしい箇所がいくつか認められる。


2. 中谷の考古学研究の全体像については、江坂(1972)、伊藤(1984)、高村(1996)、西秋(2001)等に詳述されている。ここでは屋上屋を架すことを回避し、選科修了論文『注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布』(以下『注口土器』という)(中谷1927)に特化して、中谷の縄文考古学研究をさぐってみる。

『注口土器』は、B5判で本文128頁に注口土器発見地名表、455点の資料明細表、図版説明等に20頁、それに図版10枚からなる、都合158頁というたいへんな労作である。

注口土器をテーマにしたのは、我国石器時代に注ぎ口をもつ特有の土器が存在することに着目してのことで、土瓶、急須のほかに中間的な形態もあるとし、注口土器と命名したのである。

中谷の研究方法は「我国石器時代各種の遺物を、主として形態観察の上から考察して、その分類を試みると共に、その各々が地方的に、又時代的に如何なる状態を示しているかと云うことを知るという」型式学的な方法である。この方法は同種多量の資料を前提とするが、卒論までの限られた期間に蒐集した注口土器は455点にのぼる。しかもその中の343点(75%)は、自らが全国の大学等研究施設に出向いたり、各地の蒐集家を訪ねて実測した資料である。発掘調査が乏しかった昭和初としては驚嘆すべき資料数であり、中谷の論文にかける意気込みがうかがえる。

『注口土器』の構成は、序説、Ⅰ.数量に基く遺物の研究、Ⅱ.形態に基く遺物の研究、要約、となっている。題名は「注口土器ノ分類」と「其ノ地理的分布」であるが、論述の仕方は逆で、「地理的分布」が先にきて「分類」が後になるため、縄文土器の編年研究に馴化した今日の研究者には読解しにくいものがある。順を追って見ると次のようである。

①~⑦ 蒐集した注口土器317点を基に、25年12月の人類学会例会で発表した論旨を詳述して第一回の集成としている。論述の仕方は第二回集成と複合するし、繁雑になるので割愛する。

⑧ 第二回として、138点が新規追加された注口土器455点の内訳を国別に表記(第8表)。

⑨ 「日本石器時代遺物発見地名表 第4版」から、出土点数の多い上位8国(陸奥・羽後・常陸・下總・陸中・武蔵・磐城)の遺跡数を抽出して第一回の注口土器点数と対比、一回目からの増加率をグラフ化(第9表)。

⑩ 国別1遺跡当り平均出土数を算出 各国遺跡数÷各国注口土器数=平均出土数(第10表)。

⑪ 国別の注口土器出土遺跡の平均出土数を算出 各国注口土器遺跡数÷注口土器数=平均出土数(第11表)。

⑫ 関東・東北の該当する国・郡別の注口土器出土遺跡の平均出土数を算出(第12・13表)。

⑬ 算出された郡別の点数を地図上に黒丸でおとし、分布密度により3地方圏(Ⅰ関東圏・Ⅱ南部奥州圏・Ⅲ北部奥州圏)と3地方圏内に5地帯(1 東京湾沿岸 2 霞ケ浦沿岸 3 陸前海岸 4 北上川流域 5 陸奥・羽後)を設定(第4図)。

⑭ 中谷(1925)分類の石匙750点を地方区分し、注口土器・土偶・石鏃との共変関係をみる。

⑮ 東木龍七の貝塚分布図の古地形を援用して、3地方圏における国別の注口土器遺跡とその点数を表示し、遺跡の位置とその出土点数を表示(例:関東圏→東京湾沿岸区→東京湾周辺系統→東京湾西群→東京群→3日暮里貝塚 5点)(第14~23表)。→ 注口土器の出土遺跡82カ所。

* 第一回317点のうち67点(21%)が陸奥国是川遺跡の出土と明かされる。

⑯ 82カ所の遺跡の位置に、Ⅱ章で分類する注口土器ABC型を記号化して地図上に点数をおとし込む(第1~3図版)。ここまでが「Ⅰ.数量に基く遺物の研究」。

⑰ ここから以降が「Ⅱ.形態に基く遺物の研究」。注口土器の「形式」にABCDの4つの型(「型式」)と其他(片口注口、環状注口等)を認める。

⑱ 4つの型と其他に分類された455点の国別出土数を表示(第24表)。

⑲ 出土点数の上位8国の型式別点数を、図枠に黒点で落としこむ(第10図)。

⑳ その型式別点数を、⑯で設定した8地方区に振り分けて表示(第25表)。

㉑ 8地方区のA・B・C型の点数の関係をグラフに表示(第26表)。→バラつきが大きい。


3. 中谷の遺物分類の仕方は、先の遺跡のしぼり込みと同様にリンネの生物階層分類のようである。注口土器(=形式)に4の型(A~D型式)があり、その下に主体部形状で区別される12の類(a~l類)があり、さらにその下に個々の土器で識別される48の群(1~48群)(=中谷の様式)を認める。文様も同様に4の型の下に9の類(a~i類)があり、その下に36の群(1~36群)を認める。個々の注口土器を識別する基準は、群になる。

そして形態と文様の共変関係を通して、分布密度の濃さにより核的な遺跡を中心とする地方色を抽出し、型式の経年変化につれて他の地方圏へ移動したと考える。こうして注口土器の分布域の中心が、当初、A型は東京湾周辺区にあったが、B型になると霞ヶ浦沿岸区に移り、さらにC型になると陸前海岸区を経て北部奥州圏へと移行したとするのである。D型は、C型に付随して5区馬淵川流域に顕著に認められる。中谷が分類した4の型は概略、下記のようである。

A型:相対する2ヶ所に環状把手がつく系統で、今日の堀之内式から加曽利B1式にあたる。A型a類の堀ノ内1式から2式への仔細な型式変化は、特徴が的確に捉えられている。

B型:体部形態が異なる各種の瘤付き土瓶形注口土器であり、今日の関東の安行2式(d類)、東北の瘤付土器(e類)、加曽利B2~B3式(f類)を包括する。中谷は瘤施文が多から少に推移するとした。実態は、f類の加曽利B式が先で関東のd類、東北のe類に推移する。

C型:陸奥式注口土器(中谷は亀ヶ岡式を陸奥式という)。壺形をしたh類、急須形で笠形口縁のi類、急須形で口縁が内傾するj類の三者に別け、実用的な器形のB型に類似する壺形のh類を古く、菱形の器形でも装飾帯が多いi類からj類に退化したものと考えた。文様も複雑から単純に向って、無文のD型に至ったと考えた。しかし3つの類は共存しており、文様も単純な三叉状文から羊歯状文を経て雲形文へと複雑化するのが実態である。また、各群の中には混入もみられる。

D型:無文の注口土器。陸奥式C型文様が退化したものととらえ、文様の少ない弥生土器に近縁的とみたが、実態は、B型の瘤付土器からC型亀ヶ岡式への過渡期の大洞B1式にあたる。


4. 中谷が選科に入学したとき、同じ年輩ながら先に入学して考古学経験をつんでいた山内清男・八幡一郎は、貝塚の層位学的調査による縄文土器の型式設定と編年研究を目ざして邁進していた(山内1928)。中谷は山内等の型式学による編年研究をことさら無視するように、縄文土器の形態と文様を微視的に観察して、群(=中谷の様式)による規則的な変化の方向性を認識した上で、複雑な文様がしだいに単純化すると考えた。この見方は、『通論考古學』に掲載された「祝部土器の提瓶の変遷図」と生物学上のルヂメント(痕跡器官)からの援用であろうし、「形式」「型式」「様式」の用語もあるので、この分類も同じく援用とみたい。

なお中谷の様式に対して、小林(1933)は、奈良県唐古遺跡に代表される同時期の弥生土器組成(貯蔵用壺形・煮炊き用甕形・供献用高坏)に様式の概念を適用した。今日その用法が定着している。


5. 『注口土器』について、人類学教室で中谷と机を並べた八幡(1928)は、中谷の異常なる努力と非凡なる才能に敬意を表しつつ、自身のフンドとしての遺物を第一義的とする演繹的な研究方法とのちがいを指摘、中谷の続編研究に期待するとした。山内(1929)は、関東地方の後期編年をはじめ福島県新地小川貝塚の調査(1969)、松本(1919)が分層的に調査した宮戸島里浜貝塚および長谷部言人が調査した大洞貝塚の資料も精査して、晩期亀ヶ岡式土器の変遷を確認していたから、中谷のC型とD型注口土器の変遷が逆転する誤りや統計処理の仕方にも苦言を呈した。その上で、「土器形式の内容の正しい認識、及び層位による序列を考慮しない形式学なるものは、少なくとも多数の階程を有する縄紋式土器の時期の諸遺物に関する限り、僥倖を頼まねばならぬであろう」と指弾したのであった。


6. とはいえ、中谷は文才だけでなく画才にも秀でていたが、それ以上に考古学に傾けた情熱は看過されるべきではない。それまで急須・土瓶と称されてきた器種に注口土器の名称を与え、大正末から昭和初のごく短い期間に驚くべき大量の縄文土器・土偶・土製品等を独力で実測して「遺物カード」を作成している。『注口土器』にしても、克明に観察して型・類・群の個々について適切に解説するとともに、算定した数値を統計処理してグラフにし、さらに地図上に落としこむ等、従来にない科学的な考古学手法を開発したことは高く評価される。これらは、未解明であった我国の石器時代文化を読み解くために試行されたさまざまな科学実験というべきであり、その手法は後世の研究者の指針になった。

中谷の注口土器を窓口にしたアラカルト的な型式学は、山内・八幡の一括出土遺物をフンドとして捉える型式学と相容れなかったが、編年研究への時期尚早な挑戦であったといえよう。

なお、中谷も層位学的調査による編年研究に対する不備は自覚していた節もある。「後日改めて編年的考察に相当する続編を記す」決意もあって、兄宇吉郎を頼ってフランスの民族考古学を学びに私費留学したが、異郷で病を得て帰国、34歳という若さで夭折したために果たされなかったことが惜しまれる。



引用参考文献

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江坂輝彌(1972)「学史上における中谷治宇二郎の業績」『中谷治宇二郎集 日本考古学選集24』江坂輝彌編:2–11。築地書館。

小林行雄(1933)「先史考古學に於ける様式問題」『考古學』4(8): 223–238。

小林行雄他(1943)『大和唐古弥生遺跡の研究』京都帝國大學文學部考古學研究報告16、京都帝國大學考古學研究室編、桑名文星堂。

高村公之(1996)「日本における様式論の創始者 中谷治宇二郎—その生涯と業績―」『古代文化』48(6): 358–372。

中谷治宇二郎(1925)「石匙に関する二三の考察」『人類學雑誌』40(4): 144–153。

中谷治宇二郎(1927)『注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布』東京帝國大學理學部人類學教室研究報告第四編、東京帝國大學編、岡書院。

西秋良宏(2001)「考古学者中谷治宇二郎の記録」『ウロボロス』13:3–5。

濱田青陵(1922)『通論考古學』大鐙閣。

法安桂子(2020)『幻の父を追って「早世の考古学者 中谷治宇二郎 物語」』 AN–Design & W riting。

松本彦七郎(1919)「宮戸島里浜貝塚の分層的発掘成績」『人類學雑誌』34(9): 285–315。

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山内清男(1969)「福島県小川貝塚調査概報」『山内清男・先史考古学論集・旧第十一集』: 260–273。

八幡一郎(1928)「中谷治宇二郎著 注口土器の分類と其の地理的分布」『人類學雑誌』43(1): 52–53。

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