読者諸賢は「関野貞」という人物を知っているだろうか? 知っているとしたら、「かなり通だ」、と自慢して良いかもしれない。
今回の展示の主役は、世の中に余り知られていない。例えば、広辞苑だと平成10年(1998)に刊行された第五版からようやくの登場となる(私が新規項目として挿入した。大幅な編集方針の変更でもなければ項目が減らされることはないから、今後多少有名になるかもしれない。)
それでは関野貞とは一体「何をした」人であったのか。明治28年、帝国大工科大学造家学科を卒業する前に、平等院鳳凰堂という建築に関する本格的な論文を発表した。卒業後は辰野金吾の下で日本銀行本店の仕事を手伝った。明治29年末から奈良に赴任し、傷んだ古い寺院建築の修理を始めると同時に、県下をくまなく調査して80余棟の文化財候補建築のリストを作成した。薬師寺、室生寺、唐招提寺、法隆寺その他の建築、仏像、工芸品に関する論文を多数書いた。法隆寺金堂などが、7世紀初め聖徳太子の時代のまま残っていることを主張して、かの有名な「法隆寺再建非再建論争」を引き起こした。平城宮跡を発見して、その研究で工学博士となった。明治34年からは東京帝国大学の教官になる。明治35年には朝鮮半島を踏査して、大量の建築と遺跡を確認した。明治44年頃からは、朝鮮半島で高句麗時代や三国時代の古墳の本格的な発掘調査を開始した。明治39年からは、中国を踏査して天竜山の石窟寺院を発見した。その後、歴代皇帝陵や金・遼の建築の調査を進め、昭和十年に病を得て急逝した。書籍としては、朝鮮半島や中国の文化財を収めた『朝鮮古蹟図譜』全15冊、『支那文化史蹟』全12冊その他、総計約70点、論文総数約400点、主要論文を集めた著作集が4冊、という膨大な仕事を残した。
以上が関野貞に関する乱暴な概要である。「何をしたのか?」と問われるならば、このように答えればよいだろう。だが、膨大な調査と研究の対象が記されているだけで、「何を考えたのか?」という研究の内容、特に質に関する答えにはなっていない。
実は、関野貞という人が、一体「何を考えて」調査と研究を進めたのか皆目判らないのである。急逝したから自らの回顧談を残さなかった、という理由もありえるのだが、研究余録とか放言含みの対談などが一切ないのである。没後に組まれた雑誌の追悼特集の記事を集めてみても「謹言実直」「怒ったことがない」「とても丁寧」「酒は一滴も飲まない」といった、褒め言葉ともなんともつかない言葉が列挙されるだけであって、研究動機や人物の奥底をうかがわせる余談の類は一つもなかった。今回の企画を進めながら、関野貞を一言で表す言葉を捜し続けたのだが、ついに見つからなくて、展覧会の題目を決めるのに苦労した。
しかし、関野の造り上げた膨大な蓄積は現在の文化財学の大きな基礎となっている。日本の建築史、工芸史、都城史、朝鮮の建築史、美術史、古墳学、中国の建築史、彫刻史、陵墓史、さらに石碑の歴史まで、それぞれの研究、学を始めた人物として確かな位置をしめているのである。結局、広大な地域を「踏査」して、「基礎資料」を収集し、「確かな基礎を造った」ということに帰着した。徹頭徹尾、近代的な学の基礎をつくり、そこから外れる思考や奇特の痕跡を一つも残さなかった。もし、こんな人が近くにいるとしたら、さぞや付き合いにくいことだろう。
図:平等院模型(明治37年納入) |
今回の展示は、関野の創始した近代の学の成立過程を辿ることが大きな目的であるが、その「基礎資料」の有力なものが展示されている。ここ数年の追跡で重要度が認識された関野貞自筆のフィールドカード(約4000枚)、そして基礎資料のうちの重要な写真、書類、模型、模写、瓦などの標本が所狭しとならぶ。具体的な対象名となると、関野が研究を開始した平等院鳳凰堂、法隆寺以下の奈良の寺院の建築と彫刻、朝鮮半島では古建築調査、そして高句麗壁画古墳である。東京大学に、一人の人物が生産・収集したこれほど多くの種類の、膨大な量の資料がのこされているのも、驚くべきこと、といって良いだろう。
関野貞と関野貞資料
もう一度問い直そう。「関野貞」という人物が一体誰なのか?
明治時代には大物かつ個性的な大学者が多数いた。博物学的な分野だと、鳥居龍造はその最たる人である。総合研究博物館に人類学部門があって、そこに鳥居のガラス乾板が収蔵されている。鳥居のアジア・世界の大旅行の痕跡を雄弁に語ってくれる。すでに展覧会も開催され、カタログ・書籍も出版されていて、その魅力はご承知のことであろう。人類学者であるから、秘境にどんどん入っていく。しかも生まれたばかりの子どもを連れて行ったというから、相当にオカシイ。
建築という分野での旅行家としては伊東忠太が有名である。伊東は日本で「建築史」という学を創始した人物として、また築地本願寺など一風変わった建築を設計した人物として、また怪獣風の動物画を多数のこした人物として、多少猟奇的な眼でも関心を集めている(博物館医学部門には、神谷敏郎先生の管理で、伊東忠太が愛蔵していたモグラのホルマリン漬けが、つい最近まで保管されていた。伊東忠太の描く怪獣のイメージの源泉の一つだったのだろう)。
一方関野貞というと、このような不思議な感性は一切ない。一滴も飲まずに徹夜の専門的議論も辞さないという人だったし、懇切丁寧で声を荒げたこともないらしい、という。しかも、家庭人としても模範的で、子どもの教育には熱心だったし、遊びにも連れて行く。徹頭徹尾、合目的的な人だったのだろうか。
(本学大学院工学系研究科/建築学・本館建築史部門主任)
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東京大学コレクションXX
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